19世紀前半のヨーロッパの国際秩序を「ウィーン体制」といいます。この記事では、正統主義や勢力均衡といったキーワードをヒントに、体制の成立から崩壊までの流れをわかりやすく解説していきます。
「フランス革命」と「ナポレオン戦争」が終結した後のヨーロッパにおける国際秩序を、「ウィーン体制」といいます。1814から1815年にかけて開催された「ウィーン会議」以降の体制であることから、この名で呼ばれるようになりました。
ウィーン体制の目的は、混乱しているヨーロッパの状態を、「フランス革命」が起こる前に戻すこと。そして国家間のバランスを維持し、戦争の勃発を防ぐことです。
これらの目的を達成するために、ウィーン体制のもとでは自由主義運動や国民主義運動などの概念が抑圧されました。また国家間のもめ事を外交的に解決する努力がなされ、30年以上というヨーロッパの歴史上稀にみる長い安定期をもたらすことに成功します。
しかし産業革命が起こって国家間のバランスが崩れたこと、自由主義運動や国民主義運動が拡大し、1821年に「ギリシャ独立戦争」が起こったこと、ヨーロッパ各地で「1848年革命」が起こったことなどからウィーン体制は崩壊。1853年の「クリミア戦争」で終焉を迎えました。
1814年から1815年にかけて、ウィーン体制ができるもととなったウィーン会議が開催されました。「フランス革命」と「ナポレオン戦争」が終結した後の領土分割と、ヨーロッパの秩序を再建することが目的です。
オーストリアの外相クレメンス・フォン・メッテルニヒが議長となり、オーストリア、ロシア、プロイセン、イギリス、フランス、ローマ教皇領などヨーロッパ諸国の代表が集まります。しかし各国の利害が衝突して、会議はなかなか進展しません。時間ばかりが過ぎていき、「会議は踊る、されど進まず」と揶揄されるほどでした。
しかし1815年3月、エルバ島に追放されていたナポレオンがパリに戻って復位を宣言すると、危機感を抱いた各国は妥協をし、1815年6月9日に「ウィーン議定書」が締結されました。
ウィーン会議の主な内容として、「正統主義」と「勢力均衡」が挙げられます。
正統主義は、フランスの首相シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴールが主張した、ヨーロッパの秩序を「フランス革命」以前に戻すというもの。敗戦国であるフランスにとって、革命で否定した「絶対王政」を「正統」と呼ぶことは屈辱的ではありましたが、タレーランの狙いはフランス本土が戦勝国によって分割支配されるのを防ぐことでした。各国の領土は正統な君主のものである、と主張したのです。
結果的に正統主義は受け入れられ、フランスは革命時に処刑されたルイ16世の弟である、ルイ18世のもとで復古王政を成立させ、本土の解体を免れます。
勢力均衡は、大国同士の結びつきを強めることで戦争を未然に防止しようとする考え方です。ロシア、オーストリア、プロイセン間で結ばれた「神聖同盟」や、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシア間で結ばれた「四国同盟」などが代表的でしょう。
「神聖同盟」はキリスト教的な正義や隣人愛の精神にもとづく盟約に過ぎず、具体的な取り決めがされたわけではありませんが、「四国同盟」は「フランス革命」再発防止のために連携し、秩序の安定を図るために武力行使も選択肢に入れる軍事同盟でした。後にフランスも加盟して、「五国同盟」となっています。
先述した「五国同盟」が勢力均衡を保ったことで、ヨーロッパは安定期を迎えます。しかしその裏では、旧来の秩序を維持しようとする考え方のもと、自由主義運動や国民主義運動が抑圧されていました。
これに対し、活動家たちは黙っていません。
1817年にはドイツで「ブルシェンシャフト」と呼ばれる学生組織が蜂起し、1820年にはイタリアの「カルボナリ」が蜂起。同年にスペインで「立憲革命」が、1825年にはロシアで「デカブリストの乱」が起こります。さらに1830年にはフランスで「七月革命」が起きて復古王政が倒され、七月王政が成立。これをきっかけに、ベルギー、ポーランド、ドイツ、イタリアなどでも相次いで反乱が起きました。
しかしこれらはすべて、オーストリアやフランス、そして「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたロシアの軍に鎮圧されます。
ヨーロッパに安定をもたらしたとされるウィーン体制ですが、その実態は大国同士による大規模な戦争こそなかったものの、争いがなく平和だったとはいえないものでした。また自由主義運動や国民主義運動の火は、いくら鎮圧しようとも消すことはできず、ウィーン体制は崩壊に向かっていくのです。
自由主義運動や国民主義運動の拡大は、結果的に大国間の足並みを乱れさせることになります。特に産業革命の発展によって資本主義経済が成長し、台頭してきた市民階層の手によって自由主義的な改革がおこなわれていたイギリスは、自由主義運動を抑圧するウィーン体制に距離を置き、「栄光ある孤立」と呼ばれる独自の外交路線を歩んでいました。
また「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたロシアも、建国以来の悲願である不凍港の獲得を目指す「南下政策」を推進。その過程で他国と対立していきます。
ウィーン体制崩壊の大きなきっかけとなったのが、1821年に始まった「ギリシャ独立戦争」です。1453年以来オスマン帝国の支配下にあったギリシャでは、「フランス革命」に触発される形で自由主義運動が盛り上がり、独立を求める戦いが起こりました。
これに対し、オーストリアの外相メッテルニヒは自由主義運動の拡大を恐れて独立に反対。ロシア、オーストリア、プロイセンの間で結ばれた「神聖同盟」としても反対を表明します。
しかしロシアのニコライ1世は、自国が進める「南下政策」にもとづいてギリシャを支援しました。これにイギリスとフランスも加担します。1827年にはイギリス・フランス・ロシア三国の連合艦隊と、オスマン帝国・エジプトの連合艦隊が「ナヴァリノの海戦」で衝突。オスマン帝国・エジプト連合艦隊が全滅しました。
これによって、オスマン帝国はギリシャの独立を認めることに。またロシアも黒海北岸にまで勢力を伸ばし、以降はバルカン半島をめぐってウィーン体制の結束に揺らぎが生じることになるのです。
またウィーン体制の崩壊にとどめを刺したのは、1848年にフランスで起こった「二月革命」です。イタリア、オーストリア、ドイツなどヨーロッパの他国にも波及し、「諸国民の春」と総称される革命の連鎖を招きます。
フランスでは第二共和政が成立。またオーストリア支配下の各民族でも自立を求める動きが起きるなど、自由主義運動や国民主義運動を抑え込むことができなくなりました。結果として、それぞれの国が協調よりも自国の問題を解決することを優先せざるをえなくなるのです。
1853年から1856年までは、バルカン半島をめぐってロシアとオスマン帝国が対立する「クリミア戦争」が起こります。イギリスとフランスはオスマン帝国側で参戦。双方合わせて75万人以上の死傷者を出す大戦争となり、ウィーン体制は完全に崩壊しました。
- 著者
- 細谷 雄一
- 出版日
- 2012-11-22
本書の作者は、国際政治史やイギリス外交史を専門とする細谷雄一。「均衡」「協調」「共同体」の3つをキーワードとして、18世紀初頭の「スペイン王位継承戦争」から、ウィーン体制やビスマルク体制など国際秩序の形成と崩壊、2度の世界大戦、東西冷戦、そして現代の国際政治を紐解いていきます。
「正統主義」と「勢力均衡」を掲げ、ヨーロッパに安定をもたらしたとされるウィーン体制ですが、その実情は自由主義運動や国民主義運動を抑圧することで成り立っていたもの。また東西冷戦時の安定も、その背景には核兵器の恐怖があります。
平和とは、ただ平和主義を唱えているだけで手に入れられるものではなく、「均衡」「協調」「共同体」の微妙なバランスを維持するために、それなりの代償をともなうものだという厳しい現実を思い知らされるでしょう。
現在の国際情勢の背景で複雑に入り組んでいる課題を読み解き、今後の日本の進む道を考えるうえで、読んでおきたい一冊です。
- 著者
- 塚本 哲也
- 出版日
- 2009-11-12
大国オーストリアの外相としてウィーン会議で議長を務め、「勢力均衡」の原則にもとづいてウィーン体制を主導したメッテルニヒ。ナポレオンが「太陽」に例えられる一方で「月」に例えられるなど、ナポレオンの好敵手としても知られています。
また金髪、長身の美男子で、数多くの女性と浮名を流した伊達男でもありました。そのなかには、ナポレオンの妹も含まれていたそうです。
本書は、そんなメッテルニヒの華麗な前半生から、革命によって追放され、流浪のすえ死を迎える晩年までを扱った伝記になっています。ナポレオンやタレーランなど歴史の教科書でもお馴染みの人物も数多く登場し、彼らと紡ぐ物語も楽しめるでしょう。