【第24回】真夏の内見ツアーの話

更新:2019.9.5

春先から電線ビューのある部屋への引っ越しを考え始め、設定した条件のなかで出てくる部屋はだいたいわかるようになった。 もう真夏だけれど、つぎの家が全然見つからない。 この日も内見のために外へ出た。玄関を開けたら外は光で真っ白く、照り返すアスファルトからコーッと音がしてきそうだった。空気からは干した布団のにおいがした。 内見に付き合ってくれた不動産屋さんのKさんはは3つ年上で、今年小学校に上がったばかりのお子さんがいるという。 西荻窪の物件へ向かう車の中で夏休みの小学生って何してるんですか?と聞くと「午前中は朝から昼まで学校のプールで泳いで、一度家で昼食をとってから夕方まで公園で遊んだり、宿題をしたりしている」そうだった。

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この夏のほとんど、日が落ちるまでできる限りは家でじっとしていた。

早朝、日の明るさと室温の上昇で一度もさもさと起きて、トイレへ行き、台所で水を飲んでから二度寝する。

時々、めちゃくちゃ声の通る宅配便のおじさんに起こされる。

小柄で中肉中背のおじさんは、眉が濃くて目がぱっちりしていてよく日に焼けている。

インターホンなしでもドア越しに聞こえる声で「宅配便でーす!!!」と言って2リットルペットボトルが六本入った段ボールや、缶ビールが24缶入った箱などを片手でほいっと渡してくる。

私は起き抜けノーブラのまま、胸の高さで12キロの段ボールを受け取り、靴の散乱したたたきから玄関へ箱をスライドさせてベッドへもぐり直す。

TBSラジオ「ジェーンスー生活は踊る」が始まるまでにはふたたび起きて、ベランダの室外機の上に鎮座しているレモンとガジュマルの植木に水やりをする。水やりのついでに自分の顔にも霧吹きで水をかける。

一瞬だけ開けた窓からなだれ込んだ熱気で、コインランドリーを思い出した。

日焼けをしたくないので一瞬で窓とカーテンを閉める。それから日が落ちるまで薄明るい部屋の中で本を読んだりメールの返事を送ったり、アイスを食べたり家事をしたりして過ごす。この部屋は玄関から通りに面した窓のほうまでがたがたと物に囲まれていて、端から端までまっすぐ突っ切ることができない。

この部屋では毎晩かならず同じ女の人の笑い声がする。私のではない。

23時とか22時とか、もっと夜遅いこともあるけれどいつも同じ「アッハッハッハッハ!!」という驚くほど元気な笑い声が窓の外のどこかからか聞こえてくる。

ずっと隣の家からだろうかと思ったけれど、実はそうではないらしい。

隣ではないにしてもあまりに近い声だが、どこからというのが曖昧な聞こえ方をしている。よくよく考えると、近所を歩いているときにその声と遭遇したことはなかった。家にいるときにしか聞いたことがないんじゃないか。

これは、誰の笑い声なんだろう。

考えるほど不思議なことは多いけれど、いつもあまりに快活な笑いなので「こんなに楽しいならいいか」と思うようになった。

もし次の家でも同じ笑い声が聞こえてきてしまったら、いよいよ不思議だ。

その日の内見の一軒目は優等生的な部屋だった。

水回りも建て具もきれいで、立地は便利だし、環境もいい、相場に対して家賃は安いが事故物件というわけでもない。目線の高さで電線を見られる窓のあること以外、別段面白みのないきちんとした部屋だった。

それから世田谷くんだりまで行き川沿いの古いマンションを見たり、冷やし中華を食べて赤羽の物件を見に行ったり一日移動し続けた。

真夏の内見ツアーから帰る頃には全身が重く、もし立ち止まったらもう二度と帰れないような気がしたのでゆっくり、止まらないように足を引きずった。

夕方、疲れ果てて入ったジョナサンでビールを飲んだ。

なにかを判断しようとすると、決まっても決められなくともぐったりとする。

その場で電話をして、午前中に見た優等生の部屋を借りることに決めた。

どこがいいとか何が悪いとかもうそういうことより、大きな悪いところがなければとっとと決めてしまいたかった。

へとへとのハッピーアワーだったので、もう一杯飲んでから席を立った。

審査書類として免許証を求められたけれど、免許を持っていないのでとりあえず保険証を出す。クラブへいくときにはパスポートを持っていく。

成人して6年、世間的には今更かもしれないけれど、私はついにお家賃を払う大人になる。

お家賃が要るってことは毎月決まった額以上を稼がないと、住むところがなくなってしまうということで、死んではないけどお金はぜんぜん有り余らないくらいの働き方をしているので、バイトの必要性が浮上してきた。うわあ。

しなくとも凌げるといえば凌げるかもしれない。けれどこれまでのように好きな時に本を買ったり、とんかつを食べたりするのは困難になりそうだ。

消費税も上がることだし、いつ仕事がなくなるかもわからないし、していたほうが安心だ。

ずっと人の稼ぎに甘えた生活だった、もうおわりなのか、ああ。働かなくちゃ。

2019年の日本では息をするだけでお金がかかることを知ってはいたけれど、穀潰しの私はそのことをできるだけ見ないようにしていた。

しかし、この夏、お家賃がいま目の前にはっきりと見える、黒々としたゴシック体。

大学生活は「人生最後の夏休み」だなんていう話も聞いたことがあるけれど、卒業して5年でまた夏休みみたいな日々を過ごしていた。

秋からはもう、大きな声の「宅急便でーす」を聞けない代わりになにかしら働きに出ないとならない。あのおじさんが届けてくれたビールもいま冷蔵庫で冷やしている4本でおしまい。穀つぶし、最後の夏をかみしめている。

お家賃ですけど

著者
能町 みね子
出版日
2015-08-04

部屋を決めた帰り、本屋に寄り道したらぴったりな本を見つけた。

牛込神楽坂にぽつんと佇む「加寿子荘」で暮らす主人公は、昼はオーエルとして会社勤めをし、夕方からはお師匠さんのところでバイトをしている。

「加寿子荘2階奥」の部屋は築40年・六畳一間・風呂はバランス釜で昭和の下宿のような物件だ。主人公はそのアパートで隣り合う住民たちの暮らしへの小さな謎と興味をふくらませながら、つつましく、ほの明るく、ときに漠とした不安を抱えながら生きている。

ページを捲る度、ああいつか、こういうアパートにも住んでみたいなあと思ってうっとりするのだが、私はそういうことを口で言ってるだけでずっと優等生的な家に住んでしまうような気もしている。

「27歳までに死ぬ」と口にしながらその年齢を迎えた主人公の、どことなく所在ない暮らしは自分にも重なる部分があった。しかし働いてお家賃を納めている彼女と私はもう全然違うようにも思う。

撮影:石山蓮華

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