なうの裏側に潜むもの【小塚舞子】

なうの裏側に潜むもの【小塚舞子】

更新:2021.12.2

SNSを見ていると、どうにも隣の芝生が青く見えて困る。かわいい犬や猫を見て癒されるだけならいい。しかし、他人が食べた美味しそうな料理とか、スニーカーのコレクションとか、バブリーな旅の写真ばかりが目についてしまう。そして、あぁ!お寿司食べたい!ステーキ食べたい!買い物もしたい!どこか旅に行きたい!ライブ行きたい!・・・というかライブでビールが飲みたい!と、スマホをスクロールするごとにいちいち羨ましくなって悶絶する。おまけに今まさにそれを見ている己の恰好の酷さ(大体ヨレヨレのバンドTシャツ)に気が付いてしょんぼりもする。

ブックカルテ リンク

SNSがなかったら

ふと我に返ると、こんなものは目に毒だ!他人の『なう』などどうでもいい!私は私の充実した生活を送るのだ!と、自らを奮い立たせるのだけれど、ついついまた見てしまうのはどうしてだろう。・・・あれ?もしかして、なうってもう死語?SNSができてからというもの、言葉が生まれるのも死ぬのも速すぎて、全然ついていていけない、なう。

以前、スマホがなかったら世界はどんな景色だろうといった内容の記事を書いたことがある。最近はスマホというよりSNSに限定して「いっそなければいいのかもしれない」と考える。SNSがあるおかげで知れる情報やニュースも確かに多いのだが、その分フェイクニュースに惑わされたり、思わぬところで傷ついたりする人が出てきてしまう。

SNSがないからと言って、人を騙す人や傷つける人がいなくなるわけではない。しかしどうしても、それがなければ、子どもはもちろん大人のいじめも減って平和な世の中になるんじゃないかという気がしてしまう。これもある意味ではどこかの芝生が青く見えているだけなのだろうけど。

私はツイッターとインスタグラムをしているが、どちらも仕事の宣伝ツールにと思って始めた。しかし、そればかりでもつまらないので仕事以外の出来事や写真をアップすることが多くなった。ほとんどは食べ歩きが趣味であるカレーの写真、最近だと娘の写真に埋め尽くされている。子供の写真をアップすることについては賛否両論あるだろうが、私は子供の顔にスタンプを貼り付けるのが息苦しく感じられるので、そのままにしている。

SNSの攻撃力

SNSの中では『賛否両論』どちらもあっていいはずの意見が、必要以上に対立してしまっているような印象がある。『賛』は『否』を攻撃し、『否』も負けじとやり返していて、結果的にどっちもどっちになっているようなやり合いをたびたび見かける。

思ったことをすぐに発言できる場となったSNS。例えばテレビを見ていて感じたことを、わざわざ視聴者センターみたいなところに電話しなくても簡単に自分の意見が言えてしまう。それも不特定多数の人が見られる形で。テレビだけではない。商品やお店、思想、一個人。その対象は大きくても小さくても、平等に世界へと発信される。何気なくつぶやいた言葉がどんどん大きくなって、時には誰かの人生が狂わされることだってある。

もちろん誠実であればいいだけのことなのだろうが、誰だって何だって、間違いの一つや二つあるのではなかろうか。言いたいことも、言いたくないこともあれば、かっこつけたいことだってある。そんな当たり前のことが許されない世の中になっているように感じる。

そういった攻撃性の高いものを見ると、あぁ見なければ良かったなと嫌な気持ちになるのだが、違和感を覚える投稿であればあるほど、気になってついつい読んでしまう自分がいる。不快なうえに時間も浪費してしまい、またしょんぼりしなければならない。

しかし、もちろんしょんぼりするだけがSNSではない。何か調べごとがあるとき、飲食店や欲しいもののレビューが気になるときなんかも、つい最近まではネットで検索していたが、いつのまにかSNSで探す方が多くなってきている。町の名前を入れてみれば、その町にあるカフェやランチが美味しいお店、おすすめの場所などが写真で出てきて、一目でパッとわかるのが便利なのだ。ただ、ここで欲張ってあれこれ見てしまうと、冒頭のような羨望地獄に落ちてしまう。

『なう』だけでは見えないもの

何度もやめようと思ったが、やっぱり便利だし何だかんだ楽しいし、制限して続けていけばいいのかなと考えていた矢先、こんなメッセージをもらった。

私は娘の笑っている写真を投稿することが多かったのだが、ある日こっちを見て泣いている写真を載せてみた時のことだ。

『うちにも0歳児がいますが、ずっと泣いてばかりいます。小塚さんとこはいつも笑っているなと思っていましたが、なんだかほっこりしました。』

ハッとした。羨望とまではいかずとも、私もそう思われるような内容の投稿をしていたのだ。単純に可愛いし面白いから笑っている写真ばかりを選んでいたのだが、SNSの中ではそれが、さも『日常』であるかのように映ってしまう。確かに娘は比較的にこやかではあるが、もちろん泣くこともあるし怒ることもある。ただ、それをわざわざ載せることもないかな?と思っていた。

しかし、心のどこかでは「うちの子、こんなによく笑うんですよ」と誇らしい、自慢めいた気持ちがあったのかもしれない。それを指摘するような内容ではなく、素直に思ったことを送ってくれたメッセージに、恥ずかしさとありがたさで泣きそうになった。見栄を張っていた自分に気が付き、同時にSNSに踊らされていたんだなとも思った。

眩しいほどに青かった隣の芝生も、よく見れば少々ハゲているかもしれないし、ある部分は枯れていたりもするのだろう。ただSNSでは、それをいくらでも青く加工できてしまうということを覚えておかなければならない。人々が今まさに呼吸をして生きている時間の流れを、全て『なう』で表現することなどできないのだ。

『なう』はあくまでも『なう』だ。その前にもその先にも、それぞれの人生がある。そんなことを想像しながらSNSを開けば、違った楽しみも見つけられるかもしれない。まぁどうしたって、お寿司やビールは美味しそうなんだけど。

いろんな選択と可能性を与えてくれる本

著者
甘糟 りり子
出版日
2019-07-12

妊娠、出産をめぐる女性の選択、人生を描いた短編集です。タイトルからすると何だか重そうな内容で、どうしても人と比べがちなテーマですが、とても清々しく柔らかい気持ちで人生を考えられます。「産む」と表現すると女性にとっての選択肢のようではありますが、ぜひ男性にも読んで頂きたいです。

著者
彩瀬 まる
出版日
2019-08-28

こちらは生と死を考えさせられる短編集。火葬したはずの妻と暮らす物語や、夜になると自らを「おば」だと言う見知らぬ女が現れて食事を作ったり、世話をしてくれる話は、いずれも実生活の裏にある人の内側を見せてくれます。ファンタジーのようであるけれど、本当はどこかに潜んでいるのかもしれない出来事は、『なう』の裏側にいくらでもあるのでしょう。

この記事が含まれる特集

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena
もっと見る もっと見る