18世紀のなかば、オーストリアとプロイセンの戦いに端を発した「七年戦争」。やがてヨーロッパ中に広がり、史上初めての世界大戦となりました。この記事では、戦いの背景や経緯、結果、影響などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
1756年から1763年にかけてヨーロッパでおこなわれた戦争を「七年戦争」といいます。
きっかけは、フリードリヒ2世が率いるプロイセンと、マリア・テレジアが治めるオーストリアの、シュレージエン地方をめぐる対立。しかし植民地を争って、プロイセン側にイギリス、オーストリア側にフランス、ロシア、スペイン、スウェーデンなどが加わったことで、オスマン帝国を除く欧州列強が軒並み参戦することになりました。
やがてヨーロッパのみならず、アメリカやアフリカ、インドなどにも広がり、「史上初めての世界大戦」と呼ばれています。
戦場が広範囲におよんだこともあり、「七年戦争」のほか「フレンチ・インディアン戦争」「ポンメルン戦争」「第三次カーナティック戦争」「第三次シュレージエン戦争」など数多くの別称が存在。さらに18世紀のほぼ全期間にわたって敵対したイギリスとフランス間の戦争は「第二次百年戦争」と呼ばれ、「七年戦争」もその一部と位置付けられることがあります。
「七年戦争」が起こった背景は主に2つあります。
まずひとつが、「オーストリア継承戦争」です。
これは1740年から1748年に起こったもので、ハプスブルク家による神聖ローマ皇帝位およびオーストリア大公位の継承問題が発端でした。この戦争の結果、オーストリアはシュレージエン地方をプロイセンに奪われてしまいます。
オーストリアにとって、シュレージエン地方の奪還は悲願。そのため長年の敵だったフランスのブルボン家と「ヴェルサイユ条約」を結び、お互いが他国に攻撃された時に相互援助することで合意しています。
ふたつめの背景が、「英仏植民地競争」です。
広大な植民地を有していたスペインや、小国ながら海上覇権を握っていたオランダが没落した17世紀後半以降、フランスとイギリスは、北アメリカや南アジア、アフリカを含む海外植民地の争奪をめぐり100年以上にわたって争いを続けます。
そのなかでイギリスは、先に述べたオーストリアとフランスの「ヴェルサイユ条約」に対抗するために、プロイセンと同盟を結ぶのです。
オーストリアとフランス側には、プロイセンに奪われたポンメルン地方の奪還を目指すスウェーデンや、フランスと同じくブルボン家を君主に戴くスペイン、プロイセンのポーランドへの進出を警戒するロシア、そしてイギリスのベンガル地方への侵攻を阻止したいインドのムガル帝国も参戦することになりました。
オーストリアとプロイセン、フランスとイギリスという2つの対立軸が交錯した結果、七年戦争はオスマン帝国を除くヨーロッパの列強を巻き込んだ世界大戦へと発展していったのです。
ヨーロッパの戦いと、植民地の戦いに分けて考えてみましょう。
まずヨーロッパの戦いは、1756年8月29日にフリードリヒ2世率いるプロイセン軍が、オーストリアのザクセンに侵攻したことで始まりました。
プロイセンの目的は、オーストリアがシュレージエン地方に侵攻することを予防することでしたが、相次ぐ列強の参戦により、周囲を敵国に囲まれる状況になってしまいます。「プラハの戦い」「ロスバッハの戦い」「ロイテンの戦い」などで勝利をしたものの、1759年の「クネルスドルフの戦い」で軍の半分を失うほどの大敗北を喫します。一時的に首都ベルリンを占領されるなど、敗北寸前にまで追い込まれました。
しかし1761年、ロシアの女帝エリザヴェータが急死して、親プロイセンのピョートル3世が即位すると状況は一転。プロイセンはロシアとの間に単独講和を結ぶことに成功するのです。
さらにピョートル3世はロシア軍によるプロイセン領の占領を解き、スウェーデンとの和平を仲介。それだけでなく、ロシア軍の一部を援軍として派遣し、フリードリヒ2世の指揮下に入れました。この一連の出来事は「ブランデンブルクの奇跡」と呼ばれています。
ロシアとの講和によって窮地を脱したプロイセンは、「フライベルクの戦い」でオーストリアに勝利。プロイセンとオーストリアによる戦争は膠着状態に陥ることになりました。
その後1763年になると、戦争による激しい疲弊のためにイギリスがプロイセンへの援助を打ち切ることを決断。さらにロシア皇帝のピョートル3世が廃位し、ロシアも戦争から手を引くことになります。これによってプロイセンの継戦能力は大きく削がれてしまいました。
一方のオーストリアも財政難に陥っていて、攻勢に出る余力はなく、他の参戦国も兵を縮小し始めました。
その結果、1763年2月15日にプロイセンとオーストリアの間で「フベルトゥスブルク条約」が締結。プロイセンとオーストリアの戦いは終結することになるのです。プロイセンは、再びシュレージエン地方を領有することに成功しました。
一方で植民地における戦いは、実はヨーロッパでの戦いが起こるよりも前の1754年に始まっています。フランスとイギリスが、インドや北アメリカ、カリブ海島嶼、フィリピン、アフリカ海岸をめぐって争っています。
こちらは1763年に「パリ条約」で終結し、フランスはルイジアナをスペインに、ヌーベルフランスの領土を一部の島を除いてすべてイギリスに割譲することなりました。イギリスはスペインからもフロリダを獲得し、ミシシッピ川以東の北アメリカをすべて支配下に置くことに成功。さらにインドにおいても、フランスの勢力はほぼすべて失われ、イギリスが主導権を握ります。
この勝利が、後に「パックス・ブリタニカ」と呼ばれるイギリスの繁栄に繋がっていきました。
オーストリア、ロシア、フランス、スウェーデンという列強を同時に敵に回し、戦い抜いたプロイセンの国際的地位は大きく上昇。後のドイツ統一における主導権を握ることになります。
またイギリスは多くの植民地を獲得して、帝国の礎を築くことに成功しました。しかし一方で長引くフランスとの戦いのために軍費を調達しようと、北米の植民地に重税を課したことが反発を呼び、1775年から「アメリカ独立戦争」が発生。長い目で見ると、「七年戦争」はアメリカの独立にも影響をおよぼしたといえるでしょう。
オーストリアでは、マリア・テレジアの子どもであるヨーゼフ2世が皇帝に即位。彼は啓蒙思想の影響を受けた啓蒙専制君主として、プロイセンのフリードリヒ2世を見習い、宗教寛容令や農奴制の廃止などの改革に取り組みました。
多くの海外植民地を失ったフランスでは財政難が深刻になり、やがて民衆による「フランス革命」へと繋がっていきます。また「七年戦争」で負けたことをきっかに砲兵を中心とした軍制改革に取り組んだため、「フランス革命戦争」や「ナポレオン戦争」で世界最強と称賛されることになる軍備システムが生み出されました。
ちなみに、主だった活躍をしていないスウェーデンでは、兵士がプロイセンから自国にジャガイモを持ち帰ったことから、普及して主食となったそうです。
- 著者
- 吉田 成志
- 出版日
- 2009-09-01
上下2巻で構成されていて、上巻では前哨戦ともいうべき「オーストリア継承戦争」に焦点を当て、下巻では「七年戦争」のメインの戦いを解説している作品です。
オーストリアとプロイセン、フランスとイギリス、そしてヨーロッパ列強も加わり、複雑な様相を呈している「七年戦争」を、当時の各国の置かれている状況を説明しながら記してくれているので、わかりやすいでしょう。岩倉使節団や北条政子など、ところどころに日本のエピソードも挿入されています。
そもそも「七年戦争」自体が日本人にとってあまり馴染みのないもの。専門で扱っている書籍も少ないため、本書は貴重な一冊だといえるでしょう。
- 著者
- 飯塚 信雄
- 出版日
フリードリヒ2世は、まだまだ小国だったプロイセンを率い、オーストリア、フランス、ロシアといった大国を相手に「オーストリア継承戦争」や「七年戦争」を戦い抜いた類まれな戦略家として知られています。
その一方で、彼のもつ文化的側面についてはあまり知られていません。実は彼、フランスの哲学者ヴォルテールに師事をしていて、さらにフルートの名手でもあったそうです。本書では、フリードリヒ2世の文化的な面に注目して彼の生涯を追い、その人間性を考察しています。
プロイセンが帝国として発展していく19世紀以降、フリードリヒ2世はさまざまな伝説に彩られていきましたが、本書では歪められたイメージを極力排除してありのままの姿を描き出そうと努めています。国と国とが争う時代に、彼はどのように生きたのでしょうか。文章も堅苦しくなく、気軽に読める一冊です。