「アメリカ独立戦争」のきっかけとなった「ボストン茶会事件」。歴史の授業などで名前だけは聞いたことがある方も多いでしょう。この記事では、事件の背景や経緯、その後の影響、そしてアメリカ人がコーヒーを飲むようになった理由などをわかりやすく解説していきます。さらに理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
アメリカがまだイギリスの植民地だった1773年12月16日、マサチューセッツ植民地のボストンで「ボストン茶会事件」が起こりました。
後に「アメリカ合衆国の父」と呼ばれることになるサミュエル・アダムズを中心に、イギリスの植民地政策に反発した50人ほどの市民が東インド会社の船を襲撃し、積んであった紅茶を海に投棄した事件です。この時捨てられた茶の損害額は、約100万ドルにもなったとか。
事件の背景には、1755年から1763年にかけておこなわれた「フレンチ・インディアン戦争」があります。
北米植民地をめぐってイギリスとフランスが争っていたもので、一進一退の戦局を打開するためにイギリスは北米に約2万人の軍を送りました。植民地の民兵組織の協力も得て勝利をし、「パリ条約」を結んでカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得しています。
その後イギリスは、膨大な金額となった戦費を賄うために、これまで「有益なる怠慢」と呼ばれていた緩やかな植民地統治をあらため、1765年には「印紙法」を、1767年には「タウンゼンド諸法」を定めました。「タウンゼンド諸法」では茶・紙・塗料・鉛・ガラスなどへ課税されることが決まり、これが植民地側の反発を招くきっかけとなったのです。
植民地はイギリス本国の議会に議員を送ることができなかったため、「代表なくして課税なし」の原則を掲げ、不買運動などで抵抗します。その結果、「印紙法」は1766年に廃止されました。
しかしこの抵抗に対応するため、1768年にイギリス軍がボストンを占拠。1770年には、イギリス軍によって民間人5人が射殺される「ボストン虐殺事件」が起こります。植民地側の反発はさらに強まることになり、茶に対する課税のみを残して「タウンゼンド諸法」も撤廃されることになりました。
すると植民地側は、オランダ商人から茶を密輸することで茶税を逃れようと画策。イギリスの東インド会社は大量の在庫を抱えることになり、財政的に行き詰まります。これを救済するためにイギリスは1773年に「茶法」を制定。植民地における茶の販売独占権を東インド会社に与えました。
そして東インド会社の貿易船が、たくさんの茶を積んでボストン港に到着。荷揚げを試みる貿易船と、荷揚げを阻止する市民が睨みあいを続けるなか、事件が起こったのです。
1765年2月に、イギリス議会で開かれた「印紙法」に関する議論のなかで、「自由の息子達」という言葉が用いられました。これに触発され、北米の13の植民地では、愛国急進派の人々が「自由の息子達」の名を掲げた組織が次々と結成されます。「ボストン茶会事件」の首謀者であるサミュエル・アダムズも組織を作り、指導者として活躍したそうです。
1773年12月、東インド会社の貿易船がボストン港に到着。しかし植民地側は、荷揚げをせずに撤退を求めます。イギリス側も撤退を拒否し、貿易船はボストン港で停泊することになりました。
そして12月16日、「自由の息子達」の約50人は、毛布やフェイスペイントでインディアンのモホーク族に変装をし、貿易船を襲撃するのです。これが「ボストン茶会事件」です。
モホーク族はオランダ、フランス、イギリスなどの入植者と比較的平和に共存関係を築き、特にイギリス軍とは同盟関係にありました。そんなモホーク族に「自由の息子達」が扮したのは、友好関係を築いている彼らもまた課税に反対していることを表す作戦だったといわれています。
彼らは「ボストン港をティーポットにする」と叫びながら、積まれていた茶箱342個を、次々に海に投げ捨てたそう。たくさんのボストン市民が様子を伺いに来たものの、彼らは加担することも止めることもせずに、傍観していたといわれています。
「アメリカ独立戦争」のきっかけになったといわれている「ボストン茶会事件」。さぞかし多くのボストン市民が参加したのかと思いきや、先述したとおり実際に茶の投棄をしたのは50人でした。
しかしイギリス政府は、東インド会社が弁償を受けて、さらに秩序が回復されたと判断するまでボストン港を閉鎖する「ボストン港法」を成立。さらに植民地のひとつであるマサチューセッツの自治権をはく奪する「マサチューセッツ統治法」、イギリス人が植民地で法を犯してもイギリス本国で裁判をすることができる「裁判権法」などを相次いで制定。強硬な手段で植民地を軍政下に置いていくのです。
植民地に住む人々は、50人の急進派組織「自由の息子達」が起こした事件の責任を、すべての住人に負わせるやり方に対し、自分たちの権利を侵害するものであると反発。上記の法を「耐え難き諸法」と呼び、抵抗しました。そしてこの動きは13植民地全体の脅威だとし、1774年9月5日に「第一次大陸会議」を開催します。
大陸会議は、13ある植民地のうちジョージアを除く12の植民地の代表56人で構成。議論の結果、1774年12月1日以降イギリス製品の輸入を停止することと、「耐え難き諸法」が撤回されなければ1775年9月10日以降はイギリスへの輸出も停止することが決められました。
イギリスの軍政下に置かれていたボストンには、イギリス軍の連隊が駐留していましたが、総司令官のトマス・ゲイジが管理できていたのは市内のみ。そのほかは、サミュエル・アダムズらが率いる民兵組織が統制をとっていました。
1775年4月、イギリス軍がボストンの北西に位置するコンコードにある武器庫を撤収しようとしたところ、民兵組織と衝突。これは「レキシントン・コンコードの戦い」と呼ばれ、以降約8年間にわたる「アメリカ独立戦争」の最初の戦闘となりました。
イギリスの植民地だったことから、もともとアメリカ人にとって紅茶はとても馴染み深い嗜好品でした。しかしイギリスが「茶法」を定めたことをきっかけに不買運動が広がり、紅茶の代わりにコーヒーが普及するようになったのです。
一方のイギリス人もかつてはコーヒーを愛飲し、17世紀にはコーヒーハウスが社交や議論、情報交換などの場として盛んに用いられていたそう。しかしコーヒーをめぐる貿易戦争でフランスやオランダに敗れたこともあり、紅茶が普及していきました。
「茶法」が制定された際、アメリカ人が他の飲み物ではなくコーヒーを選んだ理由もここにあります。当時のアメリカは単独でイギリスに抵抗するのは難しく、他の国の援助が必要でした。そしてフランスやオランダはイギリスの敵国。だからこそアメリカでは、コーヒーが広がっていったのです。
ちなみに、「アメリカン」と呼ばれるコーヒーが薄味なことや、アメリカ人の多くがコーヒーにミルクや砂糖を加えるのは、紅茶の味に似せようと工夫をしたからだそうです。
- 著者
- 秋田 茂
- 出版日
- 2012-06-22
「日の没さない帝国」と呼ばれていたイギリス。本書は、18世紀から20世紀に焦点を当て、帝国の形成・発展・解体の経緯を解説している作品です。
当時のイギリス経済の根幹を支えていたのは、インドやセイロンで栽培される茶でした。 イギリスの象徴でもある茶を海に投げ捨てた「ボストン茶会事件」は、大きな衝撃だったのです。
アメリカ独立戦争を経て植民地を失ってからは、恒常的な赤字に苦しむようになり、インドの植民地に傾倒することを余儀なくされていきました。主力商品は茶からアヘンに変わり、市場を求めてアジアとの関わりを深めていくことになります。
豊富なデータと資料を駆使し、イギリスの歴史を客観的に見ることができる一冊です。
- 著者
- 友清 理士
- 出版日
『アメリカ独立戦争』というタイトルですが、上巻の大半が「フレンチ・インディアン戦争」、「印紙法」や「タウンゼンド諸法」、そして「ボストン茶会事件」に割かれています。
「フレンチ・インディアン戦争」においてイギリスは、植民地にいる多くの民兵を動員しました。後の「アメリカ独立戦争」において、民兵組織しか持たないアメリカがイギリス正規軍と互角以上に戦えた理由のひとつに、従軍経験がある人々が多くいたことが挙げられるそうです。
その後の課税問題も含めて、イギリスを絡めながらアメリカの歴史を紐解いていく作品です。「アメリカ独立戦争」にいたるまでの流れを知る最適な一冊でしょう。