フランス革命のはじまりとされている「バスティーユ牢獄襲撃事件」。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では、事件が起きた背景と理由、経緯、結果をわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
1789年7月14日に、フランスの首都パリで、民衆が市内のバスティーユ牢獄を襲撃しました。
この「バスティーユ牢獄襲撃事件」がフランス革命のはじまりといわれていて、襲撃に参加した人々は「バスティーユの征服者」と呼ばれます。8歳から70歳までと年齢はバラバラ。なかには外国人も含まれていたそうです。
翌1790年に参加者の名簿が作成されましたが、3つあるいずれも重複や漏れがあり、正確な人数は定かではありません。おおむね800~900人が参加をし、このうち98人の死者が出ました。
参加者の大多数を占めていたのは、バスティーユ牢獄に隣接するフォーブール・サン=タントワーヌ地区周辺の住民たち。多くは工房の経営者や職人などで、彼らのほとんどはパリの治安維持を担う民兵隊の一員でもありました。
バスティーユ牢獄は、パリの東側を守るために1370年に建設された要塞です。「バスティーユ」だけで「要塞」という意味があるため、フランス語では所在地の名前を取って「バスティーユ・サンタントワーヌ」もしくは「ラ・フォルトレス・ド・ラ・バスティーユ」といいます。
街の拡大や大砲が現れたことによって軍事的な価値を失うと、約30mの城壁と8基の塔をもつ堅牢な構造を活かして、刑務所に転用されました。
バスティーユ牢獄に収容されたのは、国王が発行する「勅命逮捕状」によって逮捕された人物です。主に謀反をしようとした高官や、王政を批判した学者などが収監されていたそう。また勅命逮捕状は人間以外にも出され、啓蒙思想家のディドロとダランベールらが編集した辞典『百科全書』も収監されました。
牢獄という言葉から連想するイメージとは異なり、部屋は5m四方、天井は8mの高さがあり、光が十分に入る窓も設置されていたそう。囚人は愛用の家具を持ち込むことができ、専属のコックや使用人を雇うこともできました。食事は昼に3皿、夜に5皿と豪華で、嫌いなものがあれば別に注文することも可能です。
服装も自由で、図書館や遊戯室も完備。もしも病気になった場合は、国王の侍医が診察するなど、かなり手厚い体制が整えられていて、自ら望んで入所する人もいたそうです。
「バスティーユ牢獄襲撃事件」によって、当時収監されていた7人の囚人は解放され、バスティーユ牢獄は解体されました。
18世紀のヨーロッパでは啓蒙思想が広まり、産業革命を進めるイギリス、自由平等を掲げて独立を宣言したアメリカなどが近代国家への道を歩んでいました。その一方でフランスでは、ブルボン王朝による絶対君主制が依然として続いていました。
この体制は後に、アレクシ・ド・トクヴィルの著書『アンシャン・レジームと革命』によって「アンシャン・レジーム」と呼ばれるようになります。国民は聖職者の第一身分、貴族階級の第二身分、平民の第三身分と区別され、あわせて50万人ほどしかいない第一身分と第二身分は「特権階級」と呼ばれて年金支給や免税特権が認められていました。
当時のフランスは、たび重なる戦争や、宮廷の浪費、アメリカ独立戦争への援助などによって、財政が困窮。1780年代には財政赤字が大きな問題となります。
ルイ16世は、学者のジャック・テュルゴーや銀行家のジャック・ネッケルを登用して、財政改革をしようとしますが、特権階級の反対によって改革は頓挫。
さらに追い打ちをかけるように、1783年にアイスランドのラキ火山が噴火。噴煙がヨーロッパ全体の農業に大きな打撃を与え、飢饉を引き起こします。都市部への食糧供給も滞り、小麦の価格は前年に比べて4割も高騰するなど貧困層を苦しめ、国庫収入も激減しました。
1788年、財務長官への就任を打診されたネッケルは、「三部会」の開催を条件とします。三部会は第一身分、第二身分、第三身分それぞれが代表を選任し、重要議題を議論する身分制議会です。しかし絶対君主制が成立すると意味を成さなくなり、17世紀以降は開かれていませんでした。
1789年、ネッケルの要求によって、実に175年ぶりに三部会が開催。しかし、議決の方法をめぐる討議に40日間も費やすなど、議論をする状況ではありません。これに業を煮やした第三身分の代表たちは、「国民議会」を発足させ、他の身分にも参加を呼び掛けます。
ヴェルサイユ宮殿の屋内球戯場で、憲法を制定すること、そして国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しないことを誓いました。これが有名な「球戯場の誓い」です。
国民議会には、第一身分や第二身分からもアンシャン・レジームに疑問をもつ者が参加。やがてルイ16世もこれを正式な議会と認め、他の議員も合流することになります。名前を「憲法制定国民議会」と改称し、憲法の制定に着手しました。
しかし、この動きに反対する人々が、ルイ16世にパリとヴェルサイユに軍隊を集結させることを求め、緊張が高まります。
そんななか、第三身分の出身で、庶民からの人気も高かったネッケルが政府によって財務長官から解任されると、この報せが人々の怒りに火をつけ、「バスティーユ牢獄襲撃事件」を引き起こしたのです。
「バスティーユ牢獄襲撃事件」が起こった当時、パリ市内には約2万の兵士が集まっていました。ルイ16世自身は武力で鎮圧することに消極的でしたが、弟のアルトワ伯をはじめとする強硬派が大多数を占めている政府は、国王の意向に従いません。
1789年7月12日、ネッケルが財務長官を解任されたという報せが入ると、民衆が憤怒。パリ市内の各地で暴動が起こりました。パリ市は臨時招集した市政委員会のもとで、民兵隊を中心とする厳戒態勢を敷きます。
7月14日の朝、民衆が軍病院である「廃兵院」に押し寄せました。その数は5000人とも8000人ともいわれています。彼らは武器を引き渡すよう求め、約3万2000丁の小銃と20門の大砲を奪ったそうです。
この時、廃兵院のすぐ近くにあるシャン・ド・マルス公園では国王軍が野営していましたが、彼らの士気は低く離反する可能性を考慮して出動は見送られています。
廃兵院を後にした民衆は、数日前に廃兵院から大量の武器が運び込まれたという噂があった、バスティーユ牢獄へと向かいます。
午前10時頃、民衆の代表が、バスティーユ牢獄の司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーに対し、隣接する地区に設置した大砲の撤去と、武器弾薬の引き渡しを求めました。しかし司令官は大砲の撤去には応じたものの、武器弾薬の引き渡しには応じません。
交渉をしている間も民衆の数は増え続け、午後1時頃には2人の男性が塀を乗り越えてバスティーユ牢獄に侵入。内部から跳ね橋を落とし、民衆がなだれ込みました。
バスティーユ牢獄の守備隊は約100人ほどだったそうですが、民衆の多くが戦闘に不慣れだったこともあり、午後3時半過ぎまで戦いは続いたそうです。
午後3時半過ぎに、国王軍から離反したフランス衛兵の一部が民衆側に加わったことで、形成が一気に逆転。廃兵院から奪った大砲まで持ち出す民衆たちに、司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーも降伏を余儀なくされ、バスティーユ牢獄は陥落しました。
降伏したバスティーユ牢獄の司令官ベルナール=ルネ・ド・ローネーは、パリ市庁舎に連行されたところで興奮した民衆に殺されます。同じように士官3人、守備兵3人も殺害され、さらに市長のジャック・ド・フレッセルも射殺されました。
シャン・ド・マルス公園で野営をしていた国王軍は、一連の事態に介入できないまま、14日の夜にパリから撤退。司令官のブザンヴァル男爵は「革命に同情的な裏切り者」とみなされ、拘禁されました。
数日後には、ネッケルの後任になるという噂が流れたことから、元陸海軍総監フーロンと、娘婿でパリ知事をしていたベルチエ・ド・ソーヴィニーも殺害。民衆は殺した者たちの首を槍に刺し、掲げながら、市庁舎前の広場を練り歩いたそうです。
「バスティーユ牢獄襲撃事件」は政府の要職を占めていた強硬派を驚かせ、ルイ16世の弟アルトワ伯は国外に亡命。一方のルイ16世はネッケルの復職を決定し、自らパリに赴いて発足した新パリ市政府と民兵隊を承認しました。
このようなルイ16世の対応は、保守派からすると民衆への譲歩とみなされ、国外に亡命した王族や貴族たちは反革命運動を展開。武力衝突も辞さない構えを見せます。ルイ16世は民衆の支持を受ける議会側と保守派との間で板挟み状態に陥りました。
結局ルイ16世は、「バスティーユ牢獄襲撃事件」を防ぐことも、鎮圧することもできなかったため、国を主導する力はなく、フランスは革命へと突き進んでいくことになったのです。
- 著者
- 佐藤 賢一
- 出版日
- 2011-11-18
フランス革命を詳細に描いた歴史小説の第3巻。作者はフランス文学を専攻していたこともあり、フランス語の史料も駆使して時代背景や人物をリアルに表現しています。
シリーズは二部構成で、各9巻の合計18巻という大長編。第3巻ではまさに革命の始まりといわれる「バスティーユ牢獄襲撃事件」がメインです。
ルイ16世も登場しますが、やはり革命の主役となったのは民衆。彼らはなぜ立ち上がったのか、なぜバスティーユ牢獄を陥落させることができたのか、その躍動っぷりを臨場感たっぷりに感じることができるでしょう。
- 著者
- 安達 正勝
- 出版日
- 2008-09-01
フランス国旗として用いられているトリコロールは「青・白・赤」という3色が用いられていますが、これは「自由・平等・友愛」を表しています。定めたのは、「バスティーユ牢獄襲撃事件」の後にバリ市長となったジャン=シルヴァン・バイイか、民兵隊を元に結成された国民衛兵の総司令官となったラファイエットだそう。
しかし「自由・平等・友愛」とは裏腹に、フランス革命は数多の血で彩られました。本書は、そんな革命の歴史を人物伝の形式で、さながら物語のようにわかりやすくまとめています。
専門書のような詳細な解説を試みるものではなく、重要な人物を選び、著作や演説集、手紙、日記、出版物などを駆使しながらその人柄を浮かび上がらせているのが特徴です。
絶対君主制から近代市民社会へと一挙に変化したフランス革命。詳細な部分まで理解しようとするとかなりの困難がともないますが、本書は読ませる文章で全体像を把握できるので、最初の1冊としておすすめです。