日本がヨーロッパ列強の植民地にならずに済んだ理由のひとつに、キリスト教が布教しなかったことが挙げられます。この記事では、豊臣秀吉がキリスト教への対策として発令した「バテレン追放令」について、目的、内容、江戸幕府の「禁教令」との違いなどをわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
1587年7月24日、現在の福岡県にあたる筑前国箱崎で、豊臣秀吉が発令した「バテレン追放令」。キリスト教の宣教と、南蛮貿易に関する禁制をまとめた文書です。
バテレンは漢字では「伴天連」と書き、ポルトガル語「神父」を意味する「パードレ」に由来しています。当時はカトリックの宣教師たちを指していました。
バテレン追放令を起草したのは、豊臣秀吉の主治医だった施薬院全宗(やくいんぜんそう)。「言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」といわれるほど、秀吉から信頼されていた側近です。
バテレン追放令の原本は、旧平戸藩主である松浦家の史料を収蔵した「松浦史料博物館」に所蔵されている、『松浦家文書』内の5ヶ条。しかし1933年に伊勢神宮の神宮文庫から発見された『御朱印師職古格』内にある11ヶ条の文書を含める場合もあります。2つの文書には、条文の数だけでなく内容にも相違点があり、現在もさまざまな議論がされている状態です。
天下人となった豊臣秀吉は、主君だった織田信長の多くの政策を継承します。それはキリスト教に対する寛容な態度も同様でした。1586年には大阪城でイエズス会宣教師のガスパール・コエリョを引見し、布教の許可証を与えています。
ポルトガル出身のコエリョは豊臣秀吉より7歳年上。1581年に日本がイエズス会の準管区に昇格するのに合わせて、初代準管区長に任命され、日本における布教の最高責任者となった人物です。
イエズス会は、1534年に結成されたばかりの修道会で世界各地でポルトガルやスペインによる武力征服に先立つ尖兵として積極的に宣教活動をおこなっていました。ちなみに7人の創始者のなかには、日本にキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエルも含まれています。総長のロヨラは「自分にとって黒に見えても、カトリック教会が白であると宣言するならそれを信じよう」と語り、イエズス会員は「教皇の精鋭部隊」と呼ばれていました。
当時、九州でキリスト教が拡大しつつあるという報告を受けていた豊臣秀吉。島津氏を討伐するために九州に赴き、その事実を目の当たりにします。
たとえばキリシタン大名の大村純忠が自分の領地だった長崎をイエズス会に寄進していて、これはイエズス会、ポルトガル、スペインによる日本征服の第一歩ともいえる出来事でした。さらにキリシタンたちは寺社仏閣を破壊するなどの宗教弾圧をし、領民に改宗を強制するばかりか、人々を奴隷として海外に輸出していたのです。
奴隷の売買はイエズス会やポルトガル王から禁止されていましが、日本で横行する現状に対して有効な手は打てず、事実上黙認されている状態。そもそも禁止されていることを秀吉が知っていたかどうかはわからないので、彼がイエズス会やポルトガル、スペインの公認でおこなっていると判断したとしても不思議ではありません。
結果、豊臣秀吉はコエリョを呼び、詰問します。するとコエリョは、自分ならばいつでもスペイン艦隊を動かすことができると、秀吉を恫喝。自分が建造させた軍艦を見せるなどの挑発行為をしてきました。このような状況は、ポルトガルやスペインが武力で日本征服に乗り出してきた際に、九州各地でキリシタンが蜂起して呼応する悪夢を想起させるのに十分なことでした。
そうして秀吉は、バテレン追放令を発令したのです。最大の目的は、ポルトガルやスペインによる征服に繋がりかねないキリシタンの拡大を防ぐこと。その一方で、経済的な利益の大きい南蛮貿易については継続させるとし、宗教と貿易の問題を切り離して考えていました。
巡察使として来日していたヴァリニャーノは、コエリョの軽率な行動が原因だと厳しく批判。秀吉を警戒させてしまったため、日本をキリスト教化し、ゆくゆくは植民地にしようとするイエズス会の目論見が頓挫してしまいます。
コエリョは逆転を狙って、大友宗麟や有馬晴信などのキリシタン大名たちに秀吉と戦うよう求めましたが、断られました。またスペイン統治下のフィリピンに援軍を求めますが、こちらも実現することなく、コエリョは1590年に没しています。
「追放令」という言葉から、キリスト教自体が禁止されたと誤解されがちですが、実際に禁止されたのは「キリシタンになるのを強制すること」や「神社仏閣の破壊などの宗教弾圧」であり、領民が自発的にキリスト教を信仰することは仏教と同様に自由とされていました。
また大名については、200町、3000貫という目安を設け、これ以上の領地を持つ者がキリスト教徒になるには、秀吉の許可が必要だと定められます。
キリスト教の宣教師たちには、20日以内の国外退去が命じられました。
しかしこのバテレン追放令は失敗に終わります。秀吉は宗教と貿易を切り離し、外国人商人の来航は自由としていましたが、ポルトガルやスペインでは、宗教と貿易は不可分のものと考えられており、「宣教師=商人」だったからです。
そのため宣教師たちは、自分が商人でもあることを理由に国外退去に抵抗し、貿易の利権を欲する領主たちもこれを黙認せざるを得ないという状況になってしまいました。
また強制的にキリスト教に入信させることを禁止してはいたものの、個人の信仰が自由となっている以上、宣教師たちにとって布教活動を継続することはさほど難しくはなかったのです。
信仰の自由を保障する寛容な「バテレン追放令」を発した豊臣秀吉。しかし1596年に起こった「サン=フェリペ号事件」をきっかけに、キリスト教に対する態度を硬化させ、「日本二十六聖人殉教」を起こします。
その後も信仰の自由は引き続き保証され、1603年に江戸幕府を開いた徳川家康も、政権初期においては秀吉の政策を引き継ぎ、キリスト教に対する弾圧はおこなわれませんでした。
しかし、イエズス会のみならず、ドミニコ会やフランシスコ会、アウグスティノ会なども活動を活発化させ、幕府の支配を拒否する姿勢を見せるようになると、幕府も対応を厳しくしていきます。
神道や仏教、あるいはカトリックであるスペインやポルトガルと対立するプロテスタントのイギリス、オランダといった新興国家による策動、キリシタン大名による収賄事件などさまざまなことをきっかけに、1612年に「禁教令」が出されました。これは江戸・京都・駿府をはじめとする幕府直轄地を対象に、教会の破壊と布教の禁止を命じるものです。
1614年には対象が全国に拡大し、「伴天連追放之文」が公布。長崎や京都にあった教会は破壊され、宣教師や、高山右近など著名なキリスト教徒が、マカオやマニラに国外追放されました。
しかし信徒を処刑することはしなかったため、潜伏して追放を逃れる者や、日本に密入国を図る宣教師も相次ぎます。
徳川家康の三男で2代目将軍の徳川秀忠は、1619年にあらためて禁教令を出し、キリシタン52人を市中引き回しの処刑に。1620年には日本への密航を計画していた宣教師2人が発見され、これをきっかけにキリスト教徒の大量捕縛が始まり、1622年には長崎で55人、1623年には江戸で55人、1624年には東北で108人、平戸で38人が公開処刑されます。
秀吉が抱いたキリスト教徒の拡大が脅威になりうるという認識は、家康や秀忠、家光ら歴代の将軍にも共有され、そしてついに1637年の「島原の乱」で現実のものとなってしまうのです。以降、江戸幕府は、ポルトガルやスペインなどカトリック国との関係を断つ鎖国政策、および国内のキリスト教徒を弾圧する政策を徹底して遂行していくことになりました。
豊臣秀吉の「バテレン追放令」と江戸幕府の「禁教令」は混同されがちですが、基本的に信仰の自由を認めていた前者に対し、後者では徹底的な弾圧がおこなわれていて、両者の間には大きな差異があります。
- 著者
- 渡辺 京二
- 出版日
- 2017-11-30
ヨーロッパに日本が「発見」され、バテレンたちによるキリスト教の布教と、それに対する信長、秀吉、家康ら権力者たちの対応が解説されている作品です。
戦国時代という乱世に苦しみを味わった人々が、神道や仏教など既存の宗教ではなくキリスト教に入信したのは、藁にも縋る思いだったのでしょう。そんな彼らを権力者たちも寛容に見守っていましたが、やがて宣教師たちの思惑を知り、バテレン追放令や禁教令を発して弾圧せざるをえなくなったのです。
本書を読むと、弾圧された者だけでなく、弾圧せざるを得なかった側の人々にとっても苦しみがあったことがわかるでしょう。歴史の重みを体感できる一冊です。
- 著者
- 三浦 小太郎
- 出版日
- 2019-02-19
なぜ豊臣秀吉や江戸幕府がキリスト教を禁じ、バテレン追放令や禁教令を出したのか、その理由と経緯をわかりやすくまとめた作品です。
日本にやって来た宣教師たちが何を目的に布教をしていたのか、政府はそれにどう対応していたのか、具体的に知ることができるでしょう。
歴史の授業では主に結果や出来事しか学ぶことができませんが、背景を知ることでより一層理解が深まるはず。バテレン追放令について知りたい方や、当時の日本と海外の関わり方について知りたい方におすすめの一冊です。