19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパ列強による「アフリカ分割」がおこなわれました。どのような背景があったのでしょうか。この記事では、分割がおこなわれた理由や各国の紛争、影響などをわかりやすく解説していきます。
1880年代から1912年にかけて、ヨーロッパの列強によってくり広げられたアフリカ各地域の支配権をめぐる一連の動きを「アフリカ分割」といいます。
ヨーロッパ列強とは、ポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、イタリア、ドイツ、ベルギーの7ヶ国のこと。1912年時点で、一部を除いたアフリカ全土が、この7ヶ国のいずれかに支配されることになりました。
1884年11月から1885年2月にかけて、ドイツの首都ベルリンで「アフリカ分割会議」が開かれます。上述した7ヶ国に、オーストリア=ハンガリー、デンマーク、アメリカ、オランダ、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国を加えた全14ヶ国が参加。ベルギーとポルトガル間で争われていたコンゴの領有権問題について話しあいがおこなわれ、植民地化の原則が定められます。
植民地化の原則は、「沿岸部を新規に領有した国は、内陸部の領有も国際的に認められる」「新規に領土を得た国は他の列強にその事実を通知する」といった内容で、アフリカに住む人々の意向は一切考慮されていません。
アフリカ分割の結果、独立を維持できたのはリベリアとエチオピアのわずか2ヶ国のみ。しかしリベリアは、アメリカの解放奴隷が建国したという経緯があるため、事実上はアメリカの影響下にあります。そのため、真の意味で独立を維持していたのは、イタリアの2度にわたる侵略を退けたエチオピアだけだといえるでしょう。
ヨーロッパ列強によるアフリカへの本格的な進出は、15世紀のポルトガル、スペインに始まりました。もともとは領土支配ではなく、貿易船の補給拠点、もしくは黒人奴隷の供給源の確保が目的です。内陸部にあるアフリカ土着の国家を管理する必要はなく、沿岸部の港湾を支配するだけでした。
むしろダホメ王国やセネガンビア、ウィダー王国などのアフリカ人国家は、戦争捕虜や犯罪者、債務奴隷などをヨーロッパ各国に売却していて、双方の利害は一致していたのです。
しかし18世紀から19世紀にかけて産業革命が起こり、奴隷貿易が禁止されると、ヨーロッパのアフリカを見る目は「奴隷の供給地」から「工業原料の供給地」「工業製品の市場」へと変わります。さらにそこへ人道的な見地から「暗黒大陸アフリカを支配し、キリスト教、政治制度、言語、文化を与え、文明の光を灯してあげるべき」という考えが広がっていくのです。
この頃にポルトガルとスペインに代わって、アフリカ進出の先頭に立ったのが、イギリスとフランスです。
イギリスは、エジプト、スーダン、南アフリカを植民地に。そしてこれらを拠点にアフリカ大陸を南北に貫くように領土を拡大する「大陸縦断政策」を進めます。
一方のフランスは、西アフリカのモロッコ、アルジェリア、チュニジアを拠点に、西から東へ植民地を拡大する「大陸横断政策」を推進しました。
19世紀後半になると、新興工業国であるイタリアやベルギー、ドイツもアフリカ進出に加わります。列強国間で、いつ争いが起きてもおかしくない状態になっていきました。
そんななか、ベルギーとポルトガルが、コンゴをめぐって対立します。争いのもとになったのは、1878年にベルギー国王レオポルド2世が、探検家のスタンリーをコンゴに派遣したこと。スタンリーは現地の部族長らと取り決めを交わし、数十個の基地を設営しました。
ベルギーの急速なコンゴ進出に反発したのがポルトガルです。1882年、コンゴ川河口地域の主権を宣言し、これをイギリスが支持します。すると、イギリスと対立していたフランスは、ベルギーを支持しました。
しかし1884年には恐慌が起き、各国には戦争で問題を解決する余力がありません。ドイツの宰相ビスマルクが話し合いで問題を解決しようと国際会議を提案。「アフリカ分割会議」が開かれたのです。
1884年に「アフリカ分割会議」が開催されると、ヨーロッパ列強のアフリカ進出はさらに加速します。
会議を主催したドイツは、タンザニアにドイツ領東アフリカを建設。カメルーン、トーゴランド、西南アフリカを相次いで獲得します。イギリスとの間には「東アフリカ分割協定」を結び、ケニアとウガンダを譲って衝突を回避しました。
しかし1898年、「大陸縦断政策」を進めるイギリスと「大陸横断政策」を進めるフランスが、スーダンのファショダで鉢合わせし、開戦の一歩手前までいく「ファショダ事件」が発生します。結果、アフリカ分割会議で定めた植民地化の原則にもとづいて、フランスが譲歩するかたちで戦争が回避されました。
ヨーロッパの列強がなんとか衝突を避ける一方で、アフリカではヨーロッパの進出に対してさまざまな抵抗運動が起こるようになります。
代表的なものとしては、スーダンの「マフディー運動」、西アフリカのトゥクロール帝国やサモリ帝国による「ジハード」、タンザニアの「マジ・マジ反乱」が挙げられますが、いずれも列強の軍を展開して鎮圧しています。
なんとか協調路線をとっていたヨーロッパ列強ですが、長くは続きません。1890年、ドイツ皇帝にヴィルヘルム2世が即位し、新皇帝と意見が合わなくなった宰相ビスマルクが辞職をすると、ドイツは強硬な拡大路線へと転換。積極的に植民地獲得に取り組み、他国と衝突をくり返すようになるのです。
すると1904年、長年対立してきたイギリスとフランスが「英仏協商」を締結。エジプト、スーダン、ケニア、ウガンダ、ナイジェリア、南アフリカをイギリスの、西アフリカ、アルジェリア、チュニジア、仏領コンゴ、ジブチ、マダガスカルをフランスの植民地として相互に認め合います。
これに対しドイツは、1905年、「英仏協商」の対象外だったモロッコにフランスが進出するのをけん制するために「第一次モロッコ事件」を起こしました。1906年には、事態を解決するための会議がスペインのアルへシラスで開かれます。しかしドイツは諸外国の支持を得られず、フランスやスペインによる事実上のモロッコ支配を承認せざるを得ませんでした。
1911年には再びフランスを牽制する「第二次モロッコ事件」を起こしますが、これも失敗し、モロッコはフランスの保護国となります。
さらに1912年、「イタリア・トルコ戦争」に勝利したイタリアがリビアを獲得し、リベリアとエチオピアを除くアフリカ全土がヨーロッパ列強7ヶ国によって分割されることになりました。
アフリカと一口に言っても、そこには多様な言語、歴史、文化を有する多くの民族が存在します。そのような事情を一切考慮せず、恣意的に境界線を引いてアフリカ分割が進められたことによって、アフリカは政治・経済・文化などさまざまな影響を受けることになります。
また、ヨーロッパ列強が持ち込んだ「人種・民族の優劣」という概念は、アフリカ人同士による「民族対立」をも生み出し、コンゴ、スーダン、ルワンダなどアフリカ各地で、アフリカ人同士の紛争が起こる原因になりました。
アフリカ分割のが影響は、現代にまで続くさまざまな問題を生み出しています。
ヨーロッパの人々は、アフリカの土着信仰や文化を遅れているものとして切り捨て、「文明化」の名のもとでキリスト教やヨーロッパ式の文化、言語を押し付けました。アフリカ本来の言語や信仰、文化は廃れ、独立を果たした現在でも、アフリカ諸国の多くがかつての宗主国の言語を「公用語」としているのが現状です。
また、ヨーロッパ列強が急速にアフリカ分割を進めた理由のひとつに、産業革命が起こって工業製品の原材料を大量に確保する必要があったことが挙げられます。ヨーロッパ列強はアフリカ人を酷使し、天然資源を獲得。莫大な富を得ました。その一方でアフリカ人は貧困に喘ぐことになり、現代にまで続く大きな問題になっています。
さらにヨーロッパ列強は、自分たちの都合に合わせてアフリカ人を強制移住させ、彼らの土地を奪いました。強制移住させられた人々は狭い土地に押し込められ、劣悪な環境下での暮らしを強いられ、その結果伝染病などで多くの人が命を落としています。かつて南アフリカでは、「人口の15%しかいない白人が、南アフリカの80%以上の土地を所有している」といわれていたほどです。
その後、アフリカ諸国が独立する過程で、ヨーロッパ列強はアフリカ人から奪った土地を売却します。その費用は莫大で、アフリカ諸国はいまだに旧宗主国に対して多額の負債を抱えているのです。
またこれらの土地はアフリカ諸国の「政府」が独占し、近親者などに分配されたため、アフリカのなかでも富が一部の特権階級に集中し、貧富の差が拡大。さまざまな紛争の要因になっています。
アフリカ分割による影響はいまだに色濃く残り、多くの国が「新植民地主義」と呼ばれる、旧宗主国に頼らざるを得ない状況に置かれているのが現状です。
- 著者
- 出版日
- 2018-11-14
ヨーロッパでは、文献史料が残されていないことを根拠に「アフリカには歴史はない」と考えるのが一般的。それは西洋の影響を色濃く受けている日本でも同様で、エジプトを除いて、ヨーロッパが進出する15世紀まで「空白」になっています。
しかしアフリカは、人類が誕生した地であり、エジプト文明を育み、「世界最古の国」といわれるエチオピアを生んだ地でもあるのです。
本書では、人類の歴史といっても過言ではないアフリカの歴史について、人類の誕生から現代までという壮大なスケールで解説をしています。作者は本書を執筆するうえで、アフリカ分割以降にヨーロッパ人が恣意的に引いた境界線を用いるのではなく、大河川の流域ごとに民族と文明の興亡を分析。アフリカ本来の歴史を紐解こうとしています。
約800ページと読みごたえは十分。人類が歩んできた歴史に思いを馳せられる一冊です。
- 著者
- 岡倉 登志
- 出版日
アフリカ分割によって植民地化が進むなか、アフリカ各国による抵抗運動と、20世紀前半に起こった「パン・アフリカ主義」にもとづくアフリカ合衆国構想の挫折、「OAU(アフリカ統一機構)」の成立、OAUの発展的解消によって成立した「AU(アフリカ連合)」などを解説した作品です。
作者は、セネガルやギニア、ナイジェリアなどで暮らした経験もあり、アフリカ分割の影響による紛争を体感。そして徐々に経済発展を実現し、国際社会における発言力を増していった歩みを見つめてきました。
日本人の私たちが読むと驚くようなことばかりの内容。アフリカの抵抗と結束の歴史を知る、最適の一冊になっています。