ノルマントン号事件はなぜ無罪?事件の流れや不平等条約をわかりやすく解説!

更新:2019.7.26 作成:2019.7.26

不平等条約にもとづいた領事裁判権に対する、日本人の反感を煽るきっかけになった「ノルマントン号事件」。一体どのような事件だったのか、なぜ海難審判で無罪になったのか、その後の流れやビゴーの描いた風刺画などをわかりやすく解説していきます。

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ノルマントン号事件とは。いつ起こったのか、乗客数など概要を解説

 

1886年10月24日、現在の和歌山県紀伊半島沖で、イギリス船籍の貨物船ノルマントン号が座礁し、沈没する事故がありました。ここから始まった日本とイギリスの一連の紛争を「ノルマントン号事件」といいます。

紀伊半島の潮岬周辺に広がる熊野灘は、江戸時代以降、京都や大阪と江戸を結ぶ海上交通の難所とされ、多くの海難事故が発生していました。1870年には日本初の石造灯台である樫野埼灯台が、1873年には潮岬灯台が設置されています。

当時横浜から神戸を目指していたノルマントン号には、イギリス人やドイツ人の乗組員26人、日本人乗客25人が乗っていました。ジョン・ウイリアム・ドレーク船長をはじめ、イギリス人やドイツ人の乗組員は4隻のボートに乗って全員船を脱出。3人が亡くなったものの、沿岸の漁師たちの救出活動によって多くが助かっています。

一方の日本人の乗客は、25人全員が行方不明。単に逃げ遅れただけであれば水死体が見つかりそうですが、それもありません。そのためノルマントン号の乗組員らが、自分たちが助かるために日本人乗客を船倉に閉じ込め、見捨てたのではないかと推測されてたのです。

「東京日日新聞」は、「ひとりも助からないのはおかしい。西洋人であれば助けたのに、日本人だから助けなかったのではないか」と論じ、国民も事故の背景に人種差別があると憤りました。

 

ノルマントン号事件は海難審判でなぜ無罪になった?

 

江戸時代に結ばれた不平等条約である「日英修好通商条約」における領事裁判権にもとづき、11月1日に神戸で海難審判がおこなわれました。ノルマントン号のドレーク船長は、「船員は日本人に早くボートに乗り移るよう勧めたが、日本人は英語がわからず船内にこもって出ようとしなかったので、しかたなく置いてボートに移った」と陳述しています。

たとえ言葉が通じなくても、ジェスチャーなど意思疎通をとる方法はあるはずで、説得力に欠ける言い分に聞こえますが、神戸駐在在日英国領事のジェームズ・ツループはこの陳述を認め、船長、乗組員全員に無罪判決をくだしたのです。

これに日本国民は激怒し、新聞各紙は連日のように弾劾。法学者らも告訴すべきだと訴えます。これを受けて当時の外務大臣だった井上馨は、兵庫県知事名でドレーク船長を横浜英国領事裁判所に殺人罪で告訴しました。裁判は12月8日に開かれ、判事のニコラス・ハンネンはドレーク船長に有罪判決をくだします。しかしその刑罰は禁固3ヶ月にすぎず、賠償金の支払いも認められませんでした。

賠償金の支払いがされなかったのは、損害賠償請求裁判の支援者らが遺族に対し起訴停止の勧告をし、これに遺族が従ったためです。その背景には、日本国内での反英感情の高まりに対し、英国公使のフランシス・プランケットから日本政府に抗議があったことや、反英感情を鼓舞していた福沢諭吉が日英関係の悪化を危惧して論調をトーンダウンさせたことなどが影響しています。

 

ノルマントン号事件をきっかけに、外務大臣の陸奥宗光は治外法権を撤廃に

 

不平等条約の領事裁判権にもとづく裁判で、被告人側に有利な判決がなされ、日本人が悔しい思いをした事件はノルマントン号事件以外にもあります。

1877年に起きた「ハートレー事件」では、イギリス商人のジョン・ハートレーが、輸入禁制品とされていたアヘンを密輸しようとして税関に見つかりました。しかしイギリスの法律では薬用アヘンの取引は合法だったため、領事裁判で無罪になりました。

また1892年には、「千島艦事件」が発生しています。日本海軍の水雷砲艦が瀬戸内海を航行中にイギリス商船と衝突し、沈没。乗組員74人が殉職しました。領事裁判権にもとづいて横浜英国領事裁判所で裁かれ、日本政府が訴訟当事者として外国の法廷に出廷した最初の事件となっています。

これらはいずれも日本国内で問題視され、領事裁判権の撤廃は明治政府にとっても大きな課題になりました。岩倉使節団による交渉や、井上馨、大隈重信ら歴代外務大臣も条約の改正に取り組んでいましたが、失敗が続きます。

1886年に外務省に出仕した陸奥宗光は、従来のアプローチをあらため、江戸時代に不平等条約を結んだアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランス以外の国と対等条約を結び、これを足掛かりに欧米諸国と再交渉する方法を考えます。1888年には、メキシコと「日墨修好通商条約」を締結しました。

1892年に第二次伊藤博文内閣が成立すると、陸奥宗光は外務大臣に就任。1894年にイギリスと「日英通商航海条約」を結びます。翌年にかけて他の欧米諸国とも改正条約を締結し、日本は悲願だった領事裁判権の撤廃を実現することになりました。

 

ノルマントン号事件の風刺画を描いたビゴーとは

ノルマントン号事件の風刺画を描いたビゴーとは

 

歴史の教科書のノルマントン号事件のページに、ボートに乗った船長が溺れている人に向かって「いま何ドル持っているのか。早く言え」と述べている風刺画を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。描いたのは、フランス人の画家ジョルジュ・ビゴーです。

1860年にパリで生まれたビゴー。早くに父を亡くし、画家だった母から絵を学びます。「普仏戦争」の際には、パリ・コミューンが成立してから崩壊するまでの戦闘や殺戮、破壊されるパリの街並みなどをスケッチに残しました。

1878年に開催された「パリ万国博覧会」で、日本が出品した浮世絵に興味を惹かれたビゴーは、1882年に来日。1899年に帰国するまでの17年間、日本で絵画講師や風刺画家として活動しました。1894年には日本人の佐野マスと結婚をしています。侍姿の写真を撮影するなど、親日家だったそう。

先述した風刺画は「メンザレ号の救助」というタイトル。メンザレ号は、ノルマントン号事件の1年後に上海で遭難したフランスの船です。ビゴーはこれにノルマントン号事件を重ね、日本人を見殺しにしたイギリスの横暴を批判しています。

ただこの風刺画には「イギリス人がこんな失敗をするから、日本人を怒らせて、条約改正交渉をするはめになるんだ」と書かれています。ビゴーは不平等条約によって守られているフランス人であり、条約改正には反対だったのです。

日本への永住も考えていたそうですが、条約の改正が発効する1ヶ月前である1899年6月に、日本の警察や司法が信じられないという理由で、妻と離婚したうえで帰国の道を選びました。

 

陸奥宗光の生涯を知る一冊

著者
佐々木 雄一
出版日
2018-10-19

 

ノルマントン号事件をきっかけに条約改正の交渉を担い、前任者たちが成し遂げられなかった不平等条約の撤廃を成し遂げた陸奥宗光。「カミソリ」と呼ばれるほど頭が切れた人物だったそうです。本書はそんな彼の生涯をわかりやすくまとめた作品です。

御三家のひとつである紀州藩に生まれた陸奥宗光は、勝海舟の神戸海軍操練所で坂本龍馬と出会い、龍馬が作った海援隊に加わりました。明治維新後は新政府に出資し、版籍奉還・廃藩置県・徴兵令・地租改正など、国家作りの根幹に関わる仕事を担当しています。

頭がいい一方で、若い頃は吉原通いが発覚して破門されたり、坂本龍馬が暗殺された際は証拠もなく三浦休太郎を犯人と決めつけて襲撃したり、さらに西南戦争の際には政府転覆を謀って投獄されたりと、破天荒な行動をとることもしばしば。彼の功績はもちろん、人となりがよくわかる一冊です。

 

ノルマントン号事件など、ビゴーが見た日本の姿

著者
清水 勲
出版日
2001-09-10

 

ノルマントン号事件からもわかるように、明治時代の日本は不平等条約によって何度も煮え湯を飲まされてきました。日本は欧米諸国と同じ「近代国家」であることを証明しようと、急速に文明開化を推進します。

そんな日本を皮肉まじりに風刺画にしたのが、ビゴーです。もともと浮世絵に惹かれて来日した彼にとって、伝統文化を捨てて文明開化に突き進む日本人は幻滅と軽蔑の対象だったのでしょう。欧米における日本人のイメージを「つり目で出っ歯でメガネをかけている姿」として定着させたのも、ビゴーだといわれています。

本書は、ビゴーが日本に滞在していた17年間で残した作品のなかから、100点を厳選して解説したもの。西洋人としての立ち位置を崩すことのなかった彼から見た、当時の日本を見てみてください。