内閣総理大臣が殺されるという未曽有の出来事だった「五・一五事件」。その背景には何があったのでしょうか。この記事では、事件の概要や原因、事件後の影響、殺された犬養毅の生涯などをわかりやすく解説していきます。
1932年5月15日、武装した海軍の青年将校らが首相官邸などを襲撃し、内閣総理大臣の犬養毅を殺害した事件を「五・一五事件」といいます。
犬養だけでなく、警備を担当していた田中五郎巡査も銃撃され、後に死亡。そのほか警察官など数名の負傷者が出ました。
「五・一五事件」の首謀者は、長崎県出身の海軍軍人、古賀清志(きよし)です。彼は、同じく長崎県出身の海軍軍人である藤井斉(ひとし)を指導者とする、青年将校で構成された海軍初の革命行動組織「王師会」の会員でした。
もともと総理大臣を襲撃する計画は藤井を中心に進められていましたが、彼が1931年の「第一次上海事変」に出征して戦死したことから、古賀が引き継ぐことになったのです。
古賀は、「日本改造論」を唱える思想家の大川周明から資金や武器の援助を受け、農本主義者である橘孝三郎を仲間にし、彼が主宰する愛郷塾の生徒たちを「農民決死隊」として組織。さらに陸軍士官候補生11人も計画に引き入れました。
「五・一五事件」の計画は、総理大臣官邸、内大臣官邸、立憲政友会本部、三菱銀行、警視庁、東京近辺に電力を供給する数ヶ所の変電所を襲撃するというもの。ここには、決行は時期尚早だと反対していた陸軍予備役少尉だった西田税(みつぎ)を暗殺することも組み込まれていました。
彼らの目的は、東京を混乱させて「戒厳令」の施行を余儀なくさせ、その間に軍閥内閣を樹立して国家の改造をすることです。
計画にもとづいて実際に襲撃がおこなわれましたが、首相官邸以外の大きな被害は出ませんでした。狙われていた牧野伸顕(のぶあき)内大臣は無傷で、西田税も瀕死の重傷を負ったものの助かっています。
首相官邸を襲撃したのは、三上卓海軍中尉、山岸宏海軍中尉、村山格之海軍少尉、黒岩勇海軍予備少尉、陸軍士官学校本科生の後藤映範、八木春男、石関栄、篠原市之助、野村三郎の9人。表門側と裏門側の二手に分かれて首相官邸に侵入しました。
犬養毅は、食堂で三上卓と遭遇すると、彼らを連れて和室の客間に移動します。床の間を背にしてテーブルに向って座り、自身の考えやこれからの日本の在り方などを話し、彼らを説得しようとしたそうです。
しかし、三上と犬養が問答をしている最中に、山岸が突然「問答無用、射て」と叫び、黒岩がこれに応じて犬養を銃撃。続いて三上も撃ちました。
9人はその後、すぐに立ち去りましたが、犬養にはまだ息があり、駆け付けた女中に対して「今の若い者をもう1度呼んで来い、よく話して聞かせる」と強い口調で語ったそう。しかしやがて力尽き、深夜になって息を引き取ったといわれています。
1930年代の日本では、「昭和維新」をスローガンとする国家革新の動きがありました。指導者は思想家の北一輝らで、当時の日本を「元老や重臣、軍閥、政党、財閥などの天皇の取り巻きによる独裁状態」だと定義し、これを「天皇の元に議会があり、議会から内閣が発生する」本来の「天皇親政」に正すべきだと考えていました。
北一輝の著書である『日本改造法案大綱』には、彼らが目指すものとして男女平等、男女の政治参加、華族制度の廃止、所得累進課税の強化、私有財産の制限、財閥解体、皇室財産の削減など進歩的な政策が記されています。
当時は、「第一次世界大戦」や「世界恐慌」による経済の悪化、アメリカによる「排日移民法」、中国の「張作霖爆殺事件」など国際社会の不安定化を背景に、軍内部の急進派や右翼団体が明治維新精神の復興や天皇親政を求める声をあげていました。
彼らが目の敵にしていたのが、無意味な政争をくり返すだけの政党政治家と、天皇を囲い込んでいるように見えた元老や重臣たち、そして政府と癒着して私腹を肥やす財閥首脳です。「昭和維新」の実現を唱えて、幕末の志士さながらに「討伐」や「天誅」などの言葉を掲げ、数々の事件を起こします。
その第1弾が、1932年の「血盟団事件」というもの。日蓮宗の僧侶である井上日召が組織した暗殺組織「血盟団」が、「一人一殺」を掲げて、元大蔵大臣で民政党内で次期総理大臣候補と考えられていた井上準之助と、三井財閥の総帥だった団琢磨(だんたくま)を暗殺します。
実際に殺害されたのは2人だけでしたが、この時ターゲットには元老の西園寺公望、貴族院議長の徳川家達、前内閣総理大臣の若槻礼次郎、犬養毅や牧野伸顕も含まれていました。
また「血盟団事件」には、計画に藤井斉や古賀清志など王師会のメンバーも加わっています。彼らは、日本に不利な条件を定めた1930年の「ロンドン海軍軍縮会議」で全権大使を務めていた若槻に対する不満があり、襲撃の機会をうかがっていたからです。
しかし1931年に「第一次上海事変」が勃発して、海軍側の参加者が出征を命じられたため、協議のすえ先鋒を民間が務めることになり、海軍側は出征した同志の帰還を待ってから第2弾を決行することが決められました。
この第2弾というのが、「五・一五事件」になるのです。
「五・一五事件」の大きな影響に、「憲政の常道」が途絶えたことが挙げられます。
憲政の常道とは、1924年に成立した加藤高明内閣が確立した政党政治における慣例で、「衆議院第一党の党首が内閣総理大臣になること」「内閣が失政で倒れた場合には野党第一党の党首が内閣総理大臣になること」「政権交代の前か後には衆議院議員総選挙をおこない、国民に選択の機会を与えること」という内容です。8年が経過し、日本の議会制民主主義が根付きつつあるという状況でした。
「五・一五事件」で犬養毅内閣総理大臣が亡くなったため、後任の首相を速やかに選任する必要がありましたが、難航します。
従来であれば、天皇から元老に後継者推薦の下命があり、元老がこれに奉答して後継者が決まるという流れです。政権交代は、「憲政の常道」で「失政による内閣総辞職」が条件になっていたため、体調不良や死亡の場合は与党の後継党首が首相に指名されるのが一般的でした。
つまり「五・一五事件」の場合は、与党の立憲政友会から選出されるはずです。実際に憲政友会は鈴木喜三郎を総裁に選出し、政権担当能力をアピールしていました。
しかしここで問題になったのが、「五・一五事件」で犬養毅が暗殺されたのは、犬養の総理大臣としての失政になるかどうかということ。
世論は、政党政治の腐敗に対する反感から、犬養にも責任があるとして、犯人である青年将校たちに同情的でした。それは、彼らに対する助命嘆願運動が巻き起こるほど。メディアも盛んに青年将校たちを擁護し、軍部を支持する論陣を張ります。
その結果、「五・一五事件」に関する裁判の判決は軽いものとなり、首謀者の古賀清志ですら反乱罪で禁固15年で、1938年に特赦によって出獄しています。犬養毅と問答をした三上卓も1938年に釈放されました。これらの軽い判決が、4年後に起きる「二・二六事件」の原因のひとつになるのです。
この状況に対し、元老だった西園寺公望はひとりで決断をくだすことができませんでした。そこで、首相経験者である山本権兵衛や若槻礼次郎、清浦圭吾、高橋是清、さらに東郷平八郎海軍元帥、上原勇作陸軍元帥、枢密院議長の倉富勇三郎などから意見を聴取します。
その結果、西園寺は政党政治の継続を断念し、人格者として知られる元海軍大将の斎藤実を次期総理大臣に推薦。斎藤が立憲民政党・立憲政友会双方に協力を要請し、挙国一致内閣が組織されることになったのです。
当初は事態が収束するまでの一時しのぎと考えていたようですが、「第二次世界大戦」が終わるまで政党政治が復活することはありませんでした。
犬養毅は1855年生まれ、現在の岡山県である備中国賀陽郡で、庄屋や郡代を務めた犬飼源左衛門の次男として生まれました。
「犬養」という苗字は改名したもので、元は「犬飼」だったそう。遠い祖先に、桃太郎のお供の犬のモデルになった犬飼健命がいるとされています。
犬飼家は板倉家の庭瀬藩から名字帯刀を許される家柄でしたが、2歳の時に父が急死したため、苦しい生活をしていたそうです。
犬養毅は1876年に上京して、慶應義塾に入塾。在学中は新聞記者として「西南戦争」に従軍しました。1882年に大隈重信が結成した立憲改進党に入党し、1890年の第1回衆議院議員選挙で当選、代議士になります。
そこから42年間にわたって18回連続当選し、議会政治の父と呼ばれる尾崎行雄に次ぐ記録を打ち立てるのです。1913年に起こった第一次護憲運動の際は、桂太郎内閣の打倒に貢献し、尾崎とともに「憲政の神様」と呼ばれました。
議員生活を送るなかで、立憲改進党、中国進歩党、進歩党、憲政党、憲政本党、立憲国民党、革新倶楽部などの諸政党を渡り歩き、1929年に野党である立憲政友会の総裁に就任。1931年には第2次若槻礼次郎内閣の崩壊にともない、「憲政の常道」に従って77歳で内閣総理大臣になります。新聞は、源平合戦の老将である斎藤実盛になぞらえて「昭和の実盛」と書き立てました。
内閣総理大臣になった犬養は、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開に取り組み、積極財政に転換して日本をいち早く世界恐慌から脱出させます。「五・一五事件」を起こした青年将校たちや、彼らを擁護する世論、新聞が批判していたように、世界恐慌に対して無策だったわけではないのです。
また、「五・一五事件」の大きな原因だった「ロンドン海軍軍縮会議」についても、犬養自身は野党時代にこれを批判する急先鋒でした。本来であれば、総理大臣だった若槻がターゲットになっていたはずですが、辞任していたために青年将校たちの怒りの矛先は「政府そのもの」に向けられることになり、犬養が狙われてしまったのです。
政治家としての犬養毅の評価は、賛否両論に分かれます。その演説は理路整然とし、時に背筋が寒くなるような迫力があったそうで、東京朝日新聞の記者だった中野正剛は「霜夜に松籟を聞く」と評していました。
その一方で、「第一次護憲運動」の際には「憲政の神様」と称えられるほどだったものの、政界を渡り歩くなかで相手側に身を投じることも多く、「変節漢」ともいわれています。
立憲政友会の総裁として浜口雄幸内閣を攻撃する際には、「統帥権干犯問題」を利用。これは、軍部に統帥権を政治利用する方法を教えた形となり、日本の民主主義と政党政治が衰退する大きな要因となって、「政党政治家の自殺行為」と批判されました。
また、犬養毅は「五・一五事件」によって非業の死を迎えましたが、その子孫は各界で活躍しています。孫に評論家の犬養道子、元共同通信社社長の犬養康彦、エッセイストの安藤和津、ひ孫に映画監督の安藤桃子、女優の安藤サクラ、元国連難民高等弁務官の緒方貞子、遠縁に元TBSアナウンサーの宇垣美里などがいます。
- 著者
- 保阪 正康
- 出版日
「軍人によって引き起こされたクーデター」といわれる「五・一五事件」ですが、実際には農本主義者だった橘孝三郎と彼が主宰する愛郷塾の生徒たちなど、軍人以外も参加しています。また参加はせずとも、国民のなかには彼らを支持する者が大勢いました。
ではなぜ彼らは「五・一五事件」を支持したのでしょうか。
本書はこの疑問を解消するために、「五・一五事件」に参加して、爆発物取締罰則違反および殺人および殺人未遂により無期懲役の判決を受けた橘孝三郎本人に取材をし、まとめています。
イギリスの社会主義思想家エドワード・カーペンターや、ロシアの革命家クロポトキンなどの思想家に影響を受け、「土」に還ることを決意して通っていた高校を中退した橘。彼が設立した愛郷塾では、「家族」や「兄弟」を基礎とし、「農」を中核に据えた理想社会の実現を目指し、「新日本建設の闘士」を育成することを目的にしていました。
経済不況で貧困にあえぐ彼らが、なぜテロと呼ばれるような行為にはしったのか、橘孝三郎と愛郷塾が歩んだ軌跡を追体験することで、感じとることができるかもしれません。
- 著者
- ["林 新", "堀川 惠子"]
- 出版日
- 2019-03-23
「五・一五事件」で亡くなった犬養毅。口の悪さと、どんな相手に対しても決して尻尾を振らないことから、「孤狼」と呼ばれていました。山縣有朋は、「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」と言わしめています。
本書は、もうひとりの主人公に犬養の親友だった古島一雄を据えて、彼の生涯を描きだした作品です。
作者の林新はあえて小説のように書くことを構想し、彼が亡くなった後は堀川惠子がその意志を引き継いだそう。登場する人物はみな生き生きとしていて、40年以上も政界に在り続けた犬養毅の人生を感じることができるでしょう。