今回は、寂しさで溢れた文章になってしまいました。夏はどうしてこんなに、寂しくなるんだろう?と思います。私の年齢の問題かしら? いつもだったら、「寂しい」って言ってる姿なんか見せたくない!!って思って、もっとひねくれた、やさぐれた本を選んで書くのですが、今回はそこを全面に出してみようと思いました。ちょっと恥ずかしいです。特に、知り合いには読まれたくない……。
舞台の本番が終わった。気がつけば、華やかな舞台美術は片付けられ、黒い壁に黒い床の元ある劇場の姿に戻る。
打ち上げで、舞台上で一緒に演じていた人たちと思い出話をして盛り上がり、「そろそろ終電の時間だから」と散り散りになって、「また会おうねー!」と手を振ってお別れをする。
これまで何度、この行為を繰り返してきたことだろう。
また会える人より、それ以来会わなくなってしまった人の方が多い。
寂しすぎて、翌日は立ち上がれない。
みんなのことを想像する。あの人は育児や家事をしているのだろうな。あの人は仕事に戻って、あの人は次の舞台の稽古に参加したのかな。
横になって、想像していると、私だけが取り残されている気がして、泣けてくる。窓からは、梅雨明けした眩しい空が見える。蝉の声や自転車の走り去る音が聞こえる。
柳美里さんが、「演劇は時間と空間の芸術だから」と、時計のブローチをくれた。
ソ連の時計をブローチにアレンジしたものだ。その針は38分のところを指して止まっている。
劇作家が書いた言葉を、私たちは喋る。その言葉がお客さんに届く。言葉だけじゃない。光や音や空気や匂いや場所や時間も届ける。いろんな人の手から離れていき、作品が伝わる。力不足で伝わってないときもあるけど。
時計のブローチをよく見ると、少し歪んでしまって、所々錆びている。誰かが身につけていたのかもしれない。この時計は、電車の時間も、仕事が終わる時間も、好きな人から去る時間も、朝目覚める時間も、その人の時間を刻み続けてきたんだろうな。
- 著者
- 高野文子
- 出版日
- 1995-07-20
この漫画は、6つの短編でできている。
私が好きなのは、「バスで四時に」「奥村さんのお茄子」
「バスで四時に」は、バスの中でいろんな考え事が連鎖していくお話。バスに乗って目的地に行くっていうシンプルな構造の中に、その人の想像がお風呂のお湯がたまって溢れてゆくように、止めどもなく流れる。私は私の想像しか知らない。他の人の脳内を覗き見るようで、楽しい。些細な日常を大事にしたくなる。
「奥村さんのお茄子」は、“1968年6月6日木曜日、お昼何めしあがりました?”から始まる。25年前の何の変哲もない日のお昼ご飯のことを覚えている人は何人いるだろう。土瓶の遠久田さんの役がやりたい。ビデオに写した一瞬にいろんな人の思考が混ざっていて、そこのシーンが好きでした。
「棒がいっぽん」には、自分が忘れてしまったかもしれない時間が詰まっている。時間が過ぎるって寂しい。この本を読み終わった頃、会いたい人に連絡をとってみた。返事が来るかは分からない。