NHKの大河ドラマ『麒麟がくる』で注目が集まっている明智光秀。「本能寺の変」を起こした彼は、わずか数日後の「山崎の戦い」で最期を迎えることになります。一体どんな戦いだったのでしょうか。背景と経過、敗因などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1582年6月13日、現在の大阪府と京都府の境に当たる山崎という場所で、明智光秀軍と羽柴秀吉軍が衝突した戦いを「山崎の戦い」といいます。明智光秀が主君である織田信長に反旗を翻した「本能寺の変」から、わずか11日後のことでした。
まず、「本能寺の変」が起きた時の、織田家の武将たちの状況を確認しておきましょう。柴田勝家は越中の魚津城で上杉家と交戦中。滝川一益は上野の厩橋城で北条家と対峙。羽柴秀吉は備中の高松城で毛利家と戦闘中。そして信長の盟友である徳川家康は堺の街を見学し、帰国する途中でした。
つまり主君が危機的状況ながら、ほとんどの武将が自陣の管理に手一杯だったのです。明智光秀に対抗できそうな勢力は、唯一大阪にいた織田信長の三男である織田信孝と、丹羽長秀の軍勢です。彼らは四国の長宗我部家を討伐するための準備をしていましたが、混乱する情勢に右往左往するばかりで、目立った成果をあげることはありませんでした。
高松城を包囲中だった羽柴秀吉のもとに、「本能寺の変」の報せが届いたのは、事件翌日の6月3日です。4日、秀吉は城将である清水宗治の切腹を条件に毛利家と和睦を結び、5日から6日にかけて兵を引き上げます。
7日に自身の居城である姫路城に到着し、光秀を討伐するために挙兵しました。秀吉軍には、池田恒興、中川清秀、高山右近など摂津の武将、さらに大阪にいた織田信孝、丹羽長秀らが合流。12日には富田で軍議を開き、名目上の大将に織田信孝を据えています。
その一方で光秀は、「本能寺の変」以降京の治安維持を図るとともに、居城である坂本城や、織田家の本拠地である安土城がある近江の制圧に力を注いでいました。秀吉よりも、北陸からやってくるであろう織田家最強の柴田勝家を警戒していたと考えられています。
また畿内周辺の大名たちに自分の味方になるよう要請していましたが、近江瀬田の山岡景隆、景佐兄弟、日野城の蒲生賢秀、氏郷親子、丹後の細川藤孝、忠興親子に断られてしまいました。大和の筒井順慶は、表向きは光秀の要請に応じつつ、秘かに秀吉に寝返っています。
こうした状況で、6月10日に秀吉が急接近しているという情報を得たものの、光秀は十分な態勢を整えることができないまま戦に臨むことになるのです。
秀吉軍はこの時、約4万人にも膨れがっていたそう。一方の光秀軍は1万6千人ほどしかいませんでした。
6月12日、明智光秀軍と羽柴秀吉軍は、円明寺川を挟んで対峙します。当時の山崎は沼地が広がっていて、大軍が通過できるのは天王寺と沼に挟まれた狭い場所に限られていたそう。そこで光秀軍は、この出口を塞ぐように左翼に津田信春、中央に斎藤利三と伊勢貞興、右翼に松田政近と並河易家という布陣で臨みます。
一方の秀吉軍は、本陣を後方の宝積寺に置き、左翼前方に中川清秀と高山右近、後方に黒田孝高と羽柴秀長を配し、右翼前方に池田恒興と加藤光泰、後方に織田信孝と丹羽長秀、そして予備兵力として本陣前方に堀秀政を置くという布陣でした。
本格的な戦いは、6月13日の午後4時頃から始まります。秀吉軍の中川清秀の隊に、光秀軍の伊勢貞興が襲い掛かったのです。伊勢貞興は旧室町幕府の幕臣で、足利義昭が信長によって追放された後に光秀に仕えた人物。若干20歳の若武者ながら智勇に優れ、明智家中では斎藤利三に並ぶ武将として評価されていました。
そんな伊勢貞興の奮闘に、光秀軍の主力だった斉藤利三隊も加わり、中川清秀隊は苦戦を余儀なくされます。秀吉軍は高山右近と予備兵力である堀秀政を投入し、何とか戦線を持ちこたえました。
天王山周辺では、山麓に布陣していた秀吉軍の黒田孝高、羽柴秀長らと、光秀軍の松田政近、並河易家が激突。こちらも一進一退の攻防となりました。
「山崎の戦い」の戦況が大きく変わったのは、午後6時頃です。淀川沿いを北上した池田恒興と加藤光泰が、円明寺川を渡って津田信春を奇襲したのです 。津田信春が混乱しているうちに、丹羽長秀と織田信孝も加わり、光秀の本陣に迫りました。
これを受けて、中川清秀と高山右近も、伊勢貞興、斉藤利三を押し戻すことに成功。光秀軍は総崩れに陥り、光秀は戦線後方の勝竜寺城へ退却を余儀なくされます。乱戦のなかで伊勢貞興、松田政近らは亡くなり、斉藤利三も後に潜伏先の堅田で捕らえられて刑に処されたそうです。
光秀は、勝竜寺城から居城である坂本城を目指して逃げる最中、小栗栖で落ち武者狩りに襲われ亡くなったと伝えられています。
中国の儒学者である孟子は、戦略が成功するための三条件として「天の時」「地の利」「人の和」の3つを挙げました。「山崎の戦い」において明智光秀が敗れた要因も、まさにこの3つであると考えられるでしょう。
まず「天の時」とは、天候です。一般的に、兵力に大きな差がある場合は、籠城戦で戦うのが定石とされています。しかし光秀は、兵力で劣るにも関わらず野戦を挑みました。この時すでに、柴田勝家と徳川家康が挙兵をして進軍中で、籠城戦をして秀吉軍との戦いに時間がかかると、彼らが到着して圧倒的に不利な状況になってしまうという理由がありました。
もちろん無策で挑んだわけではなく、秀吉軍を迎え撃つために大量の鉄砲を用意していました。しかし「山崎の戦い」が起こった日の天候は雨。せっかく用意した鉄砲を使うことができなかったのです。
次に「地の利」です。山崎という場所は、天王山と淀川に挟まれ、沼地が散在し、もっとも狭いところだと幅が200mほどしかありません。もしこの狭い場所で戦っていれば、秀吉は大軍を活かすことができなかっただろうと考えられています。
しかし実際の戦場となったのは、狭い場所を抜けた円明寺川の周辺でした。秀吉軍は自身の大軍を活かして勝利したのです。
なぜ光秀が狭い場所を選ばなかったのかというと、そこに大山崎の町があったからだと考えられています。交通の要衝として古くから栄えていた大山崎。光秀は「本能寺の変」の翌日に、大山崎の略奪や破壊行為を禁止する令を出していました。これは簡単にいうと、大山崎を戦場にしないと約束したということ。真面目な性格だった光秀は、約束を守り、自ら優位に立てる戦場を放棄したのです。
最後に「人の和」です。これは、最大の敗因である兵力差のこと。光秀は、自身の仲間になってくれるだろうと期待した多くの武将に、断られています。部下だった中川清秀と高山右近は秀吉につき、もっとも頼りにしていた細川藤孝、忠興親子は中立を守りました。
ちなみに忠興の妻は、光秀の娘である細川ガラシャです。光秀は娘婿にまで見限られるという、圧倒的に不利な状況で戦っていたのでした。
「山崎の戦い」で勝利をし、いち早く主君の仇を討った羽柴秀吉。織田家中における発言権を増大させます。
「山崎の戦い」から約2週間後の1582年6月27日におこなわれた、信長の跡目を決める「清州会議」では、信長の孫である三法師を後継者に据え、織田家の実権を掌握することに成功しました。
1583年の「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家を倒し、1584年の「小牧・長久手の戦い」を経て徳川家康を従えると、紀州征伐、四国攻め、九州征伐を経て、1590年にはついに北条氏を屈服。天下統一を果たしました。
織田家の一武将だった秀吉が天下を統一し、「太閤」豊臣秀吉へと雄飛するきっかけとなったのは、紛れもなく「山崎の戦い」での勝利です。しかし当時秀吉の勝利に貢献した武将たちの多くは、その後数奇な運命を辿ります。
名目上の総大将だった織田信孝は、秀吉と対立して切腹。丹羽長秀は120万石を越える大名になりましたが、1585年に寄生虫病の苦しみに耐えかねて自刃。中川清秀、池田恒興、堀秀政らは、秀吉が天下をとる過程で戦死。キリシタン大名となった高山右近は国外追放され、加藤光泰は朝鮮出兵の陣中で毒殺ともいわれる不可解な死を遂げるのです。
「山崎の戦い」は、まさに秀吉のひとり勝ちだったといえるでしょう。
秀吉が天下人に雄飛するきっかけとなった「山崎の戦い」。天下分け目の戦いであり、現代にも残る多くの言葉が生まれています。
もっとも有名なのが、「天王山」という言葉です。物事の勝敗を決めるうえでの正念場を意味します。『太閤記』などの書物に、「山崎の戦い」の決定的な勝因として、秀吉がいち早く天王山を占拠したことが描かれていたため、世間に広がることとなりました。
しかし実際には天王山を巡る戦いの形跡はないので、近年の研究では天王山の争奪戦が勝敗を決めたわけではないとするのが一般的です。
また「三日天下」という言葉も有名です。極めて短い期間しか権力を握れないことを意味する言葉で、明智光秀が天下を握っていたのが、「本能寺の変」から「山崎の戦い」で敗れるまでの12日間だったことに由来しています。
さらに「洞ヶ峠」という言葉もあります。事の成り行きをうかがって進退を決しない日和見主義を指す言葉。これは光秀に出兵を要請された大和の筒井順慶が、洞ヶ峠に布陣したにも関わらず戦闘に加わらなかったことに由来しています。
- 著者
- 江宮 隆之
- 出版日
- 2015-02-10
「勝てば官軍」という言葉があるとおり、歴史は勝者の目線から語られるものであり、敗者には悪のレッテルが貼られます。しかし近年の研究では、歴史に隠された事実に光を当てようとする動きがあります。「本能寺の変」で「謀反人」というレッテルを貼られてしまった明智光秀も、再評価が試みられている人物のひとりです。
足利幕府にも仕えていた明智光秀。織田家譜代の家臣なわけではないなかで頭角を現し、信長の右腕にまで出世しました。それは、彼の誠実な生き方によるもの。仕事においても人柄においても「誠」を貫き、信長から絶大な信頼を受けていたのです。
本書を読むと、「本能寺の変」を起こすまでの過程で、光秀の胸中で自身の「誠」と信長への「恩」がせめぎ合っていたことがよくわかるでしょう。
- 著者
- すぎたとおる
- 出版日
- 2011-01-14
家柄ではなく、実力主義での人材登用をおこなった織田信長。家臣に厳しい任務を課し、期待に応えられない者は譜代の重臣であろうと情け容赦なく追放する一方で、成果を挙げれば出自に関らず抜擢する人事をしていたそうです。織田家に有能な人物が多く集まった理由のひとつだといえるでしょう。そんな家臣のなかでも、出世頭として双璧を成していたのが、明智光秀と羽柴秀吉でした。
本書は、光秀の前半生から、「本能寺の変」を起こし「山崎の戦い」で倒れるまでの生涯を描いた伝記です。漫画なので、登場人物が多くても大丈夫。当時の状況をリアルにイメージしながら読むことができます。
光秀はなぜ主君である信長に反旗を翻したのか、そしてなぜ「山崎の戦い」で秀吉にやすやすと負けてしまったのか……その人柄と生きざまを垣間見れる一冊です。