覆面作家からスタートし、日常の謎を解く名手となった北村薫。その優しく暖かな世界観は読者を幸せで切ない気持ちにします。そんな北村薫の作品のおすすめをご紹介します。
北村薫は日本の小説家です。1949年、埼玉県北葛飾郡杉戸町で生まれ、早稲田大学第一文学部を卒業。
在学中はワセダミステリクラブに所属し、母校である埼玉県立春日部高等学校の国語教師をしながら創元推理文庫の「日本探偵小説全集」を編集し、1989年、同社から覆面作家として『空飛ぶ馬』でデビューしました。
本格ミステリ作家倶楽部設立時の発起人のひとりで、初代事務局長を務め、2005年から2014年まで会長職にありました。
「日常の謎」といわれる作風のものを多く執筆しています。
また、詩歌や一般文学への素養も深く、一般文芸作品の著書も増えているため、ミステリー離れを指摘されたようですが、北村本人は「本格原理主義者」と呼ばれるほど謎解き物語への愛着が強いようです。
「円紫さんシリーズ」とも冠されていて、シリーズ開始当初は19歳の女子大生である私が、物語の進行とともに年齢を重ね、精神的にも成長していく成長小説の要素もあわせ持っています。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
日本文学を選考する大学生の私は、恩師が同じことから落語家・春桜亭円紫と知り合いになりました。私は、出会った際に話題に出た恩師の不思議な体験について明快で合理的な説明をつけた円紫に、以降も身の回りで起こった疑問・謎を持ちかけるようになります。
円紫は私が持ってくる疑問や謎を、自ら解き明かして見せたり、私にヒントを与えたりして解決させていきます。
この本には短編が5作収録されています。人が死ぬような血なまぐさいミステリーではありませんが、ほどほどの謎の深さと解決方法の意外性でミステリーとして充分な魅力があり、解決のロジックがきちんとしています。謎のキレ、解決の鮮やかさにハマったらもうトリコですよ。シリーズを一気読みしてしまいたくなるんじゃないかと思います。
推理小説雑誌編集部の岡部良介は、覆面作家としてデビューした新人作家を担当することになります。新人作家の新妻千秋は大富豪の一人娘。家では内向的でおとなしいものの、一歩家の外へ出ると社交的で活発に変わるという二面性を持っていました。
岡部良介が持ち込む身の回りの事件を、新妻千秋が解決していく覆面作家シリーズの1作目です。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 1997-11-21
探偵役の新妻千秋のキャラが秀逸です。はっきりいって破天荒の天才で、周囲の人物を引っ掻き回しまくります。話のテンポがとてもよく、千秋が真相に気がつくところまでがかなり早いのですが、謎解きがダラダラ続いたりはしません。
本格推理と思わず笑ってしまう品のいいユーモアに鮮やかなストーリー展開を見せつけられます。軽いタッチではありますが、じっくり読み込むと、内面の深いところが伺えて、じわっと染み込んできます。
そして、なによりも良介と千秋の関係性が魅力的です。「ちょっと変わった、それだけ得難い宝石を人に見せているような不思議な気分になった」なんて良介に言わせてしまう千秋。ちょっと羨ましくなってしまいます。ラブコメみたいな要素もありますので、そこも楽しんでくださいね。
文化祭の日の夕方、昼寝から目覚めた一ノ瀬真理子は自分が25年後の世界にいて、17歳の女子高校生だったはずなのに、夫も子どももいる高校の国語教師という状況になっていることに驚きます。
真理子は、失われた25年の歳月の大きさを思いながらも、前向きに生きていこうと決意してするのですが……。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 1999-06-30
『ターン』『リセット』との3作で「時と人 三部作」と位置づけられています。
真理子は、17歳と42歳のふたつの年齢をスキップするため、これだけで、ふたつの年代の読者を引きつけるのではないでしょうか。若者に属する人が読めば、未来の自分を覗き見てみたいという欲求をかなえてくれる感覚になるし、年齢を重ねた人なら、忘れかけていた若いころの自分を思い起こさせてくれるのです。
おもしろいけれど、切なさもこみ上げてくるやわらかくて優しい作品。若者でも年齢を重ねた人たちでも静かに胸に染み込みます。おすすめです。
物語の舞台は昭和初期の東京です。主人公の花村英子が通う女学校には華族や旧大名家、皇族といった良家の子女たちが通っています。英子の家は華族ではありませんが父親は日本屈指の財閥の系列会社の社長なので、クラスメイトに引けを取らない裕福な生活を送っていました。
英子は同級生の友人との話からサッカレというイギリスの作家の「虚栄の市」という小説を知り、読み始めます。それは美貌と才能に恵まれたのに身分には恵まれなかったベッキーという女性の半生を描いた物語でした。英子はベッキーが自分を卑しむ世間の人々に対し、時には非情とも思われる振舞いで毅然と立ち向かう姿に心惹かれます。
そんな時、花村家の運転手が1人退職することになり、補充の運転手として新しく雇われたのは「別宮みつ子」いう年若い女性でした。「べっく」という名字の響きと短髪で凛とした姿から、英子は「虚栄の市」のベッキーを連想し、彼女をベッキーさんと呼ぶようになります。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2006-05-01
英子は新聞で読んだ殺人事件の犯人を見破ったり、大学生の兄が友人から出された謎の答えを兄に代わって導き出したりするなど、推理力や洞察力に優れた少女です。ベッキーさんには知性と教養があり、いざという時には英子の身を護るための護身術も備えています。しかし当時の日本は、女子学生が新聞や推理小説を読む事は好ましい事とされておらず、英子のような令嬢は自由に出かける事すらままならない時代でした。また女性の運転手も珍しく、他の男性運転手はベッキーさんの存在を快く思っていません。
身分制度や男女差別が当然だった時代は、女性であることや身分が低いということだけで世に出られなかった才能がたくさんあるのだろうということを改めて知らされます。英子とベッキーさんは不自由な時代の中で自分に許された範囲を縦横無尽に動き回ることで、未来の可能性を広げているのです。
その反面、近代化によって失われていく物事についても作者は一抹の寂しさを込めて伝えています。過ぎ去っていく時代の流れの中を精いっぱい生きていく少女たちを描くとともに、人を差別することの愚かしさを教えてくれる清々しい作品です。
昭和初期の混沌とした時代、上流家庭のお嬢様・英子とお付きの女性運転手がさまざまな事件を扱う「ベッキーさん」シリーズ最終作にあたります。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2011-10-07
ベッキーさんは博学でいろいろなことに通じています。その発した何気ない言葉から英子が事件の糸口を見つけるようなこともありますが、彼女自身から進んで事件に首を突っ込んで解決したり、英子の助手を務めるワトソン的な存在になったりするわけでもありません。
対戦前の日本の息苦しいような世相とひとびとの様子が描かれ、当時の文化や風俗もしっかり織り込まれています。特に表題作は226事件を扱っているため、ラストの切ないばかりの痛みが鮮烈です。この1本の短編であの時代の鬱屈したうまくいかなさが描かれていて、思わず涙してしまうかもしれません。
日本が美しく強く激しく優しかった古き良き時代が染み渡る傑作です。ほんとうに掛け値なしにおすすめします。
夏休みの「全国中学野球大会最終戦」の前日のこと、気まぐれに新聞記者の宇佐木のあとを追いかけたアリスは、時計屋の鏡の中に入ってしまいました。少年野球のエースでもある彼女は、負け進んだチーム同士が戦うという奇妙な大会で、急遽投げることになり……。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2016-01-15
ミステリーというよりもファンタジーよりの作品で、『鏡の国のアリス』がモチーフです。野球の好きな中学生少女が鏡を通り抜けて裏の世界に迷い込んでしまって、開催されていた負け続ける人をあざ笑うための野球トーナメントに憤慨するなど哲学的な示唆にも富んでいます。
本文にある「世の中の仕組みっていうのは、なかなか動かせない。参加を拒否すると、もう社会に対する反逆者扱いです」や「世の中の流れは大きすぎるから、動き出したら一人でどうにかするのは難しい」などといった文章から読み取れるのは、主体的に生きることの大切さと難しさです。
傷つくことを恐れて他人と意見を違えるのを避ければ平和だけれど、ほんとうの自分はいないのだと、そう語りかかえてくる作品です。漢字にルビを振っているような少年少女向けの物語の中で、それを訴える北村薫を素敵だと思いました。
それをぜひ感じてほしいです。
末永純一はテレビ制作会社の社員で、ニュースコーナーを埋める映像作品を作っています。妻友貴子とは最近結婚したばかりです。
純一が小学生の頃に越してきた家に二人は住んでいますが、その家になんと猟銃発砲事件を起こした男が立てこもったのです。帰宅途中にそれを知った純一が取った行動は?人質となった妻はどうしているのでしょうか?
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2002-10-16
妻友貴子は、実はかなり悲惨で辛い人生を送ってきました。その悲惨な物語が本人の独白で淡々と綴られていくのです。純一はそんな妻を今後もずっと支えていく決意をしました。そのために純一はチェスの作戦を立てるのです。
北村薫のストーリー展開は大胆で細やかです。テレビ・マスコミの都合でスクープを狙うという展開や、なんでも相談できる幼馴染の存在。一つ一つは独立した、極めて日常の出来事です。
友貴子のこれまで生い立ちを含め、あちこちに張り巡らせた伏線は、まるでキングを追い詰めるチェスの作戦そのもの。しかも純一が組む作戦は、外から俯瞰しているはずの読者の目をも紛らわせる作戦であったのです。
圧倒的で鮮やかな展開を読み終えた先には、きっと北村薫の完勝が待っています。『盤上の敵』を読んで、そんな圧倒的な盤上の展開に身を任せてみませんか?
主人公は出版社に勤める40歳の女性です。3年前に仕事のストレスで切羽詰まっていた中、仲の良い同僚から突然「明日、山、行きませんか」と誘われます。その山は初心者でもハイキング気分で無理なく参加できる所でしたが、その頃の主人公はまったく山を知らず、装備の基本も分からず参加して歩きなれない山に疲れてくたくたになってしまいます。
しかしその時見た美しい自然の光景に心奪われ登山にはまってしまい、以後は休みが取れると1人で山に行くようになったのでした。
物語は5編にわかれ、それぞれ主人公が登った山の事や、登山前に起こった出来事が描かれています。山に登る前の主人公は仕事や人生について悩みや問題を抱えていますが、それらの事を思い返しながら山を歩くうち徐々に無心になり、体の疲れと反比例するかのように心の重荷が取れていくのです。下山する時には、まるで生まれ変わったかのようにさっぱりとした心で現実社会に戻っていきます。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2016-06-18
主人公はまだベテランの域ではないので比較的難しくないコースを選んでいくのですが、それでも一歩間違えれば生命の危険があるのが登山です。登る山を決めた日から入念に装備を選びコースを確認し、登頂に備えてコンディションを万全にするところからすでに日常からの離脱が始まっています。
集団行動が苦手な主人公の登山は大体1人です。山での出会いは一期一会のようなもので、後を引くようなことはありません。しかし心が通い合う相手とは不思議な縁があるようで、思わぬところで再び巡り合ったりもします。
主人公が登山に行くたびに過去のわだかまりや仕事のストレスがなくなっていく様子は、読んでいて羨ましくなります。山は時には人を拒絶しますが、時には全てを受け入れて人を癒してくれるのです。読み終わった後、読者もきっと山に行きたくなるでしょう。
千波と美々、牧子の3人は学生時代からの友人です。3人とも埼玉県内の近所に住んでおり、テレビ局のアナウンサーをしている千波は、母が亡くなった後に残された一軒家で猫と暮らしながら車で都内に通勤しています。美々は最初の夫と離婚した後にカメラマンと再婚して大学生の娘の玲との3人で暮らしており、作家の牧子は離婚後、高校生の1人娘さきと2人暮らしです。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2009-04-25
千波を中心に美々や牧子との友情と、牧子の娘のさきと美々の娘の玲が成長する姿が描かれています。
3人の女性たちは、たまたま家が近所で昔なじみだからという理由で馴れ合っているのではありません。常に良い距離感でお互いを見守っており、誰かが挫けそうな時は2人のうちのどちらかその問題に適している方が素早く寄り添い、熱が伝わり過ぎないうちにそっと離れていきます。実際の女性同士でこのような絶妙な距離感を持つ友情を築き上げるのは本当に難しい事です。
結婚して子供がいる女性と独身でキャリアウーマンを貫いている女性同士が友人関係を継続することも簡単ではありません。美々と牧子は共に男性に失望し離婚を経験しており、千波は信頼できる男性に巡り合えずにいた事がこの3人の関係を成り立たせる大きな要因となっています。
千波はアナウンサーとしての実力を認められ番組を任されることになった矢先、思わぬ病気を宣告されてしまいます。「ひとがた流し」には人形に災厄を書いて川に流すものと、願い事を書いて川に流すものがあるのですが、千波が幼いころに母と行った「ひとがた流し」は願いを書いて流すものの方です。
千波は最後に、亡くなった母はきっと母自身の事ではなく千波の何かを願ったのだろうと考えます。先に去っていく者は後に残る人の幸せを願い、後に残された者はその思いを受け継いで生き、その流れが絶えることはありません。女性たちの様々な形のやさしさが過去、現在、未来へと紡がれていき、読む者の心を静かに打つ作品です。
さきちゃんのお母さんは、お話を作ることをお仕事にしています。さきちゃんもお話を聞くのが好きで、よくお母さんにせがみます。物語はそんなさきちゃんとさきちゃんのお母さんが織り成す、少しおかしくてほっこりするお話です。
- 著者
- 北村 薫
- 出版日
- 2002-06-28
本のタイトルの『月の砂漠をさばさばと』は、砂漠をゆくさばの味噌煮が元になっています。
「お話ねえ、さきにしてあげようと思ってとっといたのよ。だけどね、今日はヨーカードーに買い物に行ったの。その帰りに、落としちゃった。うちについてから気がついてね、お母さん、探しに行ったの。お話、どこだー。お話、どこだー」
(『月の砂漠をさばさばと』「くまの名前」より引用)
お母さんは、万事こんな調子です。
この小説の魅力は、母と娘の、一見なんでもない出来事を「お話」によって風味豊かなものに変えているところでしょう。ところどころに挿入された絵も、想像力をかきたててくれます。
『月の砂漠をさばさばと』は、一話あたり数十ページから、短いものだと数ページ。ふと思いついたときや、寝る前に読むのがおすすめの作品です。
優しくて暖かくてやわらかい日常の謎を描く北村薫作品には、もしかしたら自分の隣にいるかもしれないような人々と物語が優しい目線で描かれています。そんなふうに染み渡るような作品群にぜひ触れていただきたいです。