たびたび起こる「炎上」。そのきっかけは、SNSで発した何気ないひと言かもしれないし、不倫かもしれない。しかしなぜ、「炎上」してしまうのだろうか。赤の他人の、自分とは直接関係のないプライベートな出来事で。
Twitterやインスタグラム、はたまたニュースサイトのコメント欄などを見ていると、空恐ろしくなることがある。皆、何にそんなに怒っているのだろうか。
いや、怒っている対象はわかる。なぜ「あなたが」そんなに怒っているのかがわからないのだ。
少し距離を置いて見てみると、いわゆる「叩いている」人の数は、そこまで多くないことがわかる。ただ、声が大きい。攻撃性が強い。そうすると、彼らの意見が正しく、しかもマジョリティであるかのように錯覚してしまうのだ。
そしてそこに「共感」が生まれる。共感を示すこと自体は何も悪いことではないが、偽物の集団心理がはたらき、大きく見える声となり、本来マイノリティであったはずの意見があっという間にマジョリティに変わる。
共感は、とても簡単にできる。起点が自分じゃないからか、純粋に、無責任に、「いいね」と言えるのだ。でも、それはとても危険なことではないだろうか。
よく「自分の意見をもつことが大切だ」と言う。その共感は、本当に「自分の」意見なのだろうか。ただマジョリティに見えるものに、流されているだけではないだろうか……。
こんなことを考え始めると、ますます声を上げづらくなる。「サイレントマジョリティ」という言葉があるが、私は声をあげない多数派なのだろうか。それとも、声をあげていない他の人は、私とまったく異なる意見をもっているのだろうか。
そもそも、マジョリティでなければいけないわけではない。マイノリティの意見も大切にしなきゃいけない、というのも少し違う。マイノリティだからこそかっこいい、という風潮ももっと違う。
難しくいえば「多様性」、平たくいえば「みんな違ってみんないい」。
あいまいに共感するのではなく、自分の頭で考えたい。
- 著者
- ジェームズ・クラベル
- 出版日
- 1988-07-20
1963年に執筆され、それから約20年後に出版された児童書だ。小学校の低学年でも読めそうな漢字しか使われておらず、ページ数は80ほど。数行しか書いてないページもたくさんあり、本当に20分ほどで読めてしまうかなり短い作品だ。
しかし、その内容はガツンと衝撃を与えてくる。
舞台はとある小学校。午前9時、教室に新しい先生がやって来る。明記はされていないが、生徒たちは敗戦国の子どもたちで、新しい先生は戦勝国の人だということがわかる。
先生はとても清潔でフレンドリー。歌やゲームをしながら、子どもたちと会話をしていく。そのなかで、国旗をハサミで切り刻み、彼らの親は間違った考えを持っていると諭し、神様へのお祈りは意味がなく、これからは神様ではなく「指導者」に祈るよう導いていくのだ。
当初は半信半疑だった子どもたちは、あたかも自分で考えてその意見に至ったという風に、先生の言葉に同調していく。
「先生はどうしてそういうふくを着てるの。かんごふさんのせいふくみたいじゃない」
「わたしのいたおくにでは、先生はみなおなじふくのほうがいいと思ってるのね。せいふくをきていれば、あれは先生だって、すぐわかるでしょ。」
(中略)
「もし、みんながこのせいふくを気にいったなら、みんなもこれとおなじせいふくをきてもいいのよ。そうすれば、きょうはなにを着て学校へいこうかなんて、考えなくてすむわね。みんなおんなじで、こうへいになるし」
子どもたちはすわったまま、かおを見あわせた。メアリーがいった。「でも、そのふく高いでしょ。だから、おかあさんにしかられるわ。」
(中略)
「でもこのふくなら、ただでもらえるのよ。プレゼントね。だから、おかねのことならしんぱいしないでいいのよ」
ジョニーがいった。「ぼくは、そんなふく着たくないよ」
「もらいたくなければ、もらわなくてもいいのよ、ジョニー。ほかの子は新しいふくを着たいというからそうするので、あなたは着なくてもいいわ」と新しい先生がいった。
ジョニーはこそこそといすにすわった。
(『23分間の奇跡』より引用)
本書は、自由とは何か、国家とは何か、教育とは何か、と問題提起をしてくる。
このジョニーという少年については、9時の時点では「にくらしいと思う気持が、おなかの底からわいてくる。負けるものかと思った。」とあるのに、最後には「ジョニーはすっかりまんぞくして、いいきもちになって、こしをおろした。これからは、先生のいうことをよくきいて、いっしょうけんめいべんきょうするぞ。」とすっかり心が変わった様子が描かれている。
子どもたち、特にひとつのクラスには、集団心理が強烈に働くだろう。声の大きい人に共感していれば、マジョリティになれる。そしてその声は、先生によっていとも簡単に誘導されていくのだ。
マジョリティへの純粋すぎる共感は、知らず知らずのうちに過激になっていく。
この記事の前半で私が書いたことと、本書の内容をむりやりこじつけるのはよくないかもしれないが、もう1度、自分の頭で「考えたい」。
SNSで、グループメッセージのやり取りで、ワイドショーで、私たちは共感しすぎていないだろうか。50年以上前に書かれた本が問いかけてくる。
困シェルジュ
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