後漢末期の中国で発生し、『三国志』で有名な三国時代が始まるきっかけとなった「黄巾の乱」。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では、乱を率いた太平道や、原因、影響などをわかりやすく解説していきます。
中国後漢末期の184年に、「太平道」を率いた張角が起こした「黄巾の乱」。反乱軍が目印として黄色い頭巾を頭に巻いたことから、こう呼ばれています。
張角の目的は、後漢王朝を転覆させて自らが皇帝になること。数十万人もの信徒を軍事組織化し、自ら「天公将軍」を名乗り、弟の張宝に「地公将軍」、張梁に「人公将軍」と名乗らせました。後漢王朝の滅亡を暗示させる「蒼天已死 黃天當立 歳在甲子 天下大吉」というスローガンも掲げます。
時の皇帝、霊帝は、皇后の兄である何進(かしん)を大将軍に任命して、都である洛陽に入るための8つの関所を守らせ、盧植(ろしょく)、朱儁(しゅしゅん)、皇甫嵩(こうほすう)などの地方豪族を派遣して反乱の鎮圧を指揮させます。また「黄巾の乱」討伐のための義勇軍も全国で募集しました。
この迅速な対応によって、最盛期には反乱軍が50万人以上に膨れあがったものの、乱自体は約9ヶ月で鎮圧されます。
「黄巾の乱」で注目したいのは、曹操、孫堅、劉備という後に三国時代を築く英雄たちが、歴史の表舞台に登場したこと。まさに『三国志』誕生のきっかけとなる戦いだったのです。
「黄巾の乱」を引き起こした「太平道」は、道教の一派で、華北地域の民衆を中心に信仰されていました。教祖である張角が教典としていたのが、『太平清領書』です。
『太平清領書』は、徐州出身の道士、于吉が薬草を採りに入った山中で得た神書であるとされています。于吉は五行、医学、予言に通じていて、病人に『太平清領書』を読み聞かせ、符水を飲ませる治療をし、民衆から広く尊崇されていました。
于吉と張角の関係は不明ですが、張角もまた病人に対し符水を飲ませるなど、呪術を用いた治療をおこなっています。
張角の教えによると、その効力は信仰心の篤さによるとされ、病気が治らないのは信仰心が足りないから。民衆は、病気を治したいという思いから、太平道の教えにのめり込んでいったのです。
また張角は、善の行為を積み重ねる者には善が、悪の行為を積み重ねる者には悪の因果が巡るという理論を説き、民衆の生活が苦しいのは、後漢王朝が悪だからだと信じ込ませました。
張角の説く単純な善悪二元論は民衆にとってわかりやすいもので、「後漢王朝=悪」であるという認識はあっという間に広まります。そして、後漢王朝と対峙する張角こそが「善」であると認識されていったのです。
168年、後漢王朝の第12代皇帝に霊帝が即位します。この時、霊帝はまだ13歳の少年でした。それ以前の彼は地方に住む一貴族に過ぎず、さらに貴族とは名ばかりの貧しい生活を送っていたそうです。しかし先代の桓帝に男子がいなかったことから、桓帝の皇后である竇妙(とうみょう)と、彼女の父親で代将軍の竇武(とうぶ)らに選ばれ、皇帝に即位します。
後漢王朝では、桓帝の時代から皇帝の近くに仕える宦官が強い権力をもっており、霊帝の時代には竇妙、竇武らの一派と、宦官、さらに霊帝の皇后一族との間で激しい争いがくり広げられていました。
さらに当時は国庫が払底していて、王朝は財政的に困窮。そこで霊帝は、収入を増やすために官位の売買を認めるのです。
高い官位を求めた者たちが大金を支払ったことで、国庫は潤いましたが、結果的に能力や実勢のない者が高位を独占することになり、政治が混乱します。
出世を望む役人たちは、より高い官位を斡旋してもらおうと権力者に賄賂を贈るのが常態化。お金を集めるために庶民に重税を課します。宦官派と皇后派が権力をめぐって積極的に売官をしたことも、この風潮に拍車をかけることになりました。
王朝が混乱している様子を見て、羌族や鮮卑族などの異民がたびたび侵攻。さらに天災も頻発し、庶民は毎日の食べるものにも困る状況に陥ってしまいます。
それでも王朝は権力闘争に明け暮れ、有効な手を打つことはありませんでした。民衆の心は、霊帝からも、皇室や後漢王朝そのものからも離れていったのです。
1年も経たない間に鎮圧された「黄巾の乱」ですが、その後も王朝の威信は回復することはなく、中国は動乱の時代に突入することになります。いわゆる魏・呉・蜀の三国が争う「三国時代」になるのです。
この三国時代を描いた歴史書『三国志』で活躍する英雄たちが、初めて表舞台に登場したことから、「黄巾の乱」は『三国志』誕生のきっかけといわれています。
後に魏を建国する曹操は、「黄巾の乱」勃発時は30歳。元は夏侯氏の出身だといわれていますが、父親の曹嵩が、宦官の最高位である大長秋、曹騰の養子になったため曹氏となりました。若い頃から機知と権謀に富み、「黄巾の乱」が起こると皇甫嵩や朱儁とともに討伐戦に参加。大きな功績をあげました。
呉の礎を築いた孫堅は、「黄巾の乱」勃発時は30歳前後。孫武の末裔といわれていますが、詳細は不明です。17歳の頃から海賊の討伐や反乱鎮圧で活躍していて、「黄巾の乱」が起こると朱儁の下で参戦。各地を転戦し、軍功をあげます。宛城攻略戦では自ら先頭に立って城壁を上り、勝利に貢献しました。
後に蜀を建国する劉備は、「黄巾の乱」勃発時は24歳。前漢の第6代皇帝、景帝の末裔といわれています。幼い頃に父親が亡くなったため貧しい生活を余儀なくされ、母親とともに筵を織って生計を立てていました。
「黄巾の乱」が起こると、関羽、張飛、簡雍、田豫らとともに義勇軍を結成して参戦。各地を転戦して軍功をあげます。
このように、彼らが活躍したことで「黄巾の乱」は終息。しかし結局王朝の衰退は止まらず、さらに霊帝が健康を害したことで次の帝位をめぐる跡目争いが勃発します。
目まぐるしく権力者が入れ替わるなかで、三国時代と呼ばれる群雄割拠の時代を迎えることとなるのです。
- 著者
- 宮城谷 昌光
- 出版日
- 2018-02-15
作者の宮城谷昌光は、古代中国を題材にした歴史小説を多数執筆している人物。本書は、『三国志』の前史ともいえる内容になっています。
『三国志』は「黄巾の乱」以降の印象が強く、それ以前の時代に詳しく触れている作品は多くありません。本書では何進、朱儁、王允、盧植、孔融、皇甫崇、荀彧という7人の名臣をとりあげ、その人生の歩みを記した歴史小説です。
王朝が権力闘争に明け暮れ、民心が離れて「黄巾の乱」が起こり、鎮圧後も権力者が頻繁に入れ替わって後漢王朝が衰退していくさまを見ながら、彼らは一体何を考え、どう行動したのでしょうか。後漢時代の一連の流れを理解できるだけでなく、『三国志』では主役になれなかった人たちを再評価できる作品です。
- 著者
- 出版日
- 2014-09-11
陳寿が歴史書『三国志』を執筆したのは、3世紀後半。三国時代を知る人々が生きていた時代です。一方の羅貫中が、小説『三国志演義』を記したのは、元末期もしくは明初期の頃。『三国志』をもとに各地に伝わる民間伝承などの資料をまじえて、『三国志演義』をまとめました。その分量は正史のおよそ10倍にもなるそうです。
本書は、そんな『三国志演義』を中国文学に造詣の深い作者が翻訳したもの。時代背景なども考慮しながらわかりやすくまとめられていて、英雄たちの織り成す物語にあっという間に惹き込まれてしまうでしょう。
第1巻は、三国時代のきっかけである「黄巾の乱」。そこから、反乱鎮圧後の曹操、孫堅と孫権、劉備などの怒涛の活躍が描かれます。歴史に苦手意識がある人も、小説であれば気軽に読むことができるのでおすすめです。