5分でわかる上海事変!第一次と第二次のきっかけや結果をわかりやすく解説!

更新:2021.11.20

1930年代、第一次と第二次の2度にわたって日本と中国が武力衝突し、日中戦争へと繋がる一因となった「上海事変」。この記事では、武力衝突したきっかけや経緯、結果をわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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第一次上海事変が起こった背景ときっかけ

 

1932年1月28日から3月3日にかけて、中国軍と日本軍が武力衝突した事件を「第一次上海事変」といいます。中国では起こった日付けにもとづき「一・二八事変」と呼んでいます。

場所は、上海共同租界。これは「アヘン戦争」の講和条約として、当時の清とイギリスの間で締結された南京条約にもとづき設置された外国人居留地で、日本をはじめ、アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、ドイツなどが管理していました。

1931年に「満州事変」が起きた中国では、反日の機運が高まっていて、上海では「上海抗日救国連合会」が結成されます。政府に対し、日本軍と戦うことを要請しました。さらに、日本との経済関係を絶つことを決め、違反者は撲殺すると定めたのです。これを受けて日系資本の工場では退職者が続出し、日本人に対する投石事件も発生します。

これら一連の運動は「排日貨運動」と呼ばれ、中国人は日本人と挨拶をしただけでも「漢奸」として告発されたそう。財産を没収されたうえ、漢奸服を着用し、罪名を書いた布を身に付けて市中を引き回されたのだとか。

日本政府は中国政府に抗議をしますが、状況は好転しません。1932年1月8日に、朝鮮人が天皇陛下を暗殺しようとする「桜田門事件」が起こると、中国の国民党機関紙「民国日報」が「不幸にして僅かに副車を炸く」と報道。日本人居留民の間にも、反中感情が高まっていきました。

1月18日、僧侶の天崎啓昇と水上秀雄、信徒の後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村国吉の5人が、多数の中国人に襲撃される事件が発生。水上が死亡、天崎と後藤が負傷します。

当時、上海総領事を務めていた村井倉松は、上海市長に対し「市長による公式謝罪」「襲撃者の逮捕と処罰」「負傷者と死亡した僧侶の家族に対する治療費の保障と賠償」「すべての抗日組織の即時解散」を要求。日本海軍も巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、海軍陸戦隊を緊急派遣し、威圧します。

1月28日、上海市長はすべての要求を受諾しますが、日本人居留民たちの気持ちはおさまらず、また中国人も市長が要求に屈したことに怒って市庁舎を襲撃するなど、上海市内は騒然としていきます。

そして混乱のなか、中国軍が発砲。上海共同租界を警備する日本軍陸戦隊との間に武力衝突が発生し、「第一次上海事変」の勃発となるのです。

しかし1956年、上海で陸軍武官補を務めていた田中隆吉が、「満州国に対する列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすように依頼され、中国人を買収して日本人僧侶を襲撃させた」と証言。これによって「第一次上海事変」が一部の日本軍による陰謀で引き起こされたことが明らかになりました。依頼をしたのは、「満州事変」の引き金となる「柳条湖事件」を引き起こした陸軍軍人、板垣征四郎です。

 

第一次上海事変の経緯と結果。海軍陸戦隊が衝突

 

日本人僧侶の襲撃事件が起きて騒然とするなか、上海共同租界を管理する各国は協議をし、分担して共同租界内を警備することを決めたうえで、1月28日に非常事態宣言を出しました。

日本軍はもともと上海に駐屯していた陸戦隊1000人に加え、新たに1700人を派遣して、担当エリアの警備にあたります。彼らには、敵が攻撃して来ない限り、こちらから攻撃することは禁じられていました。そして同日の午後、中国軍の発砲によって「第一次上海事変」が勃発したのです。

日本の陸戦隊に攻撃をしたのは、蔡廷鍇(さいていかい)が率いる第19路軍。蔡は、軍人ではあったものの必ずしも蒋介石に忠誠を誓うタイプではなく、国民党内の派閥争いでは蒋介石の敵に回ることもあったそうです。「第一次上海事変」の際も、蒋介石ら首脳部から撤退を指示されていましたが、これを拒否して日本軍と戦うことを選びます。

この攻撃を受けて、日本軍は野村吉三郎海軍中将率いる第3艦隊、植田謙吉陸軍中将率いる金沢第9師団と混成第24旅団を派遣。中国軍も張治中率いる第5軍を増やしました。

蔡廷鍇の第19路軍は、兵力は半数以下で装備においても圧倒的に劣勢だったものの、1ヶ月間持ちこたえます。死者4000人以上、負傷者は9000人以上が出たそう。さらに上海では民間人にも被害が広がり、死者死者6000人、負傷者2000人、行方不明者1万4000人という犠牲が発生。日本軍側も死者769人、負傷者2322人の被害が出ました。

第19路軍の頑強な抵抗に対し、日本軍は善通寺第11師団と宇都宮第14師団からなる上海派遣軍を編成。3月1日に、第11師団が第19路軍の背後に上陸し、これによって第19路軍は撤退を余儀なくされます。

3月3日、日本軍が戦闘中止を宣言。5月5日に上海停戦協定が成立し、「第一次上海事変」は終結しました。

欧米列強国は、自国の権益を直接的に脅かす「第一次上海事変」に対し、「満州事変」以上に強硬に反応します。アメリカの金融資本家トーマス・ラモントは「上海事変は全てを変えた。数年かけて築かれた日本への好意は数週間にして消え失せた」と述べたそうです。

 

第二次上海事変が起こった背景ときっかけ

 

「第一次上海事変」のおよそ5年後、1937年8月13日から生じた中国軍と日本軍の武力衝突を「第二次上海事変」といいます。

1937年7月7日に起きた「盧溝橋事件」をきっかけに、日中両国は宣戦布告をしないまま、中国北部で「北支事変」と呼ばれる事実上の戦争状態に突入していました。「第二次上海事変」の勃発をきっかけに、戦いは中国全土に拡大。日中全面戦争である「支那事変」へと突入していくことになります。

当時、中国に駐在していたドイツの軍事顧問団団長、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンは、ベルリン大学で日本を研究し、1910年には名古屋の陸軍歩兵第33連隊に滞在。1912年から1914年までは、東京のドイツ大使館で駐在陸軍武官を務めた経歴をもつ「知日派」です。

日本の規律ある国民性と精強な軍隊に好印象を抱いていたファルケンハウゼンは、蒋介石に対して「中華民国にとって脅威なのは、共産党よりも日本である」と進言し、たびたび対日開戦を提案してきました。

これを受けて蒋介石は、上海を包囲し、日本軍を殲滅するべく、「ヒンデンブルク・ライン」と呼ばれる陣地構築を始めるのです。また兵力で劣っていた「第一次上海事変」の反省から、ドイツ製の火器を装備し、ドイツ軍事顧問団の訓練を受け、精鋭部隊を作りあげていきます。

軍事責任者には、「第一次上海事変」にも参加していた張治中が就任。張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、事態が動けばいつでも先制攻撃を仕掛けられるよう着々と準備を進めていきました。

そして「盧溝橋事件」が発生し、戦線が拡大するなか、上海を包囲する国民党軍約20万人が日本租界へ攻撃を開始し、「第二次上海事変」が勃発したのです。

 

第二次上海事変の経緯と結果。上陸作戦など

 

中国軍による攻撃が開始された時、上海にいた日本軍は陸戦隊の約4000人だけでした。 8月14日には、国民党軍機によって爆撃がおこなわれ、避難所に命中したこともあって3000人以上の民間人が死傷します。しかし中国メディアは「日本軍機による爆撃」だと報道。国際社会の日本に対するイメージが悪化していきました。

中国軍の攻撃を受けて、日本政府は緊急閣議を開き、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成。さらに日本海軍は九州からの渡洋爆撃をして制空権を確保します。上海にいた陸戦隊は、10倍以上の兵力をもつ中国軍相手に多大な損害を出しつつも戦い続け、日本租界を守り抜きました。

8月23日、上海派遣軍を構成する第3師団と第11師団が上海に上陸。陸戦隊を救援しようとしますが、中国軍がドイツ軍の助言を受けて構築した戦線に苦戦。10月26日になってやっと陣地を突破し、上海を制圧することに成功しました。

さらに11月5日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団が上陸。退路を断たれることを懸念した中国軍は一斉に退却します。その際中国軍は「堅壁清野」と呼ばれる焦土作戦を実行して、略奪と破壊を遂行。抵抗する住民を「漢奸」として処刑しました。さらに一部の敗残兵はフランス租界で放火をして、警官隊によって銃撃される事件も起きています。

一連の「第二次上海事変」に関して、ニューヨーク・タイムズなどの海外メディアは「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示した」「中国軍が戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地がない」などと報じました。

その一方で国際連盟では、日本軍の都市空襲を非難する決議や、加盟国による中国への援助拡大を促す決議が採択されます。さらにアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が侵略国を激しく非難する演説をするなど、国際社会において日本はより鮮明に孤立していくことになりました。

「第二次上海事変」以降、日本と中国の軍事衝突は拡大し、戦線は上海から南京をめぐる攻防へと移っていきます。

 

日本と中国の戦いを通史で読む

著者
笠原 十九司
出版日
2017-07-18

 

多くの日本人は、「戦争」と聞くとアメリカやイギリスを相手にした太平洋戦争を思い浮かべるのではないでしょうか。しかし明治維新以降、日本がもっとも長く戦った相手は中国です。「盧溝橋事件」をきっかけに「第二次上海事変」を経て発展した「日中戦争」だけでなく、1894年の「日清戦争」までさかのぼる長い長い戦いです。

本書は、「日中戦争」が開戦して80年という節目に、今一度この戦争について見直そうという思いを込めて、中国近現代史を専門とする作者が10年を費やして完成させた大著になります。

これまで一般的だった、「日中戦争」を主導したのは日本陸軍だったという説を覆し、先頭に立っていたのは海軍だった主張しているのがポイント。対アメリカを念頭に置き、中国を実践訓練の場にしたと述べています。

現代の日中関係の根底をなす「上海事変」や「日中戦争」を、大きな流れで理解することができる作品。上下巻とボリュームはありますが、ぜひお手にとってみてください。

 

中国人兵士が語る上海事変や日中戦争の事実

著者
陳 登元
出版日
2017-06-19

 

本書は、中国軍の兵士だった作者が実際に戦場で見聞きしたエピソードをまとめたものです。1938年に刊行された当時は100万部超えの大ヒットとなったものの、戦後GHQに没収され、廃棄処分とされました。2017年に72年ぶりに復刊しています。

本書で描かれているのは、一兵士の目から見た「上海事変」や「支那事変」、そして「日中戦争」の惨劇です。日本軍が犯したとされる戦争犯罪、中国軍の略奪や暴行……。文体は小説のようで、軍記物として読むことができますが、書いてあるのは紛れもない事実でしょう。

ただの手記にはとどまらない、読んでおきたい一冊です。

 

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