「大化の改新」から明治時代の「地租改正」まで、土地制度の基盤として存続した「公地公民制」。一体どのような制度だったのでしょうか。この記事では、発令された背景やメリットとデメリット、崩壊までの過程などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
645年に起きた「乙巳の変」の後、中大兄皇子の手引きで皇極天皇に代わって即位した孝徳天皇。翌646年の正月に、新たな施政方針として「改新の詔(みことのり)」を示しました。「公地公民制」はこのなかで定められた、土地と税にまつわる制度です。
近年の研究では、「改新の詔」自体は後世に作られたものである可能性が高いといわれていますが、いずれにせよ飛鳥時代から奈良時代にかけて、国家の基盤を整備する大規模な改革がされたことは間違いないようです。
「公」は天皇を表す言葉で、「公地公民制」はすなわち、土地も人も天皇に帰属する、という意味。その目的は、全国各地で豪族たちが広い土地を有し、権力をもっている状況から脱し、天皇を中心とする中央集権国家を構築することにありました。
そのため政府は、土地や人民を把握して、税収を確実に確保する仕組みを作る必要があったのです。「公地公民制」は後の律令国家の根幹となり、明治新政府による「地租改正」までおよそ1200年にわたって存続することになります。
「公地公民制」によって、人々は6年ごとに作成される戸籍に登録され、政府からは「口分田(くぶんでん)」と呼ばれる田が支給されました。しかしこの田はあくまでも政府から個人に支給されるものなので、当人が亡くなった場合は政府に返却します。また課税対象になっているので、収穫物のなかから「租」と呼ばれる税が徴収される仕組みでした。
ちなみにこの仕組みは、当時中国でおこなわれていた「均田制」を模範したといわれています。
かつて日本人は、移動をくり返して狩猟や採集をしながら生活をしていました。弥生時代になって稲作が伝来すると、移動をせずに定住をするようになります。
すると、土地の境界線、稲作のための水資源、農機具や武器を作るための鉄資源をめぐり、争いが頻繁に起こるようになりました。力の強い者、資源に恵まれた者は、周辺の集落を支配下に組み入れ、やがて「クニ」を形成します。
古墳時代に入る頃には各地に「豪族」と呼ばれる群雄が割拠し、中国の歴史書である『魏志倭人伝』に「倭国大乱」と記されるように、争いが頻発していました。
またこの頃、現在の奈良県を中心とする地域に「ヤマト王権」もしくは「ヤマト朝廷」と呼ばれる勢力が現れ、周辺諸国を従えるようになります。彼らは軍事力で周囲を制圧したのではなく、複数の有力な豪族たちによって構成される連合政権でした。ヤマト王権の大王が、現在の天皇家の祖だといわれています。
ヤマト王権のもとで、全国各地の土地と人民は、天皇家や豪族に私有されていきました。天皇といえども各豪族が所有するものに口出しをすることはできません。時には天皇家を上回る勢力をもつ豪族も現れるようになります。なかでも特に強大な権力を握ったのが、蘇我氏です。稲目、馬子、蝦夷、入鹿と4代にわたって国政を担い、その勢威は天皇家を大きくしのいでいました。
中大兄皇子は、父の舒明天皇、母の皇極天皇が蘇我氏のなかば傀儡と化しているのを見ながら成長し、やがて蘇我氏を打倒して天皇中心の国家を作りあげることを目指すようになります。
そして645年、中臣鎌足らの協力を得て、「乙巳の変」で蘇我入鹿とその父の蝦夷を殺害。蘇我の本宗家を滅ぼし、「大化の改新」を推進するのです。自らは皇太子となり、皇極天皇の弟を孝徳天皇として即位させ、「公地公民制」などの改革をおこないました。
全国の土地と人民を把握し、毎年安定した税収を得られることが、「公地公民制」の最大のメリットだといえるでしょう。豪族たちの力の根源を天皇のもとに集約することで、中央集権国家へと日本の姿を変えることができました。
中大兄皇子がこれらの改革をはじめ「大化の改新」を推進した背景には、当時の東アジアめぐる国際関係があります。
朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国が対立している状況。日本は友好国である百済を通じて朝鮮半島に影響力を保持していました。
中国大陸では短命に終わった隋王朝に代わって唐王朝が起こり、644年に朝鮮半島に遠征軍を送っています。隋の時代にも何度も遠征を受けた高句麗は、多大な犠牲を払い、辛くも勝利を得ましたが、今後も遠征がくり返されればいつまで持ちこたえられるかはわかりません。
一方の新羅は、唐の冊封国となる道を選びます。さらに百済に対する攻撃も計画していました。
これらの東アジアの情勢は、日本にも伝わります。もしも唐が朝鮮半島を征服すれば、次の標的が日本となる可能性は高く、和平を結ぶにしろ戦うにしろ、豪族が各自分散して勢力を維持している状態では立ち行きません。中央集権国家を構築し、日本全体で一致団結して唐と対峙する必要がありました。
663年、日本は唐に滅ぼされた百済を助けるという形で、唐・新羅連合軍と「白村江の戦い」で戦うことになります。この時はまだ改革なかばで、大敗を喫しました。その後中大兄皇子は、対決路線から友好路線に切り替え、遣唐使などを通じて唐の文化や政治制度を学び、日本の改革を進め、後の律令国家の基盤を構築していくのです。
このことからも、「白村江の戦い」には敗れたものの、「公地公民制」は時の為政者から見ると大きなメリットだったといえるでしょう。
人民にとっても、一定の田を国から与えられるため生活が安定するというメリットがあります。生活が安定すれば子どもを産むことができ、飛鳥時代から奈良時代にかけては空前のベビーブームだったそう。日本の人口は大きく増加しました。
しかし、人口が増えたことで口分田が足りなくなる、食糧不足になるという新たな問題が生じます。これらを解決するには、新たに田を開墾するしかありません。ただ「公地公民制」ではすべての土地が天皇に帰属するという大原則があるので、田を開墾しても自分のものになるわけではないのです。得るものがないのであれば、労働意欲が高まるはずはなく、不満を抱く人が出てきます。
すると、戸籍を偽造して逃げ出し、浮浪人となる人が続出。奈良時代中期に大きな問題となりました。そしてこれが、「公地公民制」の崩壊を招くことになるのです。
722年、政府から「良田百万町歩開墾計画」が発表されたことが、「公地公民制」崩壊の第1歩だといわれています。簡単にいうと、新しく100万町歩(ちょうぶ)を開墾し、口分田の不足と食料不足を一気に解決してしまおうというものです。
ただ100万町歩という数字は現実的なものではなく、人々の労働意欲を駆り立てる必要があります。そのため、723年に長屋王が発布したのが「三世一身法」です。
これは新たに田を開墾した場合、本人だけでなく子、孫と3世代にわたって私有を認めるというもの。「すべての土地は天皇に帰属する」という原則と「口分田として与える田の確保」という目的を考えると、政府としては限界ぎりぎりの譲歩です。
しかし孫の代には結局取りあげられてしまうことから、政府の思惑に反して人々の労働意欲が高まることはありませんでした。
そんななか、735年から738年にかけて全国で天然痘が大流行。政権を担っていた藤原四兄弟をはじめ政府高官の大半、全国の人口の30%が亡くなるという大惨事が起こります。
病死した藤原四兄弟に代わって政権を握っていた橘諸兄は、天然痘による損害から復興を遂げるため、財源確保を目的とする農業の拡充を図り、743年に「墾田永年私財法」を発布しました。
これは名前のとおり、新しく開墾した土地は永年に私財化できるというもの。「すべての土地は天皇に帰属する」という「公地公民制」の原則を完全に覆しています。
人々の労働意欲は高まりましたが、特に目の色を変えたのが資本力のある中央の貴族や大寺院、地方の豪族たち。各地を大規模に開墾し、これが後に「荘園」となるのです。
- 著者
- 河野 通明
- 出版日
- 2015-05-27
「大化の改新」をめぐる研究は、1950年代頃から「日本書紀の編纂者によって後世に作られたもの」とする考えが主流になりました。
しかし1970年代以降、実在を裏付ける考古学的な発見が相次ぎ、現在では、政治的な改革があったことは認めるという考えが一般的です。
本書は、作者のライフワークでもある条里田と農具の研究によって、「大化の改新」と「公地公民制」の存在を立証しようというもの。中大兄皇子が中国の均田制に着想を得て、「乙巳の変」の直後から新型農具を配布し、土木技師の養成し、道路や用水路の整備をして「公地公民制」を実現していったさまがありありと描かれています。
まさに日本という国家の礎が構築されていくさまを体感できるでしょう。
- 著者
- 吉村 武彦
- 出版日
- 2018-10-20
本書は、現在主流になっている、「大化の改新」は日本書紀の編纂者による脚色はあったものの元となる改革があったという考えにもとづき、その実態に迫ろうとする作品。同じようなテーマの本が多いなかで他と一線を画すのは、「文明開化」について触れている点でしょう。
「大化の改新」における「公地公民制」や、戸籍などの制度そのものはもちろんですが、それによって人々の生活がどのように変化したのかが記されています。
それまでの習俗や生活習慣が「大化の改新」によって大きく変わったのであれば、そのインパクトはおよそ1200年後に起こる「明治維新」に匹敵する改革だった可能性もあるのです。「大化の改新」の意義を考えさせてくれる一冊になっています。