5分でわかるペロポネソス戦争!原因と結果、トゥキディデスなどを簡単に解説

更新:2021.11.20

ギリシアの二大ポリスであるアテネとスパルタが争った「ペロポネソス戦争」。当時の歴史家トゥキディデスの『戦史』によって、現代までえ伝えられています。この記事では、原因、経緯、結果、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。

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「ペロポネソス戦争」の原因は?ペルシア戦争に次ぐギリシアの戦い

 

紀元前500年から紀元前449年まで続いた「ペルシア戦争」が終結した後、紀元前431年から紀元前404年にかけて「ペロポネソス戦争」が勃発しました。アテネを盟主とする「デロス同盟」と、スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」という、ペルシア戦争では味方だった勢力同士の争いです。

27年間も続いたギリシアの覇権を巡る戦いは、エーゲ海だけでなくシチリア島にまでおよび、古代における世界戦争の様相を呈します。

アテネは民主政を軸とするポリスで、「ペルシア戦争」時の「サラミスの海戦」で勝利に貢献した強力な海軍を有しています。「ペロポネソス戦争」開戦時の紀元前431年当時は、将軍職のペリクレスのもとで全盛期を迎え、エーゲ海に覇権を確立。積極的な拡張政策を実施して、軍事力を増強しながら勢力を拡大していました。

「デロス同盟」は、そんなアテネを盟主にして紀元前478年に結成された同盟です。最盛期には約200のポリスが参加し、各ポリスが兵や船、資金などを拠出して連合艦隊を編成していました。

一方のスパルタは、少数の貴族階級が多くの半自由民や奴隷を支配する軍国主義のポリスです。主力は陸軍で、「スパルタ教育」という言葉が現代でも用いられるように、厳しい訓練をすることで有名でした。

スパルタを盟主とする「ペロポネソス同盟」は、「デロス同盟」よりも古く紀元前6世紀末に結成されたもの。クレオメネス1世を中心に、ペロポネソス半島の諸ポリスで構成されています。「ペルシア戦争」で勝利をして以降勢力を拡大する「デロス同盟」に対して、強い危機感を抱いていました。

「ペロポネソス戦争」が開戦した直接の原因は、エピダムノスという植民地で起こった内紛と、周辺民族との抗争です。

エピダムノスは、コリントス人が建設した植民地ケルキュラを母体とする市。相次ぐ争いによって疲弊したためケルキュラに仲裁と援助を求めましたが、拒否されてしまいます。次にコリントスに救援を求めますが、当時はコリントスとケルキュラの関係が悪化していたため、怒ったケルキュラがエピダムノスへ侵攻してきました。

これに報復をするためコリントスが軍備の増強を始めると、ケルキュラはアテネに支援を求めます。コリントスは対抗してスパルタに支援を要請しました。

その結果、ひとつのポリスに過ぎないエピダムノス周辺の争いが、ギリシアの二大陣営による全面戦争へと発展してしまったのです。

 

「ペロポネソス戦争」の経緯と結果を解説

 

「ペロポネソス戦争」は大きく、「十年戦争」「ニキアスの和約」「第二次戦争」の3つに分けることができます。

まず「十年戦争」は、紀元前431年5月、スパルタ王アルキダモス2世が率いるペロポネソス同盟軍がアテネの本拠地であるアッティカ地方に侵攻したことで始まりました。

これに対し、ペリクレス率いるアテネは、籠城してペロポネソス同盟軍をアッティカ地方に引きつけ、海軍を用いて本国を攻撃する作戦をとります。この作戦が功を奏して、戦いはアテネ優勢で進みました。

しかしアテネ市内で疫病が流行り、紀元前429年にペリクレスが死亡すると、戦況は徐々にペロポネソス同盟側に傾き、膠着状態に。長期化する戦いのなかで、両国はともに疲弊していきました。

紀元前422年の「アンフィポリスの戦い」で、アテネの指導者クレオン、スパルタの将軍ブラシダスの双方が亡くなると、和平を求める機運が高まります。

そして紀元前421年アテネの将軍ニキアスと、スパルタ王プレイストアナクスの交渉が成立し、「ニキアスの和約」が締結されることになりました。

しかしこの和約で定められた「両陣営が占領地を返還する」という条項が守られることはなく、紀元前415年、アテネのアルキビアデス主導のもとで、軍事作戦「シチリア遠征」が開始。戦いが再開しました。これを「第二次戦争」と呼びます。

「シチリア遠征」は、シチリア島においてスパルタの同盟国であったシュラクサイが勢力を拡大し、その影響下にあるセリヌスによってアテネの同盟国セゲスタが攻撃を受け、救援を要請されたために実施したもの。

ただ遠方であるシチリアへの遠征は無謀で、ペロポネソス同盟軍にアテネへの穀物供給地であるデケレイアを占領されたこともあり、2度にわたる遠征は失敗に終わりました。アテネは大軍を失うことになってしまったのです。

これによって「ペロポネソス戦争」の戦況はほぼ決し、デロス同盟から離反するポリスも続出。その後もアテネは戦い続けますが、405年の「アイゴスポタモイの海戦」で命綱だった海軍が壊滅し、制海権を失います。

紀元前404年についにアテネ市が包囲され、降伏。「ペロポネソス戦争」は終結しました。

 

「ペロポネソス戦争」の影響は?ギリシアはその後どうなった?

 

アテネを盟主としたデロス同盟は、「ペロポネソス戦争」での敗北により解散。民主政が崩壊し、スパルタ人の指導のもとで「三十人政権」と呼ばれる親スパルタの寡頭制政権が成立します。「三十人政権」は恐怖政治を敷き、アテネの貴族や富裕層などを次々と粛清。その富を奪いました。

するとアテネ市民の間で反発が起こり、紀元前403年にはアテネ海軍の将軍だったトラシュブロスを中心とする勢力と内戦が勃発。「三十人政権」はわずか1年ほどで崩壊し、アテネは再び民主政の国になりました。

「ペロポネソス戦争」によってデロス同盟の盟主としての地位は失ったものの、いまだに有力なポリスであったアテネに目を付けたのが、アケメネス朝ペルシアです。もともとアテネとペルシアは宿敵同士ではありましたが、ペルシアは「ペロポネソス戦争」に勝利して勢力を拡大するスパルタに対抗するため、アテネに資金援助をおこないます。

一方のスパルタは、ギリシアの覇権を掌握し、莫大な富を得ることになりました。しかしその結果、市民間の貧富の差が広がり、スパルタ軍は弱体化してしまいます。

スパルタが勢力を落とすなかで台頭してきたのが、テーバイです。テーバイは「ペロポネソス戦争」時にはスパルタと同盟を結んでいて、戦後に同盟を破棄。アテネと同じようにペルシアからの資金援助を受けつつ、コリントスとともに反スパルタ連合の中核を形成します。

こうして「ペロポネソス戦争」以降のギリシアでは、アテネとスパルタに加え、ペルシア、テーバイ、コリントス、ペルシアなどの勢力が時々の状況に応じて組む相手を変えながら、争いを続けることになるのです。

覇権を握る勢力は頻繁に入れ替わりましたが、長引く抗争の結果、そのすべてが衰退するという結果を招きました。最終的にギリシアの覇権を握ったのは、新たに台頭してきたマケドニア王国です。

マケドニア王国のフィリッポス2世とアレクサンドロス3世親子が活躍。各勢力を打倒して人類史上初の巨大帝国を築きあげます。アレクサンドロス3世は後に、「征服王イスカンダル」「アレクサンダー大王」と呼ばれるようになりました。

 

「ペロポネソス戦争」を記したトゥキディデスの『戦史』とは

 

「ペロポネソス戦争」の記録は、アテネの歴史家トゥキディデスの著書である『戦史』によって後世に伝えられました。

トゥキディデス自身も将軍として参戦していましたが、紀元前422年の「アンフィポリスの戦い」で失脚。20年の追放刑に処されています。その間にスパルタの支配地に逗留していたこともあり、双方の陣営を見聞きした経験が『戦史』の客観的な叙述を可能にしたといわれています。

『戦史』の序文によると、トゥキディデスは「ペロポネソス戦争」がギリシア世界全体を揺るがす大規模な戦いに発展すると見抜き、後世への教訓として残しておくべきだと考えたため、執筆にいたったそうです。

しかし、『戦史』の内容は紀元前411年までで、紀元前404年の終戦までは記していません。トゥキディデス自身は紀元前395年に亡くなっているため、死が中断の理由というわけでもなく、多くの研究者がこの謎に挑んでいますがいまだに解明されていないのです。

「ペロポネソス戦争」の記述自体は、哲学者ソクラテスの弟子クセノポンに引き継がれ、『ギリシア史』としてまとめられています。

 

トゥキディデスの『戦史』をわかりやすくまとめた一冊

著者
トゥキュディデス
出版日
2013-12-09

 

本書は、先述したトゥキディデスの『戦史』を抄訳したもの。要旨がまとめられているので、全体像を把握するのに最適の一冊だといえるでしょう。2400年前に書かれた書物とはいえ、政治家の演説や停戦後の交渉過程などは、今読んでも色褪せない魅力に満ちています。

「ペロポネソス戦争」は、強大な軍事力を有するスパルタと、新興大国アテネの衝突。覇権国家が現状維持を望み、新興国家が現状打破を望む以上、両者の衝突は避けがたいというトゥキディデスの考え方は、「トゥキディデスの罠」と呼ばれています。

彼が後世に教訓として書き残した『戦史』から、私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

 

「ペロポネソス戦争」などギリシアの通史を学べる一冊

著者
伊藤 貞夫
出版日
2004-07-10

 

ヨーロッパ文明の源流といわれる古代ギリシアについて、青銅器時代から紀元前8世紀頃のポリスの成立、紀元前5世紀のポリス全盛期、そして「ペロポネソス戦争」とその後の混乱を経て、マケドニア王国によってポリスという体制そのものが滅びるまでを記した通史です。

前半では、ギリシアの政治体制として真っ先に思い浮かぶであろう民主政がいかに形成されていったのか、その過程を確認でき、後半ではアテネとスパルタという対照的な2つのポリスについて解説しています。

またギリシアは、アルファベットやオリンピック、ゼウスやヴィーナスなどのギリシア神話、ソクラテスやプラトンなどの哲学者と、現代にも通じるものを多々排出しているため、馴染みのある言葉がたくさん出てくるのも嬉しいポイント。歴史書としても読み物としても楽しめる一冊です。

 

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