独ソ不可侵条約はなぜ破られた?内容や理由、日本への影響をわかりやすく解説

更新:2019.7.21 作成:2019.7.21

ドイツのヒトラーとソ連のスターリン。天敵といわれていた2人が手を組んだ「独ソ不可侵条約」は、世界に大きな衝撃を与えました。この記事では、締結された背景、条約の内容、日本への影響、破られた理由などをわかりやすく解説していきます。

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独ソ不可侵条約とは。概要を簡単に解説

 

1939年8月23日に、ドイツとソ連の間で締結された「独ソ不可侵条約」です。ドイツのアドルフ・ヒトラーとソ連のヨシフ・スターリンは「天敵」といわれるほど敵対していたため、両者が手を組んだことは世界に大きな衝撃を与えました。

ドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップと、ソ連の外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの名をとって「モロトフ=リッベントロップ協定」、または「M=R協定」とも呼ばれています。

独ソ不可侵条約のもと、ドイツとソ連はそれぞれ勢力を拡大し、やがて第二次世界大戦へと発展していきました。開戦後も条約は効力を有していましたが、1941年6月22日、ドイツ軍がソ連に侵攻したため、事実上破棄されることになります。

 

独ソ不可侵条約が締結された背景は?

 

もともと、ドイツのヒトラーが率いていたナチスは「反共主義」を掲げている政党で、ソ連を敵視していました。

ソ連を東西から挟撃することを目論んだ国防軍情報部局長のヴィルヘルム・カナリスは、外務大臣のリッベントロップと協力して、アジアの反共国家である日本との連携を計画。1936年には「日独防共協定」を結んでいます。

一方のソ連は、1935年にフランスと「仏ソ相互援助条約」を締結し、事実上の同盟関係にありました。このことから、ドイツはフランスとソ連から挟み撃ちされることを懸念していたのです。

ただ当時のフランスやイギリスでは、再軍備と領土拡大を目指すドイツに宥和的な声が多く、1938年にはこれ以上の領土要求をしないと約束する代わりにヒトラーの要求を全面的に認め、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲する「ミュンヘン協定」が結ばれています。

チェコスロバキアはソ連の安全保障に大きな影響を与える地域で、これをドイツに与えたフランスとイギリスに対し、ソ連は不信感を抱きました。

しかし、その後のドイツは、「ミュンヘン協定」があるにもかかわらず、ポーランドへの軍事侵攻を計画します。ただこれを実現するには、ソ連の協力が必要です。両者の利害はある程度一致していたものの、「反共主義」を掲げていたナチスとしてはソ連と手を結ぶのは難しい状況。日本やイタリアとの軍事同盟も模索します。

一方でソ連も、ドイツとフランスとイギリスを天秤にかけ、有利な条件を引き出そうと交渉を続けました。

そしてドイツは、日本やイタリアとの同盟交渉がなかなか進展しないなかで孤立することを恐れた結果、いくつかの条件で譲歩したうえでソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したのです。

 

独ソ不可侵条約の内容を簡単に解説

 

全7条で構成されていて、公表されたのは「相互不可侵」と「中立義務」のみ。歴史的転機になる条約でしたが、その内容は拍子抜けするほど薄いものだったのです。

それだけに、当初から秘密議定書が存在するのではないかという疑惑が囁かれていました。実際にその存在が明らかになったのは、第二次世界大戦後のことです。

秘密議定書は全4条で、第1条ではフィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト諸国について、リトアニアの北の国境をドイツとソ連の勢力範囲の境界にすること。第2条ではポーランドをドイツとソ連で分割すること。第3条ではルーマニア東部のベッサラビア地方をソ連の勢力圏に入れること。第4条では、この議定書の存在をドイツとソ連両国で厳重に秘密扱いにすることが定められました。

この独ソ不可侵条約の秘密議定書にもとづいて、ドイツとソ連のポーランド侵攻、ソ連のバルト諸国併合、ソ連のフィンランド侵攻、ソ連のルーマニア領ベッサラビアの割譲要求などが次々とおこなわれるのです。

 

独ソ不可侵条約が日本に与えた影響は。平沼内閣は総辞職に

 

ドイツの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッベルスは、独ソ不可侵条約の締結について、自身の日記に「これでヨーロッパの力の均衡が揺らぐ。ロンドンやパリは耳を疑うに違いない。世界の反応をとくと見物しよう」と綴りました。

相互に敵対していた両国が手を結んだことは、彼の言葉どおり、世界にとって驚きの出来事だったのです。そしてそれは、日本も例外ではありません。

当時の日本は、ドイツと「日独防共協定」を結び、さらなる同盟締結に向けて交渉中でした。またソ連とは、「ノモンハン事件」と呼ばれる国境紛争の真っただ中です。

「日独防共協定」にはイタリア、ハンガリー王国、満州国、スペインが参加し、1939年には6ヶ国による協定に。この協定は、加盟国が連携して共産主義の脅威に対抗しようとするものであり、また「締約国は相互合意なく、ソビエト連邦との間に本協定の意思に反した一切の政治的条約を結ばない」という秘密付属協定も結ばれています。

独ソ不可侵条約の締結は、この秘密付属協定に違反するもの。当時の平沼騏一郎内閣は、猛抗議のすえに「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」という有名な言葉を残して総辞職し、日本とドイツの同盟交渉は事実上打ち切られることになるのです。

しかし1940年に交渉が再開され、「日独伊三国同盟」が締結。第二次世界大戦における「枢軸国」側の陣営が形成されていきます。

 

独ソ不可侵条約はなぜ破られたのか、理由を解説

 

独ソ不可侵条約が締結された際、ヒトラー専属のカメラマンだったハインリヒ・ホフマンの「この方針を受けて党が動揺しないか」という質問に対し、ヒトラーは「党は私が基本原則を捨てないことを知っている」と語ったとされています。

つまり、「反共主義」を掲げていたナチスを率いるヒトラーにとって、たとえ一時的に手を組んだとしても、ソ連が倒すべき敵だという事実は変わらないものだったのです。

外務大臣のリッベントロップは、イギリスに対抗するために、ソ連、イタリア、日本で構成される「ユーラシア四国同盟構想」を抱いていました。これに日本の外務大臣の松岡洋右や、外務省職員の白鳥敏夫が呼応したことで、「日独伊三国同盟」や「日ソ中立条約」が締結されます。

イタリアとソ連はすでに「伊ソ友好中立不可侵条約」を結んでいて、ユーラシア構想は結実間近というところでした。

しかしその一方で、ソ連がルーマニアに対し、秘密議定書に定められていない北ブコビナ地方を割譲させたことや、ユーラシア構想の条件としてフィンランドからドイツ軍を撤退させること、ボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の租借などを求めるようになり、ドイツとソ連の関係は徐々に悪化していきます。

ヒトラーは1940年のイギリス本土侵攻に失敗すると、イギリスを屈服させるためにはソ連を倒すしかないと考えるようになりました。そして、ソ連へ侵攻を開始する「バルバロッサ作戦」の準備を始めるのです。

このような情報はソ連のスターリンにも届きますが、反対に報告者を処罰するなど、開戦を恐れていたとのことでした。

そして1941年6月22日、ドイツがついにソ連へ侵攻。7月12日にはソ連がイギリスと「アングロ・ソビエト軍事同盟」を締結し、本格的に連合国側として参戦することになるのです。その結果、独ソ不可侵条約は破棄されました。

ただ、ソ連国内でも対ドイツを想定した軍備の増強がおこなわれていたようで、たとえドイツからの侵攻がなくても、いずれは両国の間で戦いが起きただろうと考えられています。

 

独ソ不可侵条約の思惑に迫るノンフィクション

著者
["アンソニー リード", "デーヴィッド フィッシャー"]
出版日
2001-06-01

 

ファシズムのドイツと共産主義のソ連。両国を代表するヒトラーとスターリンという2人の独裁者が手を結んだことは、後に「悪魔の契約」と呼ばれるようになりました。

本書は、イギリス国営放送BBCのジャーナリストが、独ソ不可侵条約が締結されてから破棄されるまでの669日間を追い、その内幕や両者の思惑に迫ろうとする作品です。

第二次大戦の開戦が、独ソ不可侵条約の締結直後であったことを考えると、この条約が歴史上どれだけ重要なことかがわかるでしょう。上下巻となかなかのボリュームですが、内容の濃さゆえに読了後の充実感もひとしお。当時の情勢を知りたい方は、ぜひ読んでみてください。