5分でわかる南下政策!ロシアの目的、影響、日英同盟などをわかりやすく解説

更新:2019.9.24 作成:2019.9.24

明治維新で開国した日本にとって、最大の脅威となったのがロシアによる南下政策でした。また日本だけでなく当時の世界情勢も、ロシアと、その動きを阻止したいヨーロッパ諸国という構図だったことを知っておくと、理解がしやすくなるでしょう。この記事では、ロシアの目的と南下政策の大きな流れ、影響などをわかりやすく解説していきます。

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南下政策とは。ロシアはなぜ不凍港を求めたのか

 

ある国家が南方に進出しようとする政策を「南下政策」といいますが、一般的には17世紀から20世紀にかけて、ロシア帝国が領土の拡大を目指して南方へ進出したことを指します。

ロシア帝国が成立したのは、1721年。「大北方戦争」に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院から「インペラートル」という称号を授かり、帝政が始まりました。初代皇帝となったピョートル1世は、行政改革や海軍の創設などに努め、辺境の一国に過ぎなかったロシアを、ヨーロッパの列強と肩を並べる存在にまで押し上げます。

しかしロシアは、広大な国土面積を有していながら、その大半が高緯度に位置するため、多くの港湾が冬季には凍ってしまうという弱点があったのです。政治的にも経済的にも軍事的にも、「不凍港」の獲得は必須事項でした。ピョートル1世が退位した後も、エカチェリーナ2世やニコライ1世、アレクサンドル2世、ニコライ2世など歴代の皇帝に引き継がれていきます。

その一方でヨーロッパ列強からしてみると、人口においても資源においても圧倒的な大国であるロシアが、不凍港を獲得して本格的に海洋進出することは大きな脅威です。

そのため17世紀から20世紀にかけて、世界の歴史は、不凍港を獲得するために南下政策を遂行するロシアと、これを阻止しようとする諸外国の対立をひとつの軸にして進んでいくことになります。

 

ロシアの南下政策を時系列で紹介

 

ロシアの南下政策の舞台は、主に「バルカン半島」「中央アジア」「極東」の三方面です。

その始まりは、まだロシア帝国が成立する前の1965年におこなわれた、オスマン=トルコ帝国が支配していた黒海北部にある内海、アゾフ海への遠征です。ピョートル1世は当時23歳でしたが、自らも一砲兵下士官として従軍しました。

1696年にアゾフ要塞を陥落させて海への出口を手に入れましたが、いまだ内海のアゾフ海のみに留まる状況です。1725年にピョートル1世が病死すると、皇后のエカチェリーナが女帝として即位します。しかしわずか2年で亡くなり、次に孫のピョートル2世が即位しますが3年で亡くなるという不安定な時期が続きました。

それでもロシアは、1740年の「オーストリア継承戦争」、1741年の「ロシア・スウェーデン戦争」、1754年の「七年戦争」などを戦い抜き、その地位を守り続けます。

1762年、ピョートル3世がクーデターで廃位され、皇后エカチェリーナがエカチェリーナ2世として即位します。彼女はドイツ貴族出身で、ロシア人の血を引いていませんでしたが、啓蒙君主を自認していて、帝国は大きく発展しました。

1768年、オスマン=トルコ帝国の属国であるクリミアに暮らすタタール人が、ロシアの南部を襲撃する事件が発生。「第一次露土戦争」が発生します。これに勝利をしたロシアは、講和条約を結んで黒海北岸部を割譲させました。

その後クリミア・タタールをロシアに併合。1787年の「第二次露土戦争」にも勝利をし、黒海沿岸地域を獲得すると、今度はオスマン=トルコ帝国の影響力が強いバルカン半島へと進出していきます。

しかし1796年にエカチェリーナ2世が亡くなると、「フランス革命」を機に台頭してきたナポレオンとの戦いに専念せざるを得なくなり、南下政策は一時停止となりました。

ナポレオンとの戦いに勝利した後は、1825年に即位したニコライ1世のもとで、再び南下政策を開始。1821年の「ギリシア独立戦争」、1828年の「露土戦争」に勝利をし、ドナウ川河口やカフカス地方を獲得。モルダヴィア、ワラキア、セルビアの自治を承認させるなど、バルカン半島における勢力を伸ばしていきました。

しかし1853年の「クリミア戦争」でイギリス・フランス連合軍に敗れ、バルカン半島への進出は頓挫。戦況が悪化するなかで、ニコライ1世は亡くなりました。

跡を継いだアレクサンドル2世は、ロシアの改革に取り組み、1877年の「露土戦争」で勝利。しかし、イギリスやフランス、ドイツ、オーストリア、イタリアなどの介入があり、「ベルリン会議」の結果、南下政策は停止されました。

その後アレクサンドル2世は、南下政策の矛先を中央アジアと極東に転じ、コーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、トルクメニスタンなどを保護国化。さらに中国の清王朝と「アイグン条約」「北京条約」を締結して、アムール川左岸と沿海州をロシアの領土にします。

次にロシアは、中央アジアではアフガニスタンへ、極東では満州や朝鮮半島への進出を図りました。しかしイギリスと日本が、その前に立ちはだかったのです。

 

南下政策に対抗して日英同盟が締結、イギリスの目的は?

 

1894年に起こった「日清戦争」で日本に敗れた清は、巨額の賠償金を支払う必要性に迫られます。さらにロシアとフランスから借款を受け、その見返りとして清国内におけるさまざまな権益を与えざるを得ない状況になりました。

これによって、1842年に終結した「アヘン戦争」以来続いてきたイギリスの半植民地状態は崩壊します。「露仏同盟」を締結していたロシアとフランスは連携を図り、ロシアが北から、フランスが南から中国に進出。イギリスの権益を挟撃する様相を呈したのです。

ロシアは、シベリア鉄道の満州北部への敷設権を獲得し、1898年には遼東半島の旅順を占領。大連とともにロシアの租借地とします。これによって、ピョートル1世以来の悲願である「不凍港」の獲得に成功したのです。

さらに1900年の「義和団事件」をきっかけに満州も占領。朝鮮半島への進出も狙うようになりました。

ロシアの南下政策が進展することは、イギリスにとって重要な植民地である中国やインドを脅かすことになります。イギリスはこれまで「栄光ある孤立」と呼ばれる非同盟政策を採っていましたが、単独でロシアと戦う力はありません。信頼に足る同盟国を求め、「義和団事件」でその精強ぶりとモラルの高さが称賛された日本に期待を寄せるようになるのです。

一方の日本も、ロシアの軍事的脅威を受けていて、妥協の道を探る伊藤博文や井上薫らと、ロシアとの対立は避けられないとする山縣有朋、桂太郎、西郷従道らの間で議論が起こっていました。結果的には、イギリスとの同盟交渉を進めることになります。

そして1902年1月30日、ロンドンの外務省にて、日本側代表である林董特命全権公使と、イギリス側の代表であるランズダウン侯爵ペティ=フィッツモーリスの間で「日英同盟」が締結されるのです。

 

南下政策の影響は?日本とロシアは戦争に

 

1904年、「日露戦争」が勃発します。

原因となったのは、ロシアによる朝鮮半島への進出でした。大陸から日本に向けて突き出されたナイフのような形状をしている朝鮮半島は、日本の安全保障における要です。

1894年の「日清戦争」で勝利を収めた日本は、朝鮮半島から清の影響力を排除することに成功していましたが、日本の影響力が強まることを忌避する韓国の高宗らが、鉱山の採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などをロシアに与え、清に代わってロシアとの関係を深めようとしていました。

1898年には、朝鮮半島を日本、満州をロシアの支配圏として認めるという「西・ローゼン協定」を結び、一時緊張緩和を試みる動きも見られましたが、1903年にはロシアが鴨緑江河口の龍岩浦を租借し、軍事拠点を構築するなど、協定に反する行動をとるようになります。

日本は「西・ローゼン協定」の精神に立ち返る交渉をしましたが、ロシアは賛同せず、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯として軍事目的での利用を禁止するという内容の提案をしてきました。圧倒的な国力差を考えれば、ロシアにとって戦争を恐れる理由は何もなく、戦争を避けたいのであれば日本が譲歩すべきだという考えがあったのです。

この提案をのむことは、事実上、朝鮮半島がロシアの支配下になるということ。日本は、当時のロシアが建設を急いでいたシベリア鉄道が全線開通する前に、開戦するという決断をくだします。

極東の小国だった日本が、ヨーロッパの大国であるロシアに戦いを挑んだことは、世界中を驚かせました。結果的に日本は辛くも勝利をするのですが、その背景には先述した「日英同盟」があったのです。

「日英同盟」は、1ヶ国同士の戦いの際には中立を、相手が複数国になった際には参戦を義務付けるという内容。 そのため「日露戦争」にイギリスが直接参戦することはありませんでしたが、ロシアの同盟国であるフランスの参戦をけん制する役割を果たしました。さらに軍事資金の調達に協力し、諜報情報の提供やバルチック艦隊回航の妨害などで日本を援助します。

ロシアの南下政策を防ぐために結ばれた「日英同盟」は、見事にその役割を果たしたといえるでしょう。

 

バルカン半島の歴史を学べる一冊

著者
マーク・マゾワー
出版日
2017-06-20

 

「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれ、「第一次世界大戦」のきっかけにもなったバルカン半島。東ローマ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国と支配者が入れ替わり、宗教と民族が複雑に入り組んだ結果、この地は民族紛争のるつぼになりました。

本書では、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルをオスマン帝国が陥落させてから、ロシアの南下政策でオスマン帝国が衰退し、ユーゴ紛争などの民族紛争を経て現在にいたるまでのバルカン半島の歴史を解説しています。

オスマン帝国が統治していた時代は比較的平和でしたが、ロシアが南下政策を推進する際に民族意識を持ち込み、やがて半島を「火薬庫」に変えていったことが理解できるでしょう。ヨーロッパの知られざる一面に触れることができる一冊です。

 

南下政策をはじめロシアの歴史を考えられる一冊

著者
司馬 遼太郎
出版日
1989-06-10

 

まだソビエト連邦が存在していた時代に、司馬遼太郎が執筆した作品です。歴史小説家のイメージが強いですが、本作は、ロシアの草創期から「第二次世界大戦」頃までのさまざまな評論を集めたものになっています。

ロシアの始まりは、9世紀にリューリクという人物がノヴゴロドを建設し、初代首長になったところから始まります。その後はモンゴルに支配される時代が続き、ロシア人による国家の成立は15世紀と比較的新しい国です。18世紀前半にロシア帝国が成立し、それ以来南下政策を国家の目標としてきました。

20世紀にソビエト連邦が成立、崩壊をして再びロシアとなった現在ですが、作者は「たとえ名前が変わったとしてもロシアはロシアだ」と述べています。プーチン大統領がクリミア半島を併合したり、シリア内戦に介入したりすることを考えると、その指摘はあながち間違っていないと感じられるでしょう。

現代におけるロシアの動向を知る際に、その歴史を知っていると見え方が変わってくるはずです。