前回、恥ずかしくて人の名前が呼べない話を書いたが、実はあれは「物忘れ」をテーマに書き始めたコラムだった。年々ひどくなる物忘れについて書くにあたって、人の名前を忘れる話を盛り込もうとしたところ、盛大に脱線してしまい、迷子になっているうちに物忘れというテーマごと忘れてしまってああなった。 そして今回何を書こうかと考えていたら、ふと前回の物忘れ忘れのことを思い出したので改めて書いてみようと思ったのだが、それよりももっと大事なことを忘れかけていることに気が付いたので、その件についてはまた思い出した時にでも書こうと思う。
さて、何を忘れかけているかと言うと、産後のことだ。ほんの4,5か月前のことである。
・・・と書きながら、もうそんなに時間が経っていたのかと驚いた。ちなみに妊娠中と出産そのもののことはもはやはっきりと思い出せない。
間違いなく人生始まって以来の激痛だったはずなのに、先ほどテーブルの角でぶつけた足の小指の痛みの方が切実なくらいだ。痛みの大小よりも新鮮さが勝るのかもしれない。なので、特に慌ただしい生活をしているわけではなくても、日々新しいことが起こると、記憶がどんどん塗り替えられてしまう。しかし、その(多分)痛くて(多分)辛かった出産の後のことは、(多分)がついてしまう前に書き記しておきたい。
娘は3週間ほど早く産まれてきた。2470グラムとほんの少しだけ小さかったが、アゴを震わせて大きな声で泣いた。
テレビで見るシマウマとかの赤ちゃんは、泣くどころか産まれてすぐに立とうとする。立つことができないと他の動物に襲われたりするからだと、昔誰かに教わった。生きるために、そうするのだ。
そして人間の赤ちゃんは産まれてすぐに立つことはできないけれど、生きるためにおっぱいを飲むことができる。口におっぱいを含ませると勝手にチューチュー吸い出す。誰に教わるわけでもなく、本能のままに。
彼女もそうして、おっぱいを飲んだ。でもそれは他の赤ちゃんより少なくて、だんだん飲むことを嫌がった。低血糖になったり、脱水になったりしないようにと、助産師さんや看護師さんたちが飲むのを手伝ってくれた。それでもなかなか上手くいかなかった。彼女は飲むのが下手で、私はあげるのが下手だった。どうしても飲まないときは看護師さんが哺乳瓶を使ってミルクを飲ませてくれた。たった10ミリ飲ませるのも大変で、飲んでる途中に疲れて眠ってしまうこともしばしばあった。
産まれて二日目に、黄疸の数値が高いと言われ光線治療することになった。目に光が入らないようにと、アイマスクをされ、裸にオムツだけの姿で透明な箱の中に入れられた。想像していた赤ちゃんよりずっと小さくてガリガリだった彼女は、何だか息苦しそうで痛々しくて、かわいそうだった。ナースステーションの隣の部屋にいるから、いつでも見に来ていいよと言われ、ちょくちょく様子を見に行った。箱を少し開けてもらって手を握ったり、なでたりした。おっぱいは飲めないことが多くて、哺乳瓶でミルクをあげてもらった。
三日目。赤ちゃんの心臓に小さな穴が開いているかもしれないと言われた。心雑音が聴こえるらしい。事実だけを先に伝えられて、動揺した。若い女性の先生はとても丁寧に、こういうことはたまにあるのだと教えてくれた。心臓の壁が出来上がっていない状態で産まれてきてしまうそうだ。自然に治ることも多いのだが、ミルクが飲めておらず体重が減ってしまっているのも気になるので、明日大きい病院に転院してしっかり診てもらおうということになった。なぜそうしたかったのかはわからないが、平静を装うのに苦労した。
次の日、転院先の病院には旦那さんが付き添うことになっていたが、私も外出許可をもらい、車での移動だけは一緒に行かせてもらえることになった。幸い、私は出産の傷はかすり傷程度。赤ちゃんを産んだ後はてくてく歩いて病室まで戻り、信じられない量の朝ごはんをペロリと平らげ、その後もモリモリ回復していた。それでも産後すぐに動き回るのはよくないからと、病院まで行ったらすぐにそのまま車で戻ってくるように言われた。
転院先までは助産師さんが付き合ってくれた。ヒガさんと言う名前の、とても明るい感じの女性で「先生は心配性やからね!大丈夫、大丈夫。ちゃんと診てもらった方が安心やから!」と励ましてくれた。ベテランの運転手さんが病院の車のハンドルを握り、赤ちゃんの隣にはヒガさんが座り、旦那さんと私は後ろの席に座った。初めて外に出た赤ちゃんは車の中でピィピィと子猫のような声で泣いた。元気がなかったからか、それまではあまり泣かなかったので、泣いたことが嬉しかった。とても可愛い声だった。
病院につくと、そのまま赤ちゃんはヒガさんに付き添われてNICU(赤ちゃんの集中治療室)に入り、私たちは小児病棟のデイルームで待っていた。しばらくするとヒガさんが戻ってきて、私は病院に帰ることになった。旦那さんは、これから受ける精密検査の結果を待ち、入院の手続きをしたり先生の説明を聞く。名残惜しかったが、かなり時間がかかるそうなので、仕方なかった。「じゃあ、後はお願いね。」と部屋を出ようとすると、不安だった私の表情を読み取ったのか、ヒガさんがこう言った。「ほら!もっとハグするとか!握手するとか!していいねんで!ほらほら!」戸惑いながらも、言われるがまま手を取り合ってみたら少し緊張が解けて、恥ずかしさに笑ってしまった。
そして、部屋を後にするとそのままロビーまで戻り、帰りの車をヒガさんと一緒に待った。だだっ広いロビーの椅子にぽつんと座り、何となく話すこともなくぼんやりしていると、ヒガさんは突然、私の背中を撫でながら「お母さん、しっかりしすぎやわ」と言った。
その瞬間に私は何かが決壊したかのように泣いてしまった。心配で、不安でたまらなかった。でも私がそれを口に出してしまったら、何だか状況がもっと悪くなるような気がして、言えなかった。「大丈夫。」そう唱えることで大丈夫になるんじゃないかと思っていた 。「もっと甘えたらええやん、もっと頼ったらええやん。」ヒガさんはそう言いながら、ずっと肩を抱いてくれていた。
帰りの車の中でも、ヒガさんは明るく話し続けた。
「沐浴の練習とかできひんかったなぁ。あっちの病院でも教えてくれると思うけど、もしできひんかったり不安なことあったら、いつでもこっちおいで。私がいない時でもナースステーションでヒガさんが教えてくれるって言ってましたって言ったら、しょうがないなぁってみんな教えてくれるから!」
運転手さんに私が泣いていることを悟られないようにしてくれたのかもしれない。私の返事を待つより先に、ヒガさんは次々話題を変えながら話した。その気遣いがとても嬉しくて、のどの辺りがじんわり温かくなった。
病室に戻ると、猛烈な寂しさに襲われた。産まれてからも赤ちゃんとはほとんど別々の部屋で過ごしていたのだが、同じ病院にいるのといないのでは気分が全然違う。静かな部屋はより静かに冷たく感じ、赤ちゃんが今どんな表情をしているのだろうと想像しては、悪い予感を頭から振り払った。
お昼を過ぎた頃、ヒガさんがやってきて旦那さんからの連絡はまだかと心配してくれた。まだだと答えると、今のうちに練習しておこうと搾乳機の使い方を教えてくれた。赤ちゃんが入院すると、母乳を冷凍して病院まで届けなければいけないらしい。冷凍のやり方も教わった。
しばらくすると、旦那さんから電話がかかってきた。検査した結果、心臓の穴は確かに開いているが、それはあまり問題ではなさそうとのことだった。赤血球の値が高く、それが原因でミルクを飲めなかったり身体に負担がかかっているので、点滴をして様子を見ると言う。早ければ1週間くらいで退院できるそうだ。悪いことばかり考えてしまっていたので、安心した。夕方くらいに戻ってきた旦那さんは疲れ切っていた。心配な上に、手続きやら何やらを全部一人でやって緊張もしたのだろう。つい数日前の出産の立ち会いの時には、量産型のぬいぐるみみたいな顔をしていたのに、急に少し父親っぽく見えた。
その翌日に私は予定より一日早く退院して、そのまま赤ちゃんが入院する病院へ向かった。初めて入るNICUには、産まれたての赤ちゃんが他にも4、5人入院していて、面会に来ている家族からミルクを飲ませてもらったり、オムツを変えてもらったりしていた。私は、NICUを怖いところだと誤解していた。小さな赤ちゃんが24時間体制で看護されるのだ。どこかピリついた雰囲気が漂っているものだと思い込んでいたのだが、そこにあるのは悲壮感ではなく、希望だった。
テキパキ働く看護師さんたちは、明るく柔らかい声で話し、家族たちはそろって赤ちゃんに笑顔を向けている。ドキドキして固くなっていた私だけがその場で浮いているようにさえ感じられるくらい、皆リラックスしていた。そこはこれから生きていくための、始まりの部屋なのだ。
娘がいる所に案内されると、昨日よりも元気そうに見えた。保育器の中に入ってはいるが、スヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。抱っこさせてもらって、ミルクもあげた。少しの量を飲むのに時間はかかるものの、頑張って飲んでいた。優しそうな先生の説明を聞いて、確かこの日はそのまま帰った。
結果的に、娘は3週間以上入院した。なかなか数値がよくならず、ミルクもあまり飲まないので長引いてしまった。その間、私は毎日病院へ通った。母乳を届けなければいけなかったのもあるが、毎日顔を見ないことには落ち着かなかったし、何より面会時間になっても誰も来なければ娘が寂しがるんじゃないかと思っていた。家族は心配して送り迎えしてくれた。午前と午後の面会時間にNICUに向かい、ただ抱っこしたり、時間が合えばミルクをあげたりした。
クリスマスもお正月も病院で過ごした。クリスマスには、看護師さんたちが娘にサンタさんの帽子を被らせ写真を撮ってくれていて、先生サンタからは靴下のプレゼントをもらっていた。お正月も鏡餅と一緒に写真を撮ってもらった。
徐々に元気になってくると、沐浴の指導をしてもらったり(ここで丁寧にしてもらったのでヒガさんに教わらずに済んだ)、薬の飲ませ方を教わって実際に飲ませたり、お腹にガスがたまると苦しくてミルクが飲めないからと、ガス抜きの練習もした。哺乳瓶からではなく、おっぱいから直接母乳をあげるようにもなっていった。看護師さんたちは皆とても親切で優しくて、一か月の間に思い出がたくさんできた。イベント以外にも写真を残してくれていて、退院するときにアルバムにまとめてくれた。娘の初めての宝物だ。
私は、病院でも自宅でも3時間おきに搾乳をして、冷凍した母乳を届けた。はりきって絞り過ぎて、退院するときには大量に余っていたほどだった。今思えば、夜中にまでわざわざ起きなくてもよかった気がするが、少しでもたくさん届けようとしていた。
そして、そうやって病院に通いながら、役所にも行ってあれこれ手続きもしなければいけなかった。ゆっくりするはずの産後一か月を、とにかく動いて過ごした。今思えば、しんどかったと思うし、今同じことをやるのは辛い。しかし、このときはほとんどそんな風に思わなかった。アドレナリンが出ていたのかもしれないが、きっと違う。私が治療も受けているわけではないのに、病院へ通うことで元気をもらっていたのだ。先生や看護師さんたちからの励ましと、娘から発せられる希望に。
退院後も朝晩には薬を飲ませ、授乳毎にガス抜きをしなければならず、これも今思えば大変だった。何度か病院へも通ったが、4か月経った頃にようやく薬もガス抜きも必要なくなり、心臓の穴もほとんどなくなった。先生からは「あと少し検査は必要ですが、それは良くなっていく様子を見守るためにです。」と言われ、その優しい言葉の選び方に感動した。
そして娘はスクスク、いやムクムクと成長してあっという間に標準体重に追いついた。大変だった授乳も息が合うようになった。先日行った予防接種の病院では、他の赤ちゃんが眠ったり泣いたりぼんやりしたりしている中、一人ゲラゲラと笑い、注射の時は誰よりも大きな声で泣いた。
一日一日、違う顔を見せ、成長を続ける彼女を見ていると大変だったことなんて、忘れてしまいそうになる。渦中にいる時はさほど大変なことでもないように思っていたからだろうか。しかしこれは、今だから言えることだろう。その時はやはりものすごく心配だったし、病院から電話が鳴ったらどうしようと、いつも携帯をそばに置いていた。退院が決まるまでは、先の見えない不安がまとわりついた。
忘れることがいけないことだとは思わないし、どうしたって忘れていくものだと思う。それでも敢えて書き記しておきたかったのは、ひとつ心残りがあるからだ。
ヒガさんにちゃんとお礼が言えなかった。退院する日にはヒガさんがおらず、その後はずっと転院した病院に通っていたので会えずじまいだった。病院へ遊びに行くわけにもいかないし、行ったところで会えるかもわからない。そもそも忘れられている可能性だってあるが、いつか娘と一緒にお礼が言いたい。
恥ずかしがらずに、名前も呼べそうだ。
- 著者
- たにかわ しゅんたろう
- 出版日
- 2019-03-13
子供の初めての絵本は何にしようと本屋さんをブラブラしていると、旦那さんが「簡単だけど、刺さるよ」と持ってきた本です。平和と戦争の比較をごく短い言葉と絵で表しているのですが、変わらないものほど心に突き刺さります。子供にもいつか読ませたいですが、大人こそ読むべき絵本です。忘れてはいけないことが描かれた一冊。
- 著者
- 本谷 有希子
- 出版日
- 2018-10-16
日々を忘れるスピードが速いなと気が付いたときに思い出した一冊です。だんだん顔が似てくる夫婦の物語。それぞれが取る行動とその果てが、現実離れしているようで実はそこら中にあるんじゃないかと思いました。そして私は主人公であるサンちゃんよりも、ぐうたらしてる旦那の方に近いような気が・・・。自分の顔さえ忘れそうな時には読み返したいです。忘れなければ。
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