5分でわかる賤ヶ岳の戦い!背景や敗因、七本槍、大返し等をわかりやすく解説

更新:2021.11.19

秀吉の天下統一を決定づけたともいわれる「賤ヶ岳の戦い」。いったいどんな戦いだったのでしょうか。この記事では、戦いが起きた背景や柴田勝家の敗因、「美濃大返し」「七本槍」などをわかりやすく解説していきます。

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「賤ヶ岳の戦い」の背景は?「本能寺の変」と「清須会議」

 

1583年4月、現在の滋賀県長浜市にある近江の賤ヶ岳(しずがたけ)付近で起きた、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いを「賤ヶ岳の戦い」といいます。もともとは織田家の内部争いでしたが、勝利した秀吉は天下人への第一歩を踏み出すことになりました。

「賤ヶ岳の戦い」の背景には、織田信長と息子の信忠が、家臣である明智光秀に討たれた「本能寺の変」と、織田家の後継者を決めるために開かれた「清須会議」があります。

織田家の筆頭家老だった柴田勝家は、本来であれば主君の敵討ちと、主家の後継者問題を主導すべき立場です。しかし軍団長のひとりとして北陸方面を担当していて、当時は越中の上杉景勝軍と戦っていたため、「本能寺の変」の報せを聞いてもすぐに戻ることができませんでした。

その間に、中国方面を担当していた軍団長の羽柴秀吉は、備中で対陣中だった毛利家と和睦を結び、「中国大返し」と呼ばれる強行軍のすえ、「本能寺の変」から11日後の1582年6月13日に「山崎の戦い」で明智光秀を倒すのです。

この時柴田勝家は、軍勢を率いて越前と近江の間にある柳ヶ瀬峠まで来ていましたが、間に合いませんでした。

「清須会議」が開かれたのは、「山崎の戦い」から2週間後のこと。柴田勝家は織田信長の三男である信孝を推薦しましたが、主君の敵討ちを果たすという功績を挙げた羽柴秀吉の意見に、丹羽長秀や池田恒興が賛成したため、後継者は秀吉が推薦した信長の孫である秀信に決まりました。

その後織田家の内部は、あたかも新たな天下人かのように振る舞う羽柴秀吉に従う者と、柴田勝家を中心とした秀吉に反発する者とに二分されます。

10月になると勝家は、秀吉が「清須会議」時に結んだ誓約に違反をしていると批難。一時は和睦を結びますが、12月に秀吉がこれを反故。近江の長浜城と美濃の岐阜城を攻撃します。長浜城主で勝家の養子でもある柴田勝豊と、岐阜城主の織田信孝は、わずか数日で降伏しました。

翌1583年の正月には、伊勢の滝川一益が挙兵。しかし秀吉の大軍の前に苦戦を余儀なくされました。この状況に勝家も挙兵を決断し、近江に向けて出陣。「賤ヶ岳の戦い」が勃発することになります。

「賤ヶ岳の戦い」の流れを解説!「美濃大返し」とは?

 

1583年3月12日、柴田勝家は、甥の佐久間盛政や与力の前田利家など約3万人の兵を率いて、近江の柳ヶ瀬に位置取りました。

一方の羽柴秀吉は、伊勢の滝川一益に対応するために織田信雄と蒲生氏郷など1万人を残し、約5万人の兵で北上。3月19日に木ノ本に布陣します。両者はすぐには衝突せず、互いに陣地を構築して膠着状態になりました。

4月16日、1度は秀吉に降伏していた織田信孝が美濃で挙兵し、状況が動きます。中川清秀を討ち取り、さらに黒田官兵衛孝高、高山右近らの部隊も攻撃しました。

黒田官兵衛は持ちこたえたものの、高山右近は退却。勝家は十分な攻撃ができたと佐久間に引き揚げるよう命じますが、佐久間は「鬼玄蕃」といわれるほどの猛将で、言うことを聞きません。

その頃美濃にいた秀吉は、この状況を聞いてただちに反転。大垣から木ノ本までの約50kmを5時間で駆け抜け、佐久間盛政の軍勢に襲いかかりました。この強行軍を「美濃大返し」といいます。

佐久間軍は数では劣るものの、緒戦を勝利して勢いに乗っており、両者は互角の戦いをくり広げました。

しかし、激戦が続いていた最中に、突如として前田利家の軍勢が戦線を離脱するのです。続いて金森長近、不破勝光の軍勢も退却。勢いを削がれて佐久間軍は敗走することになります。秀吉軍はそのまま勝家の本隊に襲い掛かり、勝家は越前の北ノ庄城に退却しました。4月23日には寝返った前田利家を先鋒とする秀吉軍に包囲され、妻であるお市の方と自害します。

佐久間盛政は戦場から逃げる途中で捕らえられ、秀吉からの家臣にならないかという誘いを断り、市中引き回しの後に斬首。首は京の六条河原に晒されました。

2度にわたって秀吉に反旗を翻した織田信孝は、兄である信雄の命によって切腹。また勝家軍が敗北した後も抵抗を続けた滝川一益は7月に降伏して、丹羽長秀のもと越前で蟄居となりました。

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉のもとには、中国の毛利輝元、越後の上杉景勝、東海の徳川家康、九州の大友義統など有力大名から祝賀の使者が訪れます。朝廷からは従四位下参議に任じられ、大阪城の築城を始めるなど、事実上の天下人とみなされるようになるのです。

「賤ヶ岳の戦い」における柴田勝家の敗因は?

 

柴田勝家はなぜ「賤ヶ岳の戦い」に敗れてしまったのか、主な敗因を考えていきましょう。

近江、伊勢、美濃の三方面で戦うことを余儀なくされた羽柴秀吉。佐久間盛政の攻撃で重要な砦が陥落し、高山右近が退却した報せが届いた時は、まだ大垣城にいました。ここから秀吉は軍を反転して「美濃大返し」と呼ばれる大逆転劇を展開することになります。

しかし、本来であればこの時秀吉軍は、揖斐川を渡って信孝軍との戦いをしていたはず。なぜ「美濃大返し」を実行できたのでしょうか。

それは、大雨で揖斐川が増水して氾濫し、川を渡ることができなかったからなのです。秀吉にとっては運も味方していたといえるでしょう。

また、勢いにのった佐久間盛政が、勝家からの後退命令に従わず最前線に居続けたことも敗因のひとつです。佐久間は敵陣の深くに入り込みすぎていたからこそ、予想外に早く到着した秀吉軍の攻撃にこらえることができませんでした。

そして「賤ヶ岳の戦い」における最大の敗因だと考えられているのが、前田利家の裏切りです。

利家は14歳頃から織田信長に仕え、「槍の又左」と呼ばれるほどの槍の名手でした。17歳ほど年上の柴田勝家を父親のように慕い、彼のもとで与力として戦場を駆けめぐり、1581年には信長から能登の大名に任されています。その一方で秀吉とは、若い頃から家族ぐるみで付きあう友人でした。

利家は「賤ヶ岳の戦い」で、3万いる勝家軍のうち約5000の兵を率いていましたが、途中で戦線を放棄して撤退します。勝家と秀吉の間で心を揺らしたすえの苦渋の決断でしたが、この裏切りが決定的となり、勝家は敗北することになりました。

勝家は「賤ヶ岳の戦い」の後、越前の北ノ庄城に逃げる途中で利家が籠っている越前の府中城に立ち寄ります。この時勝家は、利家の裏切りを責めることはなく、むしろこれまでの労をねぎらう言葉をかけたそうです。

利家はその後、豊臣政権の五大老のひとりになり、「加賀百万石」の礎を築きました。

「賤ヶ岳の戦い」の「七本槍」とは。どんな活躍をした?

 

羽柴秀吉の軍勢で「賤ヶ岳の戦い」に参加し、功績を残した武将たちを「賤ヶ岳の七本槍」といいます。

一般的に「七本槍」として知られているのは、福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元の7人ですが、実際に秀吉が「感状」と呼ばれる功労を評価した文書を与えたのは、この7人に石川一光と桜井佐吉を加えた9人だそう。石川は「賤ヶ岳の戦い」の最中に討ち死にし、桜井も負傷が原因で後に亡くなっていて、彼らを除いて「七本槍」と伝えられています。

そもそも「賤ヶ岳の七本槍」が喧伝されるようになったのは、秀吉の家臣たちがいかに優れているかを世に知らしめるため。秀吉は百姓の出身だったため、譜代と呼ばれる家臣がいませんでした。

しかし天下人ともなれば、大名として信頼できる家臣を各地に配置する必要があります。そのためには、家臣自身に箔をつける必要があったのです。亡くなった2人が省かれた理由も、ここにあるといえるでしょう。実際に「七本槍」の7人は、豊臣政権の中枢を担っていくことになります。

福島正則は、勝家軍の副将だった拝郷家嘉を討ちとる功績をあげ、他の6人が3000石の加増だったところ、5000石の加増を受けました。秀吉政権下でも猛将として名を馳せ、尾張国の24万石を与えられました。

敵将の山路正国を討ちとった加藤清正は、豊臣政権で優秀な財務官僚として活躍します。肥後北半国に19万5000石を与えられ、熊本城を築いています。

敵将の柴田勝政を討ちとったとされる脇坂安治は、水軍の指揮官となり、各地を転戦。淡路洲本で3万石の大名になりました。

加藤嘉明は、脇坂同様に水軍の将となり、「文禄・慶長の役」でも活躍。淡路国と伊予国あわせて6万石の大名になっています。

佐久間盛政が指揮する宿屋七左衛門を討ちとった糟屋武則は、秀吉が天下統一にいたるまでのほぼすべての戦いに出陣。播磨国、河内国あわせて1万2000石の大名となりました。

片桐且元は、播磨国、伊勢国、摂津国などに点在する領地をあわせて1万石の大名となり、秀吉の後継者である豊臣秀頼の世話役にも任じられています。

唯一、豊臣政権下で大名になれなかった平野長泰ですが、江戸時代になると5000石の旗本として幕府に仕えました。

柴田勝家の敗因を検証しなおす一冊

著者
楠戸 義昭
出版日
2018-07-04

 

作者の楠戸義昭は、新聞記者を務めた経験もある歴史家。本書では、綿密な現地調査と資料研究をもとにこれまでの定説を覆し、「賤ヶ岳の戦い」における勝家の敗因を「戦場の高低差」だとしています。

また柴田家の武将たちの人となりや、「賤ヶ岳の戦い」にいたるまでの経緯、戦いの過程を詳細に分析。より克明に全貌を知ることができるでしょう。

「賤ヶ岳の戦い」で活躍した「七本槍」の生涯は

著者
徳永 真一郎
出版日

 

「賤ヶ岳の戦い」の七本槍のなかには、福島正則や加藤清正のようによく知られている武将もいれば、片桐且元のように晩年になってからの印象が強い武将もいます。

本書は、彼ら7人が「賤ヶ岳の戦い」の後にどのような人生を送ったのかを小説として描いた作品です。秀吉自身がそうであったように、決して高い身分の出身ではなかった7人。戦国末期の動乱の時代をどのように生き抜いていったのでしょうか。

ただの歴史上の出来事ではなく、ひとりの人間としてのドラマを感じられる一冊です。

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