1400年以上前に聖徳太子が定めたとされる「十七条の憲法」。現代でも大切にしたい道徳的な要素が強い成文法です。この記事では、制定された理由と目的、全条文の内容と意味、「三宝」や「凡夫」など仏教にまつわる用語をわかりやすく解説していきます。
「十七条の憲法」は、飛鳥時代の604年に聖徳太子が制定したとされる成文法で、その名のとおり全部で17の条文で構成されています。
憲法とついていますが、日本国憲法のような近代憲法とは異なり、官僚や貴族に対する道徳的な規範を示す色合いが濃いのが特徴です。
「十七条の憲法」を制定した聖徳太子は、第31代天皇である用明天皇の第二皇子として、574年に生まれました。叔母である推古天皇のもとで摂政を務め、蘇我馬子とともに仏教の振興を図り、中国の文化を学んで政治改革を進めます。「十七条の憲法」も、「冠位十二階」の制定に並ぶ改革の一環でした。
ただ江戸時代末期の学者、狩谷棭斎をはじめ、「十七条の憲法」は後に創作されたものではないかという指摘があり、真偽を巡ってはいまだに議論が続いています。
581年に楊堅が隋を建国し、およそ400年振りに中国が統一されました。超大国が誕生したことによって、東アジアの国際情勢が大きく変わります。高句麗・新羅・百済という三国が激しく争っていた朝鮮半島では、隋と手を結ぶのか、それとも対立するのか、熾烈な外交戦がおこなわれていました。
この時日本は、蘇我氏と物部(もののべ)氏による争いや崇峻天皇暗殺事件など、内政が混乱。604年になってようやく初めての遣隋使を派遣します。遣隋使は楊堅に拝謁したものの、皇帝からの質問にまともに答えることができず、未開発な野蛮国であるという印象を与えてしまいました。
遣隋使を派遣した聖徳太子の目的は、従属でも対立でもなく、対等に付き合うという第三の道を模索することだったといわれています。しかし失敗に終わったことで、隋と対等に付き合うにはそれにふさわしい国家体制を構築する必要があると明らかになったのです。
そうして聖徳太子の指揮のもと、日本は制度作りにまい進します。その結果、「十七条の憲法」や「冠位十二階」が制定されました。
聖徳太子はその後、607年に小野妹子を遣隋使として派遣。有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや」の国書を持参させ、煬帝を激怒させつつも隋との間に対等な関係を構築していきます。
1400年以上前に制定された「十七条の憲法」ですが、現代を生きる私たちにとっても教訓にするべき内容で、その価値は色あせていません。各条文の意味を簡単に紹介していきます。
第一条:和を以て貴しとなし
「十七条の憲法」のなかで最も有名な条文です。世の中には人間関係がうまくいかないこともあるけれども、身分の上下に関わらず皆で議論をすれば、自然と物事はうまく進んでいくと「和」の大切さを説いています。
第二条:篤く三宝を敬へ
「三宝」とは、仏・法典・僧侶のこと。仏教に深く帰依した聖徳太子らしい条文だといえるでしょう。この条文の続きには「はなはだ悪しきもの少なし」とあり、世の中に悪い人は少ないという性善説に近い考えをもっていました。
第三条:詔を承りては必ず謹め
天皇を天、臣下を地にたとえ、天が地を覆うことで万物の調和が保たれているとしています。天皇の命令を臣下がないがしろにすれば、秩序が乱れてしまうので、謹んで従いなさいとのことです。現代の組織論にも当てはまるでしょう。
もちろん第一条で身分に関係なく議論することが大事だと述べているので、どんな命令にも盲目的に従えという意味ではありません。
第四条:礼を以て本とせよ
礼儀の大切さを説いています。上の身分の者が礼儀を乱せば、下の者の秩序が乱れるとしました。1400年前も今も、礼儀の大切さは変わりません。
第五条:饗を絶ち欲することを棄て、明に訴訟を弁めよ
賄賂をやめ、公明正大な判決をおこなうよう戒めています。いつの時代も、権力は腐敗するもの。力をもつ者には常に己を律する心が求められます。
第六条:悪しきを懲らし善を勧むる
悪いことは必ず正し、よい事は顕彰するべきだということ。上の者に下の者の過失を言いつけて、下の者には上の者の悪口を言うようなこびへつらう人は、いずれ国家を滅ぼすともいっています。
第七条:人各任有り
人には得手不得手があるものだとして、適材適所の大切さを説いています。この頃の役所には勤務の規定などがなく、聖徳太子は勤勉に働くことを求めました。今では日本人の働き方として定着しています。
第八条:早朝晏退でよ
仕事は朝早く来て、夜遅く帰りなさいという意味です。
第九条:信は是義の本なり
「信」は儒教の教義のひとつ。嘘をつかず約束を守ることの大切さを説き、どんなことにも信は大切だといっています。
第十条:忿を絶ちて、瞋を棄て、人の違うことを怒らざれ。(中略)我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。ともに是れ凡夫ならくのみ
人が自分と違ったことをしても怒ってはいけないという戒めです。考え方は人それぞれで、自分が正義と思ったことが相手にとって悪であることは、ままあること。相手の意見もよく聞き、尊重することが重要です。
第十一条:功と過を明らかに察て、賞罰を必ず当てよ
人を評価する際には、功績と過失をしっかりと見極めてから賞罰を与えるべきだという意味です。功績を残した者に賞を与えず、罪のある者に罰を与えないのは悪政だといっています。
第十二条:国に二君非く、民に両主無し
国に君主は2人おらず、天皇のみ。国司などの地方官吏もすべて天皇の臣下なので、民の税を不当に徴収してはいけないという意味です。
第十三条:諸の官に任せる者は、同じく職掌を知れ
仕事を任せられたものは、仕事の内容自体を熟知する必要があると説いています。また病気などで仕事ができなくなった時も、しっかりと引き継ぎをし、仕事を滞らせてはいけないといっています。
第十四条:群臣百寮、嫉み妬むこと有ること無かれ
嫉妬心を抱いてはいけないといっています。自分が誰かに嫉妬をすれば、誰かもまた自分に嫉妬をする、そうすると足の引っ張りあいになり、優れた国家をつくることができません。
第十五条:私を背きて公に向くは、是臣が道なり
私心を捨てて公務に向き合うことこそが、臣下のするべきこと。私心は妬みや嫉みを生み、不和を招き、国家の成長を妨げることになります。
第十六条:民を使うに時を以てするは、古の良き典なり
人に物事を頼む時は、タイミングが大切だという意味です。農家が繁忙期に駆り出されるのは迷惑であり、また彼らが疲弊すれば国民の食糧がなくなることに繋がります。一方で閑散期は仕事がないので頼みやすいのです。
第十七条:夫れ事独り断むべからず。必ず衆とともに宜しく論ずべし
ひとりで物事を判断すると誤る場合もあるので、大事なことを決める際にはみんなで議論をするべきだといっています。
日本に仏教が伝来したのは、538年もしくは552年のことだといわれています。つまり聖徳太子が生きた時代は、まだ新興宗教に過ぎませんでした。
そんな仏教の受容をめぐり、日本古来の神道を重視すべきだとする物部氏と、仏教を奨励する蘇我氏の間で対立が起こります。そして聖徳太子は蘇我馬子とともに、物部氏を没落させるのです。その後、聖徳太子は日本最古の本格寺院である四天王寺を、蘇我馬子は飛鳥寺を建立しました。
「十七条の憲法」にも、仏教にまつわる言葉が登場します。代表的なのが、第二条に出てくる「三宝」と、第十条に出てくる「凡夫」です。
「三宝」とは、悟りの体現者である「仏」、仏の説いた教えをまとめた「法」、法を学ぶ仏弟子の集団である「僧」という仏教において重視される3つの宝物を指しています。キリスト教やイスラム教のような絶対神への信仰を重視するのではなく、三宝に対する「帰依」、つまり拠り所にすることを重視しているのが特徴です。
「凡夫」の読み方は、「ただびと」。第十条では相手の意見を受け入れることを説いていますが、聖徳太子は人はそれぞれの考え方をもつ凡夫でしかないとして、話し合いの場においてはそのような自分を自覚することが大切だといっているのです。
- 著者
- 岡野 守也
- 出版日
- 2003-10-01
聖徳太子が実在したかどうか、あるいは「十七条の憲法」が本当に7世紀に作られたものなのかどうか、議論が続いていますが、本書を読むとそんなことは些細な問題だと思わせてくれるでしょう。
「十七条の憲法」に込められた思想は、1400年にわたって紛れもなく日本人が理想としてきたもの。アイデンティティの原点になったといっても過言ではありません。隋の皇帝から「未開な野蛮国」という烙印を押され、それを払拭しようと国づくりに励んだ人々の願いが込められているのです。
作者は、仏教に詳しい思想家であり心理学者の 岡野守也。わかりやすい解説で、聖徳太子の心を紐解いていきます。
- 著者
- 聖徳太子
- 出版日
- 2007-05-01
「日本最初の文化人」といわれる聖徳太子。本書には「十七条の憲法」をはじめ、彼が執筆した『法華義疏』、彼の伝記である『上宮聖徳法王帝説』が収録されています。
隋を手本にして「十七条の憲法」を制定した聖徳太子。仏教と儒教をバランスよく取り入れ、自身のなかにしっかりとした政治哲学をもっていたことがわかります。国際情勢が揺れるなかで、日本に彼のような人物がいたことは奇跡ともいえるのではないでしょうか。
200ページ以下と読みやすいボリューム。聖徳太子の人物像に迫りたいと考えている人におすすめです。