5分でわかる比叡山延暦寺の歴史!最澄、焼き討ち、修行などを簡単に解説!

更新:2021.11.19

日本の仏教界において数多くの僧侶を輩出し、母山として知られる「比叡山延暦寺」。京都と滋賀の県境にあります。この記事では、開祖である最澄や歴史、寺社勢力、信長の焼き討ち事件、修行など延暦寺にまつわることをわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本も紹介していきます。

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比叡山延暦寺の歴史。最澄が建設し天台宗の総本山に

 

788年に僧侶の最澄が「一乗止観院」という草庵を創建し、本尊として薬師如来を刻んだことが「比叡山延暦寺」の歴史の始まりです。延暦寺という寺号は、当時の元号「延暦」にちなんで、823年につけられました。

実は単独の寺ではなく、比叡山の山中の東側を「東塔(とうどう)」、西側を「西塔(さいとう)」、北側を横川(よかわ)」と3つの区域に分けて、それぞれに本堂があります。堂塔自体は150ほど、最盛期にはなんと3000を超えていたそうです。

比叡山延暦寺は、天台宗の総本山です。開祖である最澄は、767年に近江国の豪族、三津首百枝(みつのおびとももえ)のもとに生まれました。幼名は広野(ひろの)といい、12歳で近江国の大国師だった行表(ぎょうひょう)のもとで出家。14歳で得度して最澄と名乗っています。

比叡山の始まりとなる「一乗止観院」を建てたのは、21歳の時。その後37歳の時に、空海とともに遣唐使として唐にわたっています。天台山で天台教学を学びました。最澄が学んだ教えは、「誰もが菩薩であり、悟りを開いて成仏することができる」というもの。これは旧来の仏教思想とは相容れないものです。

当時の日本では、僧侶は国家資格であり、国家公認の僧侶になるには戒壇にて儀式を受ける必要がありました。戒壇は奈良、福岡、栃木の3ヶ所にしかありません。そのため、旧来の思想と相いれない天台宗を学んだ者が国家公認の僧侶になるのは、果てしなく大変だったのです。

最澄は805年に帰国をすると、比叡山延暦寺に「大乗戒壇」を設置することを悲願としました。戒壇の設置は、旧仏教から独立して独自に僧侶を養成することを可能にする意味合いがあります。

結局、比叡山延暦寺に大乗戒壇の設置が認められたのは、822年に最澄が亡くなった7日後のこと。それ以降、日本仏教の中心を占めるようになったのです。

1200年以上にわたる歴史と伝統が認められ、1994年には「ユネスコ世界文化遺産」に登録されています。

比叡山延暦寺はやがて強大な寺社勢力をもつように

 

「日本仏教の母山」といわれる比叡山延暦寺。円仁慈覚大師、智証大師など天台宗の基礎を築いた高僧だけでなく、融通念仏宗の開祖である良忍聖応大師、浄土宗の開祖である法然、浄土真宗の開祖である親鸞、臨済宗の開祖である栄西、曹洞宗の開祖である道元、日蓮宗の開祖である日蓮など多くの名僧を輩出しています。天台法華だけでなく、密教や禅、念仏も教えていた延暦寺は、いわば総合大学のようでした。

また桓武天皇が最澄に帰依したことをきっかけに、皇族や貴族からも尊崇を集め、勢力を増していきます。

しかし比叡山延暦寺の僧侶たちは、やがて円仁派と円珍派に分かれて激しく対立するようになります。992年には、円珍派の僧侶が比叡山を降りて園城寺に立てこもるように。ここから比叡山延暦寺に残った円仁派は「山門」、園城寺の円珍派は「寺門」と呼ばれ、抗争を続けるのです。

争いのなかで僧侶は武装をし、「僧兵」と呼ばれる軍事力をもつまでになりました。平安時代の後期には、強大な権力を有していた白河法皇でさえも、自分の意のままにならない「三不如意」のひとつに数えるほどの存在になります。

僧兵たちは、神仏の威を背景に、時の権力者に自らの主張を無理やり通す「強訴」をたびたび実行。奈良の興福寺とあわせて「南都北嶺」と呼ばれ、圧倒的な寺社勢力を誇るようになるのです。

鎌倉時代になり、武士の世に移り変わってもその権力は変わらず、平清盛や源頼朝にすら要求を飲ませていました。

比叡山延暦寺の勢いを初めて制圧したのは、室町時代の第6代将軍、足利義教(よしのり)です。彼はもともと義円と名乗る僧侶で、比叡山延暦寺にて天台座主を務めていました。しかし将軍になった後は対立するようになり、1435年に比叡山を制圧。根本中堂をはじめいくつかの堂塔が燃えています。

1441年に「嘉吉の乱」が起こって義教が討ち取られると、比叡山延暦寺は再び武装し、戦国時代にはなかば独立国家のように振る舞うようになりました。

織田信長の「比叡山焼き討ち」とは

 

1571年9月30日、「比叡山焼き討ち」事件が起こります。背景には、織田信長と比叡山延暦寺の対立があります。

当時勢力を拡大していた信長は、延暦寺がもっていた領地を横領しました。延暦寺側は朝廷にも働きかけて返還を求めましたが、信長は従いません。

1568年、足利義昭が第15代将軍に就任。義昭は信長の後押しがあって将軍となった人物だったので、これをよく思わなかった朝倉義景が新将軍への挨拶を拒否してしまうのです。

怒った信長は、朝倉が治める越前へ侵攻。しかし朝倉と古くから親しかった浅井長政が率いる軍に背後を襲われてしまいました。この戦いを「姉川の戦い」といいます。

結局戦いは、形勢逆転した信長が勝利。負けた朝倉、浅井両軍は比叡山延暦寺に逃げ込むのです。両者をかくまい続ける延暦寺に対し、信長は数度にわたって引き渡しを要求しましたが、延暦寺はこれを拒否。そしてとうとう、信長は3万人もの兵を送りこみました。

男女関係なく殺され、比叡山のほとんどが焼き尽くされたそう。江戸時代初期に成立した『信長公記』には、数千人の死者が出たと記録が残っています。

その後の比叡山延暦寺は、信長の死後に豊臣秀吉、徳川家康、家光らが再建。しかしかつての強大な寺社勢力が復活することはありませんでした。

比叡山延暦寺の修行について

 

現在も比叡山延暦寺ではさまざまな修行がおこなわれています。代表的なものをご紹介しましょう。

四種三昧(ししゅざんまい)

比叡山延暦寺におけるもっとも古い修行法です。中国の論書『摩訶止観』にもとづき、食事と用便以外のすべての時間を座禅に捧げる「常坐三昧」、念仏を唱えながら本尊阿弥陀仏の周りを歩き続ける「常行三昧」、歩いたり座ったりしながら法華経の読誦や礼拝をする「半行半坐三昧」、毎日の生活そのものを修行と考える「非行非坐三昧」の4つで構成されています。

十二年籠山行

「籠山」とは、山に籠って修行をすること。籠山行に入るためには、まず好相行をしなければなりません。好相行とは仏の名を唱えながら礼拝をし、仏の姿が見えるまでは休むことができないというもの。その後戒を受け、12年間の籠山行に入るのです。

籠山行の間、僧侶たちは、伝教大師に食事を献じ、俗世間から離れて座禅や勉学、境内の清掃などに勤めます。

千日回峰行

比叡山の峰々を1000日間ぬうように歩き、礼拝をするもの。比叡山延暦寺の修行のなかでももっとも厳しいとされています。7年かけておこなわれ、1~3年目は1日30kmを100日間、4~5年目は、1日30kmを200日間、6年目は1日60kmを100日間、7年目は1日60kmを200日間おこないます。その間、9日間の断食・断水・不眠・不臥もあるというのだから驚きです。

回峰行者は頭に桧笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋をはいて、腰には死出紐と短剣をもっています。途中で挫折をした際は、自ら命を絶つという厳しさを表す格好です。

満行すると「北嶺大行満大阿闍梨」と呼ばれるようになります。1200年の歴史のなかでわずか51人しかいないそうです。

初心者におすすめの一冊

著者
横山 照泰
出版日
2011-07-24

比叡山延暦寺でおこなわれている修行を、誰にでもわかりやすく解説した作品です。仏教の入門書は、その多くが入門書でありながら難しい言葉が多く用いられていますが、本書は写真を交えつつ平易な言葉で綴っているのが特徴です。
 

「無宗教」でありながら多くの日本人がお寺に行くように、実は仏教の教えは私たちの生活に深く根付いています。そして、そのほとんどが比叡山延暦寺から生まれたといわれているのです。

キリスト教など他の宗教との対比もあり、仏教と比叡山延暦寺について易しく理解できる一冊です。

比叡山延暦寺の祖、最澄のゆかりの地をめぐる

著者
["堀澤 祖門", "水尾 寂芳"]
出版日
2007-03-31

 

中国から日本に天台宗を持ち込んだ伝教大師、最澄。本書は、もともとは地方豪族の家に生まれた彼の、ゆかりの地をめぐる作品です。

比叡山延暦寺とひと口に言っても、東塔、西塔、横川とそれぞれに趣が異なります。最澄にゆかりのある古寺をめぐりながら、彼の精神世界に迫ることができるでしょう。

比叡山延暦寺でもっとも厳しいとされる修行「千日回峰行」を満行し、「北嶺大行満大阿闍梨」となった叡南俊照のインタビューも掲載。実際に現地を訪れた際のガイドブックとしてもおすすめです。

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