5分でわかる征韓論!背景や目的、江華島事件などをわかりやすく解説!

更新:2021.11.19

明治時代の初期、西郷隆盛や板垣退助、江藤新平らが下野する政変にまで発展した「征韓論」。いったいどんなものだったのでしょうか。この記事では、それぞれの主張、背景と目的、「明治六年政変」「江華島事件」「西南戦争」との関係をわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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征韓論とは。いつ誰が主張したのか、簡単に解説

 

江戸幕府を倒して開国を成し遂げた明治新政府が、当時まだ鎖国をしていた李氏朝鮮を武力で開国させようとした主張を「征韓論」といいます。

岩倉具視や大久保利通、木戸孝允ら明治政府の幹部が「岩倉使節団」として欧米を歴訪しているさなかに、留守政府を任されていた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣などが唱えました。

西郷隆盛が中心になっていたといわれることも多いですが、彼の考えは板垣退助ら他の者とは少し異なっていたそう。板垣たちが朝鮮への出兵を唱えたのに対し、西郷隆盛の主張は開国をすすめる「使節」として自らが朝鮮に赴くというもの。征韓論というよりは「遣韓論」に近いものでした。

ここには、自らが朝鮮に行って先方が開国に応じればそれでよいし、応じずに危害を加えてくれば出兵する名目ができるという思惑があったと考えられています。

征韓論はなぜ唱えられた?背景と目的を解説

 

征韓論が唱えられた背景には、開国を成し遂げたばかりの明治政府が直面していた、東アジアの国際状況です。欧米が競うようにアジアへの進出を図るなかで、特にロシアが脅威になっていました。

広大な領土を有するものの大半が極寒のロシアは、貿易をしようにも冬になると港が凍結してしまうという積年の課題がありました。ロシアはこの問題を解決するために、冬でも凍らない不凍港の獲得を目指して、「南下政策」を採っていたのです。

しかし日本からしてみると、朝鮮半島を対立する国に掌握されることは、安全保障上決して容認できません。だからこそ、朝鮮が開国して日本同様に近代化し、ともにロシアの脅威に対抗するのが理想的だと考えたのです。

ただ、清を宗主国と仰ぎ、鎖国攘夷政策をとっていた朝鮮は、開国に応じるどころか日本と交渉しようとしませんでした。朝鮮にとって日本は、欧米に屈しているように見え、そんな国のすすめに応じて開国するなどもってのほかだったのです。当時実権を握っていた大院君は、「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん」と布告するほど日本を嫌悪していました。

すると、日本国内でも朝鮮に対する反発が生じます。在留日本人を保護するために出兵するべきだという機運が高まっていきました。

ロシアの脅威に対する焦りと、朝鮮の対応が重なったことで、日本は交渉を通じて説得するという穏便な手段ではなく、出兵という強硬手段を模索するようになったのです。

征韓論と「明治六年政変」と「江華島事件」

 

欧米の歴訪から帰国した岩倉使節団の面々は、国内で高まっていた征韓論に驚愕し、すぐさま反対しました。当時の日本は、朝鮮との国交問題だけでなく、樺太・千島列島の領有権問題、琉球の帰属問題、不平等条約の改正など多くの課題を抱えていたからです。

欧米と日本の国力の差を体感した岩倉具視や大久保利通からすると、今の日本が取り組むべきなのは何よりも内政の充実と国力の増強。朝鮮に干渉する余裕などありません。

しかし、1873年10月におこなわれた閣議で、自身の辞職や自殺を仄めかす西郷隆盛の主張に太政大臣の三条実美が屈し、西郷の朝鮮派遣が決まりました。明治政府では薩摩藩と長州藩の出身者が大きな力をもっていたので、薩摩藩トップの西郷の主張を退けて大量離脱を招くと、政府が崩壊しかねなかったからです。

これに対し、征韓論に反対していた岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが辞職を申し出て抵抗。天皇の信任が篤い岩倉具視や、事実上の明治政府の首脳である大久保利通、長州藩のトップだった木戸孝允が辞職すれば、こちらも大きなダメージです。

板挟み状態になった三条実美はその重圧に苦しみ、病に倒れてしまいました。そして、三条に代わって反対派の岩倉具視が太政大臣代理に就任。賛成派と反対派双方の意見を天皇に上奏します。その結果、天皇は反対派の意見を受け入れ、西郷隆盛の朝鮮派遣は土壇場で中止になりました。

すると、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣らが辞表を提出。先に提出されていた岩倉具視たちの辞表が却下された一方で、西郷らの辞表は受理され、明治政府を去ることになりました。さらに薩摩藩や土佐藩出身の軍人や官僚約600人も、後を追うように辞職。この一連の出来事を、「明治六年政変」といいます。

政府を二分し、9人の参議のうち5人が辞職するという政変を経た日本政府。しかし翌1874年に起きた「宮古島島民遭難事件」をきっかけに、初の海外出兵となる「台湾出兵」を実施。さらに1875年には、朝鮮の江華島付近で日本と朝鮮の間で武力衝突が発生。

この「江華島事件」を契機に「日朝修好条規」が締結され、朝鮮は清の冊封体制下から独立した独立国となり、開国しました。

「明治六年政変」で武力による朝鮮の開国を目指した征韓論は退けられましたが、結果的にはわずか2年後に、日本は同じく武力で朝鮮を開国させることとなったのです。

征韓論の影響は。西郷隆盛は不平士族となり「西南戦争」へ

 

「明治六年政変」で西郷隆盛の後を追い辞職した約600人の軍人や官僚のなかには、西郷の側近で「幕末の四大人斬り」に数えられる桐野利秋陸軍少将や、近衛長官を務めていた篠原国幹陸軍少将、宮内大丞を務めていた村田新八なども含まれていました。

1874年、西郷は彼らとともに鹿児島県全域に私学校を設立します。この目的は、西郷とともに下野した不平士族を統率することと、県内の若者を教育することでした。

私学校では外国人講師を採用したり、優秀な生徒を欧米へ遊学させたりと、積極的に海外の文化を取り入れました。鹿児島県令で西郷隆盛の幼馴染でもある大山綱良の協力もあり、大きな力をつけていきます。鹿児島県は明治政府へ租税を納めず、私学校の人間を県の役人に徴用するなど、独立国家のような様相を呈していきました。

その一方で政府は、大久保利通が内務省を設置。初代内務卿として実権を握り、「富国強兵」をスローガンに掲げて学制や地租改正、徴兵令などを相次いで実施します。近代化をすすめる改革は士族にもおよび、1876年には士族の特権がはく奪。これを受けて、熊本県で「神風連の乱」、福岡県で「秋月の乱」、山口県で「萩の乱」など反乱が相次ぎました。

西郷隆盛自身は、反乱を起こす気はなかったと考えられていますが、士族たちからは期待を寄せられ、政府からは目をつけられていました。

1877年、私学校を警戒する警視庁の川路利良が、帰郷と称して警察官24人を鹿児島県に派遣。しかし私学校側に怪しまれて捕縛され、彼らの目的が西郷の暗殺だと判明します。これに激昂した私学校の幹部たちが挙兵をし、日本最後の内戦である「西南戦争」へと発展。およそ1万3000人の死者が出ることになりました。西郷隆盛も被弾をし、最後は切腹したそうです。

明治六年政変を解説した一冊

著者
毛利 敏彦
出版日
1979-12-18

 

「明治六年政変」では、征韓論を主張した西郷隆盛など多くの参議が辞職をすることになりました。明治維新を成し遂げた日本で、朝鮮を巡る問題がなぜこれほどの規模に発展したのか、西郷たちはなぜ自身の職を賭してまで征韓論にこだわったのか……。

本書では、書簡や日記、新聞記事、外交文書など膨大な一次資料を調査し、丹念に分析したうえで「明治六年政変」を読み解いていきます。

西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允ら維新を成し遂げたリーダーたちの個性と思惑がぶつかる展開は、まるで小説を読んでいるかのよう。当時の日本の熱量を感じてみてください。

「せごどん」で征韓論を読む

著者
林 真理子
出版日
2017-11-01

 

2018年に放送されたNHK大河ドラマ「西郷どん」の原作本です。西郷隆盛の人格はどのように形成され、維新で何を目指し、何を理想としていたのか……作者である林真理子の解釈が施された読みやすい文章は、すとんと腑に落ちます。

下巻では征韓論にも触れていて、「明治六年政変」や、「西南戦争」で命を落とすまでを比較的歴史に忠実に再現。そのうえでいまだに明らかになっていない歴史の謎にも挑戦しています。

幕末や明治時代に興味はあるけれども、勉強は苦手……という方におすすめの一冊です。

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