5分でわかるABCD包囲網!石油政策や真珠湾との関係などわかりやすく解説

更新:2021.11.18

日中戦争を受けて日本に発せられた経済制裁「ABCD包囲網」。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事ではアメリカの対日政策を中心に、制裁内容をわかりやすく解説。石油輸出や真珠湾攻撃についても考えていきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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「ABCD包囲網」とは?いつどの国がおこなったのか簡単に解説

 

1930年代から1940年代初頭にかけて、日本に対しておこなわれた経済制裁または経済封鎖のことを「ABCD包囲網」といいます。アメリカ合衆国(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)の4ヶ国の頭文字からこの名前がつけられました。

経済制裁や経済封鎖という行為は、1803年から始まった「ナポレオン戦争」の頃に確立され、21世紀の現在でも使われている手法です。第一次世界大戦後に設立された国際連盟の規約でも、「軍事力を用いない平和構築の手段」として、集団的な経済制裁をおこなうことが認められています。

「ABCD包囲網」が用いられた要因は、日本と中国の紛争です。1931年9月18日に「満州事変」が起こり、国際連盟は日中間の紛争に介入することを決定。イギリスのヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする「リットン調査団」を派遣します。

彼らの調査結果は、「満州事変」のきっかけとなった「柳条湖事件」における日本軍の活動は自衛とは認められず、満州国の独立は自発的なものとはいえない、しかし満州事変以前の状態に戻すことは現実的ではないと、日本の主張も中国の主張も否定するものでした。そのため中国が要求した経済制裁は、流れることになります。

しかし、1937年の「盧溝橋事件」をきっかけに「日中戦争」が勃発すると、日本が中国に無差別爆撃したことを非難する「対日非難決議案」が全会一致で可決。さらに1938年には、国際連盟に加盟する国の判断にもとづき、対日経済制裁をすることができると理事会で判断されました。

また孤立主義ゆえに国際連盟に参加していなかったアメリカは、日中間の紛争に対しても距離をとっていましたが、フランクリン・ルーズベルト大統領は「盧溝橋事件」以降、日本の勢力拡大に対処する必要性を訴えるようになります。

さらに、1940年から日本がフランス領インドシナへの進駐を開始すると、ついにアメリカも経済制裁に加わり、「ABCD包囲網」が完成したのです。

「ABCD包囲網」におけるアメリカの対日政策をわかりやすく解説

 

アメリカは、「モンロー主義」と呼ばれる外交方針をとっていました。これは1823年にジェームズ・モンロー大統領が演説で述べたもので、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉を提唱した内容です。

この孤立主義方針を転換するきっかけとなったのが、1837年にフランクリン・ルーズベルト大統領がおこなった「隔離演説」でした。

この演説でルーズベルトは、世界中で実行されている侵略行為を「病人」にたとえ、「身体を蝕む疫病が広がりだした場合、共同体は、疫病の流行から共同体の健康を守るために病人を隔離することを認めている」と語っています。

1939年には「日米通商航海条約」の破棄を通告。1940年に同条約が失効すると、くず鉄や航空機用燃料など戦争に不可欠な物資の対日輸出を制限しました。資源に乏しい日本は苦境に陥り、オランダ領東インド、ブラジル、アフガニスタンなどの国と交渉を進めますが、アメリカはこれらの国にも圧力をかけて妨害しました。

1941年、資源の獲得を目指して日本がフランス領インドシナに進駐すると、アメリカは対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止を実施します。この制裁にイギリス、オランダが加わり、石油輸入の道を断たれた日本は追い詰められていくのです。

「ABCD包囲網」の結果。対日石油輸出が禁じられ、戦争に

 

イギリスのウィンストン・チャーチル首相は、「ABCD包囲網」を受けて、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」と語っています。

その言葉どおり、石油の約80%をアメリカからの輸入に頼っていた日本にとって、石油輸出の全面禁止は死活問題でした。

日本国内の石油備蓄量は平時で3年、戦時で1年半分しかなく、もしも開戦するならば急がなければなりません。軍を機能させることすらできなくなる、瀬戸際に追い詰められていたのです。

イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、後に「この状況で、日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する」と語っています。

「ABCD包囲網」と真珠湾攻撃陰謀論

 

石油が手に入らず追い詰められていった日本は、アメリカとの戦いを避けようと交渉に臨みます。1941年11月26日、日本が提示した妥協案をアメリカは拒否し、後に「ハル・ノート」と呼ばれることになる最終提案を提示しました。

「ハル・ノート」の内容は日本の要望をすべて無視するもので、「中国大陸からの日本軍の撤退」「日独伊三国軍事同盟の破棄」「重慶の国民党政府以外の否認」など厳しい要求ばかり。先述したリデル=ハートは、「いかなる国にも、このような要求を受けいれることは不可能だった」と述べています。アメリカ側に戦争を回避しようとする意図がないことは明白でした。

交渉は決裂し、日本は開戦を決断。1941年12月8日、真珠湾奇襲攻撃を実行し、「太平洋戦争」が勃発することになるのです。

この件に関し、アメリカは事前に日本の攻撃を察知していたのにかかわらず、わざと見逃したのではないかという「真珠湾攻撃陰謀論」がありますが、真相は定かではありません。

ただし1941年8月におこなわれたフランクリン・ルーズベルトとウィンストン・チャーチルの「大西洋会談」の際、ルーズベルトは「私は決して宣戦布告をするわけにはいかないが、戦争を開始することはできる」と述べていて、日本を追い詰め、開戦させるよう目論んでいたのではないかという指摘があります。

石油を確保するために

著者
["髙山 正之", "奥本 實"]
出版日
2016-12-15

 

「ABCD包囲網」という経済制裁を受けながら、ギリギリまで平和を求めて交渉に臨んだ日本。しかし提示された「ハル・ノート」は、誰が見ても、「アメリカに戦争を回避する気がない」とわかる厳しいものでした。追い詰められた日本には、窮鼠猫を噛む思いで戦うほか、道がなかったのです。

本書はそんな状況のなか、石油を確保するためにインドネシアのジャングルにパラシュートで降り立ち、精油所を抑えた奥本中尉の手記と、彼の息子の回想を記した作品です。

戦争の是非を問うのではなく、ただただ真実を語る一冊。重みのある歴史の1ページです。

ABCD包囲網から考える、戦争と経済

著者
加谷 珪一
出版日
2016-06-22

 

日本が「ABCD包囲網」によって「太平洋戦争」へと追い込まれていったように、戦争と経済は切っても切れない関係にあります。

本書では、戦争にはどのぐらいのお金がかかるのか、戦争は経済にどのような影響をおよぼすのかなど、戦争と経済を中心に日本とアメリカの歴史を解説しています。お金があるから戦争で勝てる、というだけでなく、お金があれば戦争を回避することもできるという視点も、興味深いでしょう。

戦争というと感情的な部分に目が行きがち。昨今の北朝鮮のミサイル問題など、一見ワケがわからない行為も、実は合理的なものだったと理解できるのです。文章はわかりやすいので、経済を専門的に学んでいなくても問題ありません。本書を読むと、日々のニュースの見方が変わるはずです。

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