5分でわかるアロー戦争!背景と原因、勝因、日本への影響などを簡単に解説!

更新:2021.11.19

中国の清王朝と、イギリス・フランス連合軍が戦った「アロー戦争」。開国したばかりの江戸幕府にも影響を与えたといわれています。この記事では、戦争が起こった背景と原因、連合軍の勝因、日本への影響などをわかりやすく解説。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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「アロー戦争」とは

 

1856年から1860年にかけて、中国の清と、イギリス・フランス連合軍が戦った戦争を「アロー戦争」といいます。

「アロー」という名は、1856年に起こった「アロー号事件」に由来するもの。これが中国人による外国人排斥運動の象徴的な事件とみなされたため、戦争にも用いられるようになりました。1840年から始まった清とイギリスの戦いである「アヘン戦争」に続く出来事だったため、「第二次アヘン戦争」とも呼ばれています。

当時清の南部では、洪秀全による「太平天国の乱」が展開されていました。自身を天王と名乗り、南京を天京とあらためて首都として独立国家としての様相を呈するなど、中央政府にとっては頭痛の種。その最中に起こった「アロー戦争」は、まさに泣きっ面に蜂ともいうべき戦争だったのです。

 

「アロー戦争」の背景と原因。「南京条約」や「アロー号事件」など

 

1842年、「アヘン戦争」の講和条約として「南京条約」が締結されました。清はイギリスに対して、これまでの広州に加えて厦門、福州、寧波、上海の港を開港し、それぞれの港に領事を置くことを認め、さらに香港の割譲をすることになります。

その後も関税率、領事裁判権、最恵国条項などイギリスに有利な協定を結ぶことになり、また公式には認められていなかったものの、アヘン貿易も黙認されていました。

このような状況で、広東を中心に清の人々による外国人排斥運動が盛んとなります。イギリス人を対象とした暴動が起こったり、イギリス商館が焼き討ちされるなどの事件が発生しました。

特に焦点となっていたのが、「広州入城」に関する問題です。広州は城壁に囲まれた中国人街で、外国人が中に入ることは認められていませんでした。イギリス政府は、入城をめぐり清の中央政府と交渉することを望みましたが、清は先に締結した「南京条約」に違反して直接交渉をせず、窓口は広東欽差大臣であるとして応じません。

また広東欽差大臣との交渉も、中央政府と意志の疎通がとれず、現地の混乱した情勢でなかなか前進しませんでした。

イギリスの外務大臣だったパーマストン子爵は、清の不誠実な対応の改善と、広州入城を目的に、武力行使を決断します。そして、議会を納得させられる開戦理由を考えているさなかで起こったのが、「アロー号事件」でした。

「アロー号事件」は、1856年10月8日に、清の役人が広州港に停泊していたイギリス領香港船籍のアヘン密輸船アロー号の取り調べをおこない、乗組員の一部を海賊の容疑で逮捕したもの。

この時に広州領事を務めていたのが、ハリー・パークスという人物。彼は両広総督・欽差大臣である葉名琛(しょうめいちん)に対し、「イギリス船籍の船に対して清が取り調べをするのは不当」「取り調べの際に、清の役人がイギリス国旗を引きずり下ろしたことは、イギリスに対する侮辱」と主張しました。

実際には、アロー号の船籍は登録期限が過ぎていて、清による取り調べや逮捕は合法。またイギリス国旗を引きずり下ろしたという真偽のほども明らかになっていません。

しかしハリー・パークスは強硬に自説を主張し、葉名琛も詳細な調査をすることなく交渉は決裂。清に駐在しているイギリス海軍が広州の砲台を攻撃し、「アロー戦争」が開戦しました。

 

「アロー戦争」の勝敗。「天津条約」「北京条約」とは

 

パーマストン子爵は開戦後、イギリス本国から軍を派遣することを決断します。1度は議会の反対でとん挫しますが、解散総選挙をした後に新たな議会で承認を取り付け、遠征軍の派遣が決定されます。さらにイギリスは、フランスのナポレオン3世に共同出兵を依頼しました。

1857年12月29日、イギリスとフランスの連合軍は広州を占領し、葉名琛を捕縛。1858年2月には、アメリカとロシアを加えた4ヶ国の全権大使による連名で、清の中央政府に対して「南京条約」の改正を求めます。

しかしこの要求に対し、清の中央政府が満足な回答をしなかったため、連合軍は北上し、北京近辺にある天津を制圧。「公使の北京駐在」「キリスト教布教」「内地河川の商船航行」「イギリス・フランスに対する賠償金支払い」などが内容に含まれる「天津条約」を結び、連合軍は一時撤収しました。

翌1859年6月、「天津条約」批准のために、連合軍が再び天津にやってきます。しかしこれに対して清は出迎えをせず、さらに天津に続く白河には艦隊の通行を妨害する障害物が設置されていました。そして連合軍が障害物を取り除いている最中に、清が攻撃。連合軍は上海に後退することになります。

1860年になると、連合軍は陣容を整え北上。清の皇帝は北京から250km離れた場所へ避難をし、連合軍は北京を占領して勝利。略奪と破壊の限りを尽くしたそうです。

連合軍の勝因は、清よりもはるかに優れた性能をもつ近代兵器を保有していたこと、「太平天国の乱」などに対応するため清の兵力が分散していたことなどが挙げられます。

清はロシア公使ニコライ・イグナチェフの調停を受け、皇帝の弟である恭親王を代表者として、イギリス、フランスとの間に「北京条約」を締結しました。

これによって清は、「天津の開港」「九竜半島のイギリスへの割譲」「中国人の海外渡航許可」などを認めることになります。「中国人の海外渡航許可」とはつまり、中国人労働者を移民として劣悪な条件で労働に従事することを許可するというもの。このような労働者は「苦力(くーりー)」と呼ばれ、奴隷制度の廃止によって労働力が不足していた欧米諸国の植民地で働くことになりました。

さらに、調停役を担ったロシアに対しても、外満州を割譲することになります。ロシアはこの沿海地方に港ウラジオストックを建設し、後の太平洋艦隊の拠点になりました。

 

「アロー戦争」の日本への影響は?

 

1853年にペリーが来航し、開国をしたばかりの日本。「日米和親条約」を結び、下田と函館の2つを開港していたものの、貿易自体はまだおこなわれていませんでした。アメリカ領事タウンゼント・ハリスは、江戸幕府に対し、通商条約の締結を要求していました。

しかしなかなか進展がみられない状況に業を煮やしたハリスは、「アロー戦争」と、インドで起きたイギリスの植民地支配に対する反乱を引き合いに出し、交渉に応じなければイギリスやフランスが日本に攻め込んでくる可能性を示唆して圧力をかけます。その結果、1858年に「日米修好通商条約」が締結されました。

また1862年には、長州藩の高杉晋作らが上海を訪れ、約50日間滞在。「アヘン戦争」によって締結された「南京条約」にもとづいて開港してから20年、さながら欧米の植民地の様相を呈する上海の様子を目の当たりにし、大きな衝撃を受け、このままではいずれ日本も同じような状態に陥るのではないかと懸念を抱いたそうです。高杉晋作は自身の日記『遊清五録』に、当時の様子を「実に慨嘆に堪えないものがある」と書き残しています。

 

敗因から中国の近代史を見る

著者
別宮 暖朗
出版日
2008-03-10

 

中国の近代史に焦点を当て、「アヘン戦争」や「アロー戦争」、「南京事件」など7つの紛争を通じて、なぜ中国外交は失敗を続けてしまったのかを考察しています。

特に「対等」という概念を取りあげ、中国の政治に欠如していると指摘。「アロー戦争」の開戦経緯についても、アヘンを売ろうとしたイギリスが抵抗しようとした清を武力で侵略したというイメージが強いですが、実際は清政府の不誠実な対応が大きな原因になっていたことがわかるでしょう。

敗北の原因という側面から事象を見てみると、歴史の捉え方も変わるはず。中国近代史を新たな視点で見れる一冊です。

 

「アロー戦争」などを漫画で学べる一冊

著者
出版日
2016-02-09

 

「学習まんがシリーズ」の特徴は、その時代を象徴する特定の人物を軸に据え、政治や経済、文化を通史的に描いている点。歴史に関する本は登場人物が多く混乱してしまいがちですが、ひとりの人物を中心にストーリーが展開されるので、わかりやすいでしょう。

本書でその役割を担うのは、「アヘン戦争」直前の1837年に即位したイギリスのヴィクトリア女王です。彼女を中心に、「アヘン戦争」「アロー戦争」「太平天国の乱」「インド大反乱」「オスマン帝国の衰退」などが語られる構成です。

イギリスをはじめとする欧米列強が世界の植民地化を進め、これに抵抗しようとアジアで民族運動が巻き起こる様子がわかるでしょう。

漫画なので、歴史を学びたいけれど活字を読むのが苦手な人にもおすすめです。

 

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