問題提起から調停成立まで長期間を要したため「100年公害」ともいわれる「足尾銅山鉱毒事件」。日本初の公害事件としても知られています。この記事では、事件が起こってしまった背景、被害、政府の対策、田中正造の活動などをわかりやすく解説。おすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
1800年代後半の明治時代、現在の栃木県と群馬県を流れる渡良瀬川周辺で公害事件が起こりました。これを「足尾銅山鉱毒事件」といいます。
日本で初めての公害事件として注目され、1890年代に栃木県出身の衆議院議員、田中正造によって問題提起されました。
鉱毒の被害を受けた農民たちは、陳情のためにたびたび東京にやって来て、その人数は時に1万人を超えたそう。警官隊と衝突して60人以上が逮捕された「川俣事件」も起きています。田中正造も、何度も国会質問をし演説などもおこないましたが、政府が実効性のある対策をすることはなく、1901年に議員を辞職しています。
彼の名を日本中に知らしめることになったのが、同年12月に日比谷で起こした「直訴事件」です。帝国議会開院式を終えて帰途に着く明治天皇の馬車の前に飛び出し、直訴状を持って「お願いがござりまする」と叫んだそう。直訴状には、「足尾銅山鉱毒事件」で苦しむ人々の窮状が書かれていました。
警察に取り押さえられて失敗に終わりましたが、天皇に直訴をするという前代未聞の出来事から大きく注目され、「足尾銅山鉱毒事件」の存在も広く知られることとなったのです。
しかし事件が解決に向けて動きだしたのは、総理府に中央公害審査委員会が発足した1972年から。農民運動家の板橋明治が、被害を受けた農民を結集して、足尾銅山を開発した古河鉱業株式会社を提訴しました。約2年間の調停のすえ、「足尾銅山鉱毒事件」の加害者が古河鉱業株式会社であると認定され、補償金の支払いが命じられました。
足尾銅山自体は1973年に閉山となっていますが、2011年の東日本大震災が起きた際には、渡良瀬川下流域から基準値を超える鉛が検出されるなど、いまでも事件の影響は続いています。
舞台となった足尾銅山は、戦国時代の1550年に発見され、江戸時代初期の1610年から幕府直轄の鉱山として採掘が始まりました。掘り出された銅は、日光東照宮や増上寺などに使われたそう。ピーク時には年間1200トンもの銅が採れ、町も繁栄します。
しかし、江戸時代の末期になると採掘量が減少。1871年に民営化された時の採掘量は、わずか150トンほどだったそうです。
1877年、実業家の古河市兵衛が経営に携わります。1881年以降は、探鉱技術が進んだため相次いで有力な鉱脈が発見され、政府がすすめる富国強兵策の後押しもあり、1900年代初頭には日本の銅産出量の40%を担うまでに成長しました。
鉱山の開発がすすむとともに製錬事業も発展、足尾銅山の樹木は次々と伐採されました。製錬工場から出る排水には金属イオンが含まれていて、足尾の山地を水源とする渡良瀬川に流れ込みます。
また製錬工場から排出される二酸化硫黄などを含む排煙は、酸性雨などの大気汚染を引き起こしました。近隣の山も含めて禿げ山になったことから、地盤が緩くなり、渡良瀬川下流域に土砂が堆積。洪水が起こりやすくなりました。
洪水が頻発すると広範囲に有害物質を含む水が広がり、土壌が汚染されて大きな被害を招くことになったのです。
1878年、渡良瀬川の鮎が大量に死ぬ事件が起こりました。しかし当時は理由がわからず、最初に報じた朝野新聞も足尾銅山が原因だと断定はしていません。
1885年になると、栃木県の下野新聞が、昨年から足尾の木が枯れはじめていることを報道しています。渡良瀬川から取水していた田園や、洪水によって汚染した土砂水が広がったことで、稲が枯れる被害も続出。洪水の頻度も増していき、1896年には3度も起こりました。これらの被害は、渡良瀬川流域だけに留まらず、江戸川流域、利根川流域にも拡大していきます。
被害を受けた農民たちは、帝国大学の助教授で農芸化学者の古在由直に調査を依頼。学術調査の結果、銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸が原因であることが立証されました。
身体への影響については、関連性は不明なままですが、激甚地だった字船津川地区の死産率が全国平均を上回っていること、界村字高山の兵役合格者が50名中わずか2名だったこと、海老瀬村の診療所の患者約2300名のうち半数以上が眼病を患っていたことなどがわかっています。ただこれらが足尾銅山鉱毒事件によるものかは、明らかになっていません。
1891年以降、田中正造が帝国議会でたびたび質問をしましたが、政府は積極的な公害対策をおこなおうとはしませんでした。それどころか、足尾銅山鉱毒事件で被害を受けた農民たちが状況をまとめた本を出版すると、発禁処分にするなど言論を統制する動きをみせます。
当時、農商務大臣を務めていたのは、「カミソリ大臣」の異名をもつ陸奥宗光。彼の次男は足尾銅山を経営する古河市兵衛の養子になっていて、身内への忖度を疑われ、反発を招くことになります。
1896年、田中正造は群馬県邑楽郡渡瀬村の雲龍寺に鉱毒対策事務所を設置し、被害の調査を始めました。また農民たちは直接農商務大臣に請願をしようと、東京に向かいます。現代でいうデモのようなものですが、当時は「押出し」と呼び、米などの食料を持参して徒歩で数日をかけて行進したそうです。
1894年から農商務大臣に就任していた榎本武揚は、農民たちからの請願を受けて「足尾銅山鉱毒調査委員会」を設置し「鉱毒予防令」を発布しました。
1897年5月に出された「予防令」では、足尾銅山を経営していた古河側に、排水の濾過池、沈殿池の設置、堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置を命令。数十日の期限付きで、ひとつでも遅れた場合には閉山を命じるという厳しいものでした。足尾銅山では24時間体制で工事がおこなわれ、期限内にすべての設置を完了させます。
しかし濾過池や沈殿池は翌年には決壊し、煙突の脱硫装置も当時の技術レベルが未熟だったことからほぼ機能せず、政府による対策は、実際には効果を発揮しませんでした。
これを不服とした農民たちは、「押出し」をくり返します。1901年に田中正造が「天皇直訴事件」を起こすと、世論からの圧力を受けた政府は「第二次鉱毒調査委員会」を設置。1897年の予防令によって鉱毒は減少したとしつつ、洪水を防ぐために渡良瀬川下流域に大規模な遊水池を作るべきという報告書を出しました。
これを受けて栃木県、群馬県、埼玉県、茨城県の境に鉱毒沈殿用の遊水池の建設が計画されます。しかし建設予定地には田中正造が住み、公害運動の拠点となっていた谷中村があったことから、公害運動を潰そうとしていると考えられ、猛反発を招きました。谷中村議会は遊水池の建設に反対を続けましたが、強制的に廃村になるのです。
遊水池の建設工事は1910年から17年間にわたっておこなわれ、洪水は減少。しかし足尾の山から土砂の流出は止まらず、対策は不十分なままでした。
1947年、台風で関東地方や東北地方が甚大な被害を受けると、政府は約20年がかりで渡良瀬川全域に堤防を築き、それ以降洪水は発生していません。1960年には足尾町に日本最大級の砂防ダムである「足尾ダム」が作られました。
また1976年、群馬県・栃木県・桐生市・太田市と足尾銅山を運営する古河鉱業の間で「公害防止協定」が締結。被害を受けた土地の改良が進められることになります。
1977年には渡良瀬川上流に「草木ダム」が建設され、鉱毒を流さないための装置を設置。常時水質検査をして、随時発表するなどの対策がおこなわれています。さらに、荒廃した森林を復元するための治山事業も、断続的にされてきました。
それでも、大雨が降った後などは環境基準を上回る数値が観測されることがあり、足尾銅山鉱毒事件が完全に終息したとはいえないのが現状です。
- 著者
- 城山 三郎
- 出版日
- 1979-05-30
足尾銅山鉱毒事件に生涯を捧げた田中正造の人生を描いた作品。2部構成になっていて、第1部は田中の戦いを中心とする「辛酸」、第2部は彼の遺志を引き継いだ農民たちによる最後の抵抗、萱刈騒動までを扱った「騒動」となっています。
鉱毒事件の被害を訴え続け、議会では「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」と呼ばれる名演説もした田中正造。しかし富国強兵策を進める政府と、政府と太い結びつきをもつ古河財閥を前に、彼の訴えは聞き入れられません。遊水地が建設される際も、田中正造は最後まで抵抗を続けます。
足尾銅山鉱毒事件という事実だけでなく、その背景には田中の抵抗と農民たちの苦しみがあったことを忘れてはいけないでしょう。
- 著者
- 小山 矩子
- 出版日
- 2012-12-01
作者の小山矩子は、1973年に足尾銅山が閉山されてから田中正造の没後100年を迎える2012年までの間、何度も足尾銅山に足を運んだそう。本作は、実際の取材をまとめたルポルタージュになっています。
戦国時代に発見され、江戸時代に隆盛を極め、明治時代から大正時代にかけて日本の近代化を支えた足尾銅山。その役割の大きさからして、石見銀山や富岡製糸場のように世界遺産に指定されてもおかしくない価値をもっています。しかし日本初の公害事件を引き起こした場所として、負のイメージで語られることも多いのが現状です。
足尾銅山の操業に従事し日本の近代化に貢献した人々、その結果引き起こされた足尾銅山鉱毒事件に苦しんだ人々、傷ついた人々を救おうと奔走した田中正造……彼らがいたことを忘れないためにも、読んでおきたい一冊です。