紀元前5世紀に、当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、ギリシアの都市国家のあいだでおこなわれた「ペルシア戦争」。世界史の授業でも絶対に登場する重要な争いですが、一体どんなものだったのでしょうか。この記事では、戦争の原因、第1次から第4次までの流れ、結果とアテネの民主政などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
紀元前492年から紀元前449年にかけて発生した「ペルシア戦争」。当時の超大国であるアケメネス朝ペルシアと、アテネやスパルタを中心とするギリシアの都市国家連合の戦いです。
約50年間で、ペルシアは4度のギリシア遠征をおこないました。ペルシア海軍の主力を担っていたのはフェニキア人で、地中海の交易権を巡るギリシアとフェニキアの戦いという一面もあります。
紀元前479年の「ミュカレの戦い」でギリシアが勝利したこと、紀元前465年にペルシア王のクセルクセス1世が暗殺されたことから、ペルシア戦争はギリシアの勝利。紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれて終結しました。
しかし敗北を喫したとはいえ、ペルシアが滅びたわけではありません。その後もペルシアはギリシアへの介入を図り、アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」の戦いである「ペロポネソス戦争」が勃発する一因となります。
最終的にアケメネス朝ペルシアが滅びたのは、マケドニア王国のアレキサンダー大王がおこなった「東方遠征」にて、首都であるペルセポリスが破壊された紀元前330年でした。
ちなみにペルシア戦争に関する資料はほとんど現存しておらず、ペルシア戦争について記されているのは同時代を生きたギリシアの歴史家、ヘロドトスの著作『歴史』のみ。そのため帝政ローマ時代の著述家プルタルコスのように、ヘロドトス個人の戦争観で事実が歪められていると批判する声もあります。
ペルシア戦争の原因となったのが、紀元前499年から紀元前493年にかけて起こった「イオニアの反乱」です。これは、ミレトスを中心とするイオニア地方の都市国家が、アケメネス朝ペルシアの支配に対して起こしたもの。
アテネなど、ギリシアの都市国家が反乱を援助します。しかし紀元前493年にミレトスが陥落して、反乱は失敗。結果的に、ペルシアがギリシアに侵攻する口実を与えることになってしまうのです。
紀元前492年、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世は反乱へ介入したことに対する報復として、ギリシア遠征軍を派遣。ペルシア戦争が勃発しました。
大きく4つに分けることができる「ペルシア戦争」。それぞれの流れを見ていきましょう。
第1次ペルシア戦争
紀元前492年に、ペルシアのダレイオス1世がギリシアへ遠征軍を派遣しました。海と陸から侵攻しましたが、海軍が暴風雨によって壊滅的被害を受けたため、大規模な戦いは起こらないまま終結します。
第2次ペルシア戦争
紀元前490年におこなわれたペルシアの本格的なギリシア侵攻で、迎え撃つアテネとの間で「マラトンの戦い」が起こります。アテネの重装歩兵密集戦術が奏功して、ギリシア軍が勝利しました。
ちなみに、母国の勝利を伝えようと、ひとりの青年がマラトンからアテネまで約40kmの道のりを走り抜けたことが、陸上競技マラソンの由来だといわれています。
第3次ペルシア戦争
紀元前480年におこなわれた、ペルシア戦争最大の戦い。ダレイオス1世の息子であるクセルクセス1世が自ら大軍を率いてギリシアに侵攻しました。
「テルモピュライの戦い」では、20万人ものペルシア軍に対し、ギリシアのスパルタ軍はたった300人で対抗したそうです。奮戦虚しくスパルタ軍は全滅し、ペルシア軍はアテネにも攻め込むなど勝利を目前としていました。
しかし「サラミスの海戦」で「三段櫂船」を操るアテネ海軍が躍進。ペルシア軍は撤退を余儀なくされるのです。
第4次ペルシア戦争
紀元前479年におこなわれました。「サラミスの海戦」で敗れたクセルクセス1世は、戦意を喪失してペルシアに帰国。残された軍が体勢を立て直し、再度アテネへの侵攻を目指します。
そんなペルシア軍を、アテネとスパルタの連合軍は、陸上では「プラタイアの戦い」、海上では「ミュカレの海戦」で迎撃し、勝利しました。ペルシアによるギリシア遠征は失敗に終わることになります。
ただその後も交戦状態は続き、小規模な戦いはたびたび生じていました。正式にペルシア戦争が終結したのは、紀元前449年に「カリアスの和約」が結ばれた時になります。
ペルシアの「専制政治」に対抗して、アテネを中心とするギリシアの都市国家が「自由」を求めたペルシア戦争。戦後のギリシアでは、自由を讃える歌や祝祭が大いに流行しました。
その一方で、有力な都市国家間での覇権争いが起こり、特にアテネとスパルタの対立が激化することとなります。
ペルシア戦争を通じて大きく勢力を伸ばしたアテネは、強力な海軍を有して海上貿易の覇権を掌握しました。アテネを盟主として結成されたデロス同盟には最盛期で200もの都市国家が参加をし、経済的にも軍事的にも最盛期を築きます。
さらに政治では、「民主政」が全盛期に。市民が直接投票をして法律や法案の決定に関わる直接民主制と呼ばれるものです。しかしすべての住民が投票に参加できたわけではなく、外国人居住者や女性、奴隷に投票身分はありませんでした。実際に投票権を持っていたのは、成人人口の30%未満だともいわれています。
もともとアテネでは、出身や財産、土地からの収穫高に応じて市民が4つの等級に分けられていました。上位2階級が「貴族」、下位2階級が「平民」です。平民たちはペルシア戦争に大きく貢献。勝利を決定づけた重装歩兵や、三段櫂船の船の漕ぎ手を主に務めたのは彼らでした。
これを受けて戦後は、平民たちの発言権が強まっていきます。やがて貨幣経済が発達すると、貴族と平民の間に対立が生まれ、平民は徐々に権利を獲得していくように。そして紀元前508年に、民会を中心とするアテネ民主政が成立しました。
- 著者
- ジャック キャシン‐スコット
- 出版日
ペルシア戦争、その後のペロポネソス戦争、そしてペルシアが滅びるきっかけとなるアレキサンダー大王の遠征を中心に、古代ギリシアでおこなわれた地中海の覇権を巡る争いを取りあげた作品です。
「マラトンの戦い」や「サラミスの海戦」など、それぞれの戦争のなかのひとつひとつの戦闘についても詳細に解説。わずか50ページほどとコンパクトにまとまっていて、読みやすいのが魅力でしょう。古代ギリシアについて学びたい人にはうってつけの一冊です。
- 著者
- 出版日
- 1971-12-16
「歴史の父」といわれるヘロドトスが記した『歴史』。翻訳を担当した松平千秋は、日本西洋古典学会の委員長を長年務めた古代ギリシア文学者で、本作だけでなく多くのギリシア文学の翻訳を手掛けてきました。
本書は上・中・下の3巻で構成されていて、ヘロドトスが各地を旅し、実際に見聞きした旅行記としても楽しむことができます。ペルシア戦争を中心的に記しているのは下巻です。
歴史書というと堅苦しいイメージを抱く人もいるかもしれませんが、歴史に名を残す英雄たちが悩み、笑い、戦う様子は、まるで小説を読んでいるような臨場感。2000年以上も前に書かれたとは思えないほど、当時の人々の息吹を身近に感じることができる一冊です。