『標本のイデア』は青年漫画レーベル「ジヘン」で連載されている河原映里の作品です。妻の失踪の原因を調べていた新聞記者が、ある国の国教の聖域で行われている秘密を知り、それが世界規模の問題に発展していく近未来ディストピアサスペンス。
世界中が深刻な食糧危機に見舞われてから100年近く経った頃。「神の国」とも呼ばれるモルタ国は、本当に神の加護があるかのように繁栄していました。その影で不審な出来事があることも知られずに。
新聞記者ウォルター・アットウェルは、10年前に失踪した妻ロゼのことを今も探していました。ロゼが失踪した結婚記念日の前日、モルタ国教のミサの日に何が起こったのか。八方手を尽くしたウォルターは国内で唯一立ち入りが出来ない、「聖地」に当たりを付けます。「聖地」はモルタ国教の洗礼を受けた、選ばれし者のみが入れる聖域でした。
危険を承知で「聖地」へ近付いたウォルターは、青いガーベラの花畑と柵で囲まれた場所で、謎の少女を目撃します。直後、ウォルターは教会に捕らえられ、おそらく10年前にロゼの身に起きたこととと同じ体験をすることに……。
食料危機を救った国教と「聖地」の秘密、その知られざる関係を巡って、人々の思惑が錯綜したミステリアスなドラマが展開されていきます。
標本のイデア 1 (ジヘン)
2018年11月29日
本作には特定の主人公がいません。数人の主要人物が登場し、各キャラの視点でストーリーが進行し、それに沿って物語の全貌が徐々に明らかになっていくのです。
話の軸となるキャラの1人が新聞記者ウォルター・アットウェルで、娘のマナを男手ひとつで育てています。彼は10年前に失踪した妻・ロゼの謎を調査することになります。
不可侵であるはずの「聖地」で、謎の少女を撮影したウォルター。しかしそのまま、彼は行方不明となってしまうのでした……。
ウォルターの友人であり、自身も新聞記者のダミアン・ルーカスは、ウォルターが行方不明になった後に「聖地」を調べ、とてつもない真実に行き当たります。知的で正義感があり、決断力のあるダミアンは、目を見張る活躍を見せてくれます。
「聖地」に迫る2人とは逆に、表向き存在しない国家機関「ARK」の主任研究員として「聖地」の秘密に従事するヘンリー・アンダーソンも重要なキャラです。「聖地」で行き倒れた人間を解体し、標本にしている研究主任です。「聖地」の秘密に近い人物ですが、彼も全てを知っているわけではなく、使われる側に過ぎません。
そして本作のタイトルでもあり、表紙で象徴的に描かれていながら、その全貌が謎に包まれたままの少女イデア・コールズ。ウォルターが発見した彼女の存在が、全ての鍵となるようですが……?
話は主にモルタ国内で進みますが、後に国外の事情も絡できて、モルタ国外のキャラにもスポットが当たるようになります。キャラおのおのが異なる信念で行動し、その結果が物語の大きなうねりとなっていくのが本作の魅力です。
舞台は現実の地球に似た架空の世界。技術的には現代と大差ありませんが、世界規模の人口爆発で食料不足になり、比較的生産しやすい「昆虫」が主食となっています。
世界中で食料危機に歯止めがかからず、昆虫の調達すら困難になる中で、モルタ国だけが豊かさを誇っています。それはモルタ国の国教を司るモルタ法王が神のお告げを伝えたからとされていますが……。
モルタ国にはある種の独裁国家のような閉塞感がありますが、一般の人々はモルタが神のご加護を受けた楽園であることを疑っていません。
本作はもちろんフィクションですが、モルタ国内外の事情が物語に沿う形で丁寧に描写されるおかげで、とてもリアルに感じられます。それが余計に「昆虫食」と「モルタ国教」の異質さが際立つのです。
各キャラの視点で語られる自然なストーリーの導入と、その背景にある異質な描写の絶妙なバランスが本作の魅力と言えます。
ウォルター、そしてダミアンが奔走することで、モルタの豊かさの秘密が「聖地」にあることがわかっていきます。実はヘンリーと彼の所属するARKは、不可侵の「聖地」で、とある薬品の人体実験を行っていました。
それは人間の3代欲求、食欲・性欲・睡眠欲を減退させ、新陳代謝を限りなく下げることによって人体の余命を伸ばす薬の実験。被験者は意識と記憶を失い、日光を浴びると体が崩壊するという副作用があります。ヘンリーは副作用のない完全な薬を研究していますが、ARKと政府上層部は「救済計画」と呼ばれる別の思惑があるようです。
被験者は「神の子」と呼ばれ、「聖地」で密かに行われている労働に携わります。「聖地」では、すでに世界から失われたはずの家畜の飼育、野菜の生産が人知れず行われているのです。世界から見れば豊かなモルタですら、一般には昆虫食しかないはずなのに、一体なぜ……?
そして、特別な存在であるイデア・コールズ。彼女は日光の下でも動き回れて、自我を保つ唯一の「神の子」なのです。イデアには、なんらかの理由があるのでしょうか?
次々と連鎖的に現れる謎が、読者を物語へと引き込んでいきます。
ダミアンは偶然落ちた水路から「神の子」が住む「聖地」の廃村に紛れ込み、国と教会が隠す「神の子」達がおこなう農耕・牧畜を目の当たりにしました。
そこでウォルターの身に危機が迫っていることを察知したダミアンは、「聖地」の実態を世間に公表しようと準備し始めます。……ところが、彼はすでに教会からマークされていました。
標本のイデア 2 (ジヘン)
2018年11月29日
真実を隠そうとする教会と、事実を広めようとするダミアン。
命の危険がともなう情報戦がくり広げられます。派手なアクションこそありませんが、手の内を隠して腹を探り合う暗闘に手に汗を握ります。
教会側にマークされている上、国に情報網を掌握されているダミアン。「聖地」で密かに入手した野菜の種子は、モルタの秘密を外部に広める何よりの証拠。しかし、肝心の情報拡散がままなりません。
ここでダミアンは機転を利かせて、逆境を逆手に取る大胆な手段を見せます。なんと研究機関「ARK」への取材という名目で、研究主任であるヘンリーに接近するのです。
「ペンは剣よりも強し」と言う言葉がありますが、彼の戦いはまさにそれ。ダミアンがいかにして真実を伝えたのか、決死の覚悟による行動が2巻最大の見所です。モルタ国内だけで進行していたストーリーが、世界的広がりを見せていきます。果たして、その先に訪れるものとは……?
本作はリアルな設定と描写に裏打ちされた骨太の物語です。尽きない謎が魅力なので、ぜひとも実際に読んで面白さを実感してみてください。