文明開化で何が変わった?鉄道、服装、教育、太陽暦などわかりやすく解説!

更新:2021.11.19

「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という言葉を1度は聞いたことがあるでしょう。文明開化が起こり、人々の生活はどう変化したのでしょうか。この記事では、服装や髪型、食事、鉄道、建築、教育、太陽暦などさまざまな分野についてわかりやすく解説していきます。

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文明開化とは。明治維新との違いなど概要を簡単に解説

 

江戸幕府が倒れた後、明治新政府のもとで西洋の文明を積極的に取り入れ、従来の制度や習俗が大きく変化したことを「文明開化」といいます。

旧来の制度が一新されたという意味では「明治維新」と同じように用いられることもありますが、実際は意味が異なります。

「明治維新」が五箇条の御誓文や廃藩置県、地租改正など政治的な改革を指すのに対し、「文明開化」は服装や建築、教育、料理など主に生活に関する変化を指す言葉です。

「文明開化」という単語自体は、福沢諭吉が1875年に発表した『文明論之概略』のなかで「civilization」の日本語訳として用いたことで広まりました。

文明開化で何が変わった?【服装、髪型、食事】

 

日本の都市部の生活は、西洋の文化を模倣したり、日本のものと組みあわせたりしたことで、洋風に変わっていきました。

まず服装が、従来の和服から洋服に変化。皇室や政府要人の正装を洋服にするところから始まり、軍人や駅員、郵便局員などの制服も洋服になります。やがて一般庶民にも受け入れられるようになり、1878年には「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とすること」が法律で定められました。

1881年には、政府高官が公的な場に夫人をともなう場合は、洋装とする旨が通達。それまでの日本は公的な場に家族を連れていくことはありませんでしたが、西洋式のパーティーでは夫人同伴がセオリーだったのです。

ただドレスなどは高級だったため、洋服が女性の間で一般的になるのはもう少し後のこと。その代わりに、「袴にブーツ」「和服の上にコート」など和洋折衷のスタイルが生まれました。

また1871年には「断髪令」が出されて、髪型が自由になります。1873年には明治天皇も散髪し、官吏を中心に髷(まげ)を切り落として髪を短くする「散切り頭」が流行。

「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息の音がする。総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という都々逸と呼ばれる定型詩もはやりました。江戸時代以前のちょんまげや、幕末に流行した総髪頭を時代遅れとする一方で、散切り頭が先進的だと賞賛しています。

食事についても、大きな変化がありました。長らく禁止されていた肉食が解禁され、開港地を中心にすき焼きや牛鍋が流行。明治天皇も自ら肉を食べる姿を国民に見せて、新しい食の在り方を示しました。

その他の洋食は、まずは軍のなかで広がります。「富国強兵」を掲げ軍隊の近代化を急ぐ日本にとって、兵士の体格を強化することは必至。西洋の人たちと同じように洋食を食べることが、身体を大きくすることに繋がるとして、洋食への転換が求められたのです。ただすぐには馴染むことができなかったため、カレーライスや肉じゃがなどの和洋折衷料理が考案されました。

洋食は軍港や基地の周辺から庶民たちに広まり、明治から大正にかけて、トンカツやコロッケ、オムライスなどのいわゆる「和洋食」が生まれます。

文明開化で何が変わった?【鉄道、建築】

 

文明開化の象徴といわれているのが、鉄道と建築です。

世界で最初に蒸気機関車用の鉄道が開通したのは、1825年のイギリス。鉄道に初めて乗った日本人は、太平洋で漂流してアメリカの捕鯨船に救助されたジョン万次郎で、1845年のことだったといわれています。

日本国内で鉄道の存在が知られるようになったのは、1853年に長崎に来航したロシアのプチャーチンが、船上で鉄道模型を見せたことがきっかけだそう。翌1854年にはペリーからもお土産として鉄道の模型が幕府に献上されています。

西洋の技術に驚いた幕府は、鉄道の建設を計画しますが、大政奉還によって頓挫。1872年になってようやく、新橋~横浜間で日本初の蒸気機関車が運行されました。その後1877年に起こった「西南戦争」で鉄道の輸送力が注目され、全国に普及していきます。

また建築面では、1872年に東京の中心地が焼けた「銀座大火」が起きたことをきっかけに、耐火性に優れたレンガ作りの西洋建築が広がりました。アイルランド出身のトーマス・ウォートルスが設計を担当し、ロンドンをモデルにした街を建設。洋風のガス灯も普及して、街を照らしたそうです。

イギリス出身の建築家ジョサイア・コンドルは、文明開化の象徴ともいえる鹿鳴館の建設を担当。東京駅や日本銀行本店を設計した辰野金吾など育成にも力を入れ、現代の日本にも続く建築の基礎を築きました。

文明開化で何が変わった?【教育、太陽暦】

 

日本の教育や暦の制度も、文明開化で大きく変化しています。

江戸時代の日本は、多くの子どもたちは寺子屋などで「読み・書き・そろばん」を習い、就学率は約80%、識字率は約90%と世界でも群を抜いた学力のある国でした。当時のイギリスの就学率が約20%、識字率が約10%だったことを考えても、その差は歴然です。

明治時代になると、1872年に「学制」が発令されます。全国を8の大学区に分けてそれぞれの区に大学を置き、さらに1大学区を32中学区に分けてそれぞれの中学区に中学校を置き、1中学区を210小学区に分けてそれぞれの小学区に小学校を置くことを定めました。

8つの大学、256の中学校、5万3760の小学校ができる計算です。実際には予算面から数は改正されましたが、それでも全国に1万2000以上の小学校が設立されました。

さらに明治政府は、より最先端の学問を取り入れようと、外国人教師を招きます。幕末から長崎で活動していた宣教師のフルベッキや、「少年よ大志を抱け」という名言で有名なクラーク博士もそのひとりです。

また海外の文化を取り入れようと、西洋へ留学生を派遣。津田梅子はわずか6歳でアメリカへ行き、帰国後は津田塾大学を創立するなど、女性教育の先駆者となりました。

そして、文明開化で人々の生活にもっとも大きな影響を与えたのが、「太陽暦」の導入です。それまでの日本は1000年以上にわたって「太陰暦」が用いられていましたが、西洋では太陽暦が一般的。1872年12月2日までで太陰暦を廃止して、翌日を太陽暦の1873年1月1日としました。

1週間が7日とする曜日の制度が導入されたのも、この時です。日曜日を休日とし、祝祭日を設けました。

しかし太陽暦を導入することが国民に知らされたのは、11月9日のこと。猶予は1ヶ月もなく、当初は大きな混乱をもたらしたそうです。

福沢諭吉が文明を語る

著者
福沢 諭吉
出版日

 

福沢諭吉の著作のなかで『学問のすすめ』と肩を並べる存在と評されている作品。本書のなかで「civilization」の訳語として「文明開化」という言葉を用いたことが有名です。

福沢は、国の独立こそが目的で、西洋の文明を取り入れるのはあくまでも手段であるとし、西洋のものすべてを「是」とする心酔者のことも、「否」とする保守派に対しても批判的な立場をとっています。

第6章の「智徳の弁」では、「智」と「徳」を区別し、日本が独立を保つためには「智」が必要だと分析。それまでの儒教的思想で重視されてきた「徳」を無用としているわけではありませんが、日本という国を冷静に見つめていたことがよくわかります。

やや難しい言葉も出てきますが、注釈がついているので照らし合わせながら読むとよいでしょう。

文明開化の始まりは?

著者
広瀬隆
出版日
2014-11-26

 

文明開化と聞いて思い浮かべるのは、新橋の鉄道や銀座のレンガ街など、江戸の風景ではないでしょうか。しかし本書では、文明開化は「長崎から」始まったとし、しかもその始まりは明治維新から200以上前のことだったと主張しているのです。

作者は、医学や物理学、化学、天文学、数学などあらゆる分野の学問が長崎を通じて日本にもたらされたことこそが文明開化の契機だとしています。その一方で明治維新後の文明開化は、新政府が自らの正当性を主張するために、江戸幕府は時代遅れだったというイメージを植え付けるためのものだったというのです。

これまでの常識を覆す内容ですが、読んでみると納得感を得られるはず。西洋の文明を日本がいかにして受け入れていったのか、そのプロセスを知ることができるでしょう。

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