5分でわかるミュンヘン一揆!背景や失敗した理由などをわかりやすく解説!

更新:2019.9.12 作成:2019.9.12

アドルフ・ヒトラーが政権を掌握するきっかけのひとつとなったのが、「ミュンヘン一揆」が失敗したことだといわれています。一体どういうことなのでしょうか。この記事では、一揆の背景や失敗した理由、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。

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ミュンヘン一揆とは。場所など概要を簡単に解説

 

1923年11月8日から9日にかけて、ドイツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフ大将や、アドルフ・ヒトラーらが参加する国民主義の団体「ドイツ闘争連盟」が起こしたクーデター未遂事件を「ミュンヘン一揆」といいます。

ドイツでは首謀者の名を冠して「ヒトラー一揆」や「ルーデンドルフ一揆」と呼ぶのが一般的。また、事件が起こったビアホールの名を冠して「ビュルガーブロイケラー一揆」と呼ばれることもあります。

ルーデンドルフは第一次世界大戦中に参謀総長などを務め、「ルーデンドルフ独裁」と呼ばれるなど一時的にドイツの実権を掌握していたこともある、軍の重鎮です。

舞台となったのは、ドイツ南部バイエルン州の州都であるミュンヘン。ベルリン、ハンブルクに次いで3番目に大きな都市で、1972年にオリンピックが開かれたことでも知られています。1158年に築かれたといわれる歴史ある街で、ドイツが統一される前はバイエルン王国の首都でした。

「ミュンヘン一揆」の目的は、ヒトラーがバイエルン州政府の主導権を掌握し、ベルリンに侵攻してワイマール共和国政府を倒し、自らの政権を樹立すること。イタリアのムッソリーニが、ローマ進軍を成功させてファシスト政権を樹立した例にならっています。

しかし一揆は半日ほどで鎮圧され、ヒトラーら首謀者は逮捕されることになりました。

ミュンヘン一揆が起こった背景は?

 

第一次世界大戦に敗れたドイツは、多額の賠償金に苦しめられていました。支払いは1921年から始まりましたが、インフレの進行などの経済状況の悪化により、1922年度分は支払い不能に。ドイツは連合国に対して猶予を求めていましたが、連合国側はこれに応じず、1923年にはフランスとベルギーがドイツの工業地帯であるルール地方に侵攻し、占領します。

これを受けてドイツは、駐仏大使を召還して、ルール地方の炭坑や工場、鉄道などに勤める労働者に対して不服従やストライキを呼びかけました。この受動的抵抗と呼ばれる運動に参加した労働者への賃金は、ドイツ政府が保証。紙幣を増刷したことでハイパーインフレがさらに進行していきます。

このようなドイツ政府の姿勢に対し、生活が苦しくなった国民は不満の声をあげるようになりました。特にバイエルン州は右派が強く、州総督のグスタフ・フォン・カールも右派の指導者です。またナチスの前身であるドイツ労働者党も、1919年にミュンヘンで設立されています。

その後ナチスは、1923年時点で州内におよそ3万名の党員を抱え、右派だけでなく軍の実力者だったフランツ・フォン・エップやエルンスト・レームらの支持も獲得。ただヒトラー自身は政治指導者のひとりに過ぎず、主導をしていたわけではありません。

当時の政治は、州総督のカール、司令官のオットー・フォン・ロッソウ少将、州警察長官のハンス・フォン・ザイサー大佐による「三頭政治」がおこなわれていて、ベルリンの中央政府とは緊張状態。ベルリンに侵攻しようという計画も元々は彼らが考案しています。しかし彼らは、ナチスの中央政府批判を警戒していて、この計画から除外したのです。

ナチスは、ヒトラー抜きでベルリン進軍が実行されることを恐れ、計画の主導権を掌握しようと蜂起。「ミュンヘン一揆」を起こしたのです。

ミュンヘン一揆の経緯。なぜ失敗に終わったのか

 

一揆の舞台になったビアホール「ビュルガーブロイケラー」は、1885年に開店し、収容人数が最大で1830人という大規模な店舗です。そのため、さまざまな政治勢力の集会の場として用いられていました。

ミュンヘン一揆が起こった1923年11月8日には、バイエルン州総督であるグスタフ・フォン・カールの演説会が予定されていて、彼とともに三頭政治体制を担っていたオットー・フォン・ロッソウ、ハンス・フォン・ザイサーの両名も出席することになっていました。

午後8時30分頃、カールが演説をしている最中に、軍人ヘルマン・ゲーリングが率いる突撃隊が突入します。この突撃隊は、ナチス傘下の準軍事組織で、もともとはドイツ労働者党の集会の警備を担当していました。ヘルマン・ゲーリングは第一次世界大戦中にエースパイロットとして名を馳せた英雄です。

ビアホール内が混乱状態になると、ホール内で待機していたヒトラーは空中に向かって発砲。「静かに」と叫んで場を鎮め、3人の首脳に対し、ベルリンへの進軍に協力することを求めました。当初は説得に応じなかった首脳陣でしたが、ルーデンドルフが説得に加わると、協力を約束します。

ヒトラーは3人とともに演壇に登り、ホール内では居合わせた聴衆たちによってドイツ国家の合唱がおこなわれたそうです。

同じ頃、ミュンヘン市内ではエルンスト・レームが率いる突撃隊が、市役所や国防軍司令部などを制圧。ミュンヘン一揆は成功したかのように思えましたが、工兵隊と一揆勢の間に小競りあいが起こります。これを仲裁するためにヒトラーが席を外すと、3人はルーデンドルフにそれぞれの持ち場に戻りたいと申し出て、ルーデンドルフもこれを許可しました。

ビアホールを脱出した3人は、「反乱を認めず。銃を突きつけられて支持を強要されたに過ぎない。これは無効である」という声明をラジオで布告。これを受けて、軍と警察が反乱の鎮圧に乗り出すのです。

11月9日未明、カールの裏切りを知ったナチス勢は、昼頃まで議論を続け、バイエルン軍司令部に向けてデモ行進をすることにします。この時のデモ隊はほとんど丸腰で、武装していた者にも実弾を抜くように指示が出されていました。

しかし、彼らが国防軍や武装警察が待ち構えるオデオン広場に差しかかると、1発の銃声が響きます。これをきっかけに国防軍と武装警察が一斉射撃を開始。混乱のなかでヒトラーも左肩を負傷し、一時は逃亡しますが数日後に退治され、ミュンヘン一揆は失敗に終わりました。

一揆が失敗した大きな原因は、ルーデンドルフの軍への影響を課題評価していたことや、突撃隊が市内を制圧した際に通信施設を抑えなかったこと、3人の首脳を自由にしてしまったことなどが挙げられています。

ミュンヘン一揆の影響は?ヒトラーの『我が闘争』と「長いナイフの夜」

 

ヒトラーなどミュンヘン一揆の指導者たちは逮捕され、1924年2月26日に裁判が開かれました。ここでヒトラーは雄弁を振るい、バイエルン州政府やベルリン中央政府に対する批判を述べ、自らこそが正義であると主張します。

責任回避に走る他の指導者や、1度は加担すると口にしながらも態度を翻したカールらとは相反して、堂々たる姿勢を貫いたヒトラーは国民的人気を集めるようになりました。

裁判の結果は、5年の禁固刑。バイエルン州にあるランツベルク要塞刑務所に収監されることになります。ここは刑務所といっても日当たりのよい清潔な部屋が用意され、食事も上質なもの。また差し入れや面会も自由に認められていて、獄中生活は快適だったことが想像できます。

ヒトラーは独房で大量の本を読み、自らの思想を固めていきました。彼の代表的な著書である『我が闘争』は、この時に口述筆記されたもので、後にヒトラーは「ランツベルクは国費による我が大学であった」と述べています。

ミュンヘン一揆が簡単に制圧されたことから、ヒトラーは武力革命で政権を握ることを諦め、選挙で民主的に政権を掌握する路線に転換。ナチスは活動が禁止されていましたが、裁判で無罪になったルーデンドルフや、すぐに仮釈放されたレームらによって「国家社会主義自由党」という新政党を立ち上げられます。1924年の総選挙では32議席を獲得するなど、政治活動を続けていきました。

ヒトラー自身が保釈されたのは、1924年12月のこと。1925年2月には党新結成集会を開催し、ナチスが再建されます。ちなみにこの集会が開かれたのは、ミュンヘン一揆の舞台となったビュルガーブロイケラーでした。

その後ナチスは、世界恐慌などによる社会不安を背景に支持を拡大し、1932年7月の国会選挙で第一党に。1933年1月30日にはヒトラーが首相となって、ついに政権を掌握します。ナチス政権下で、ミュンヘン一揆は記念碑的な出来事とされ、ヒトラーは毎年11月9日にビュルガーブロイケラーで演説をおこないました。一揆で亡くなったた党員13人は殉教者とされました。

一揆から10年以上経った1934年、ヒトラーを倒そうと「第二革命」を唱えた突撃隊に対してナチスが粛清をおこなう「長いナイフの夜」という事件が起こります。突撃隊の幕僚長だったエルンスト・レームとともに、この時カールも粛清の対象となり、斧で斬殺されました。ヒトラーは、ミュンヘン一揆の際に彼に裏切られた恨みを忘れていなかったのです。

世界史初心者の人にもわかりやすいおすすめ本

著者
神野 正史
出版日
2016-07-08

 

「まるで劇を見ているような感覚で、世界史上の出来事を体験できる」ことをテーマに掲げている「世界史劇場」シリーズ。予備校で世界史の講師を務め、「たのしくて」「最小の努力で」「絶大な効果」がある学習法の開発を長年研究してきた、神野正史の臨場感あふれる解説が満載です。

本書では、ワイマール憲法という世界でもっとも「民主的」とされた憲法があるドイツで、なぜナチスが政権を掌握したのかという疑問を解き明しています。ヒトラーの生い立ちやその思想に大きな影響を与えた、イタリアの全体主義などに触れつつ、第一次世界大戦終戦直後からミュンヘン一揆を経て、政権を掌握し、全権委任法が成立するまでの欧米の歴史を扱っています。

第一次世界大戦の敗戦によって、莫大な賠償金を課されたドイツ。経済状況が悪化し、インフレが進行するなかで国民の不満は膨れあがりました。ミュンヘン一揆は失敗に終わったものの、彼らにとってナチスは、自分たちの声を代弁してくれるものに見えたのです。

豊富なイラストとわかりやすい解説で視覚的に理解できるため、初心者の人にもおすすめの一冊です。

ミュンヘン一揆をはじめ、ヒトラーとナチスの動きに光を当てた一冊

著者
石田 勇治
出版日
2015-06-18

 

「人類の歴史における闇」ともいえるヒトラーの独裁政権時代。本書は、彼の実像やホロコーストの真実を描き、闇に光を灯そうと試みる作品です。

これまで、ミュンヘン一揆で失敗はしたものの、それ以降国民の支持を得たヒトラーは権力の階段を上り続け、政権を掌握したと考えられてきました。しかし本書では、見落とされがちな1932年11月の国会選挙に焦点を当て、従来の常識に疑問を投げかけています。

この選挙でナチスが獲得した得票率は33%で、前回、1932年7月の選挙における得票率37%を下回るものでした。得票率が下がったことで、ヒンデンブルグ大統領や元首相のパーペンらドイツ政界の中心人物は、ナチスの党勢が衰え始めたと判断。彼らはヒトラーを首相にして、利用しようとしていたのです。

しかし実際には1933年2月の国会議事堂放火事件を受け、3月の総選挙で得票率44%を得て圧勝。全権委任法が成立し、ナチスの独裁政権が始まることになりました。

新書とはいえ360ページ越えの読みごたえのある一冊。ヒトラーがミュンヘン一揆をきっかけに武力革命路線から転換し、選挙という民主的な手段を通じて政権を掌握していく凄みを感じられるでしょう。