5分でわかる長州征伐!原因、流れ、なぜ幕府軍が負けたのか理由を解説!

更新:2021.11.19

江戸時代末期、幕府が長州藩に攻め込み、敗北する「長州征伐」という事件がありました。歴史の大きなターニングポイントとなる戦いについて、原因、流れ、結果をわかりやすく解説していきます。

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「長州征伐」とは。概要を簡単に解説

 

1864年と1866年の2度にわたって、江戸幕府が朝敵である長州藩領に攻め込んだ事件が「長州征伐」です。「長州征討」「長州出兵」「幕長戦争」「長州戦争」など多くの呼び方が存在します。

1864年の「第一次長州征伐」では、尾張藩の元藩主である徳川慶勝(よしかつ)が征長総督、越前藩主である松平茂昭(もちあき)が副総督となり、西国諸藩を中心とする35藩で約15万人の征長軍が編成されました。参謀を務めたのは、薩摩藩の西郷隆盛です。しかし直接的な戦いが起きずに、幕府側の勝利で終わっています。

1866年の「第二次長州征伐」では、尾張藩の元藩主である徳川茂徳(もちなが)を先手総督に、紀州藩主である徳川茂承(もちつぐ)を副総督にして、長州藩に攻め込みました。最終的に、幕府側の敗戦で幕を閉じています。

「第一次長州征伐」がおこなわれた原因「禁門の変」とは

 

「第一次長州征伐」の直接的な原因といわれているのが、京都で起きた「禁門の変」という事件です。

もともと尊王攘夷派の急先鋒だった長州藩は、朝廷の実権を握り、孔明天皇を担いで攘夷を天下に広く宣言する計画を練っていました。尊王攘夷派とは、簡単にいうと外国の人や文化などを排斥しようとする考え方です。

しかし1863年、孝明天皇や中川宮朝彦親王、会津藩、開国攘夷派の薩摩藩らが起こした「八月十八日の政変」によって、尊王攘夷派の公家ともども京の都から追放されることになってしまいます。

「禁門の変」は、この「八月十八日の政変」によって京を追放された長州藩が復権を目指し、京都守護職を務める会津藩主の松平容保らの排除を目指して挙兵した事件です。畿内で大名同士が戦うのは、1615年の「大坂夏の陣」以来のことでした。

長州藩は「禁門の変」の結果、久坂玄瑞、入江九一、来島又兵衛らを含む約400人の戦死者を出して敗北を喫します。

さらに、戦いの最中に長州藩が御所に向かって発砲したことで、朝廷から「朝敵」とみなされ、藩主である毛利敬親(たかちか)らに対して追討令が出されました。

「第一次長州征伐」の流れと結果

 

7月23日、朝廷から長州征伐の勅命を受けた幕府は諸藩を動員し、8月13日には攻め口を芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口に定め、10月22日に大坂城で軍議を開催します。ここで、攻撃を始める日が11月18と決定されました。

しかし、征長総督である徳川慶勝は、実際に戦となれば莫大な戦費がかかることもあり、開戦には消極的だったそう。また参謀を務める薩摩藩の西郷隆盛も、長州藩の早期降伏による戦の回避を目指しました。

11月4日、徳川慶勝に命じられた西郷隆盛は、長州藩の岩国で領主の吉川経幹(つねまさ)と会談。吉川は降伏の条件として、「禁門の変」に加わった三家老の切腹、四参謀の斬首、五卿の追放を提示します。この条件にもとづいて、11月11日から12日にかけて三家老は切腹し、四参謀は斬首されました。

11月16日、広島の国泰寺に置かれた征長総督府において、三家老の首実検がおこなわれます。首実検とは、討ちとられた首が確かに本人であるかを大将自らが確認をすることです。

その後大目付の永井尚志は「藩主父子を罪人として引き渡こと」と「萩城の開城」を要求しましたが、経幹が「防長土民は徹底抗戦する」と回答したことや西郷隆盛から再考を提案されたこともあり、長州藩の降伏条件は「藩主父子からの謝罪文書提出」「五卿の追放」「山口城の破却」で決まりました。

この寛大な条件に、副総督を務めた松平茂昭などからは不満の声もあがりましたが、西郷隆盛が説得して了承させ、第一次長州征伐は戦闘に発展することなく、幕を閉じました。

「第二次長州征伐」の流れと結果。なぜ幕府軍は負けたのか?

 

江戸時代の後期、長州藩内では改革派の「正義派」と、保守派の「俗論派」という2つの派閥ができ、抗争が続いていました。

「正義派」は、藩政改革を進めた村田清風の意志を継ぎ、周布政之助、吉田松陰、桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、大村益次郎、山田顕義、伊藤博文などで構成されています。一方の「俗論派」は長井雅楽、椋梨藤太などが代表格でした。

「禁門の変」は久坂玄瑞ら「正義派」によって起こされた事件であり、これが原因で第一次長州征伐が起こったため、幕府への恭順を主導する「俗論派」の手で三家老が切腹させられています。

これに対し、「正義派」の高杉晋作や伊藤博文らが反発し、長府の功山寺で挙兵。「元治の内乱」と呼ばれる戦いのすえ、藩の正規軍を破り、「俗論派」を排除して実権の掌握に成功するのです。

長州藩内の情勢が変わったことで、幕府は「第二次長州征伐」を計画します。しかし、長州藩がイギリスやフランス、オランダ、アメリカと戦った「下関戦争」や、それにともなう兵庫開港要求問題などもあり、なかなか進展しません。

その間に、坂本龍馬らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の桂小太郎が会談。1866年に長年にわたって宿敵関係だった両者が「薩長同盟」を締結します。薩摩藩の援助もあり、長州藩は最新式の武器を多数入手することができました。

「第二次長州征伐」は、1866年6月7日に開始。幕府軍の艦隊が周防大島へ攻撃をし、6月17日までに、芸州口、小瀬川口、石州口、小倉口などでも戦いが起こります。幕府軍は数では勝っていたものの、薩摩藩や広島藩が出兵を拒否するなど兵士の士気は低い状態で、苦戦を余儀なくされたそうです。特に石州口を担当した幕府軍は、大村益次郎の天才的な指揮の前に大敗を喫し、浜田城や石見銀山を失ってしまいました。

さらに大坂城にいた将軍の徳川家茂が8月29日に病死。跡を継いだ徳川慶喜は、1度は自ら出陣することを宣言するものの、小倉城陥落の報せを受けて撤回。朝廷に働きかけて休戦の勅命を出してもらいます。

9月2日、宮島で勝海舟と長州の広沢真臣、井上馨が会談を開き、停戦に合意。小倉口を除く各戦線で戦いが終結します。小倉口では戦闘が継続しましたが、幕府にこれを止めさせる力は残っていませんでした。最終的にすべての戦いが終わったのは、1867年1月だったそうです。

「第二次長州征伐」が失敗したことで、幕府の衰えが明らかになり、武力討幕が一気に現実味を帯び始めました。

江戸幕府が滅びるきっかけとなった戦いを解説

著者
野口 武彦
出版日
2006-03-01

 

「長州征伐」の開戦前夜から敗戦処理までを丁寧に追い、江戸幕府がなぜ開戦に踏み切り、どう戦ってなぜ敗れたのかを紐解こうとする作品です。

作者は冒頭で、「長州征伐は徳川幕府の命取りとなった戦争」だと述べています。「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」など、「武力」で政権を獲得した徳川幕府にとって、「武力」で敗れることは政権を支える正当性を失うことを意味していたのでしょう。

外国からの開国要求に加え、幕府内にも長州藩内にも薩摩藩内にも派閥争いがあり、勢力がめまぐるしく変わる時代。そのような状況で幕府と長州藩はそもそも戦う必要があったのかという疑問も浮かんできます。江戸幕府の盛衰を語るうえで外すことのできない「長州征伐」、ぜひ詳しく読んでみてください。

「長州征伐」など激動の時代を司馬遼太郎が描く

著者
司馬 遼太郎
出版日
2003-03-10

 

開国か攘夷か、勤王か佐幕かで、日本中が揺れた幕末の時代を舞台にした司馬遼太郎の小説。主人公は、若くして亡くなった吉田松陰と、松下村塾で彼に学んだ弟子の高杉晋作です。

「第一次長州征伐」では、幕府の威に屈して正義派の三家老の首を差し出した長州藩。高杉晋作はその後クーデターを起こして藩の実権を掌握し、「第二次長州征伐」では海軍総督として戦闘の指揮を執りました。伊藤博文は彼のことを「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」と称したそうです。

全4巻と読みごたえがあり、激動の幕末の息吹を感じられるシリーズでおすすめです。

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