その人その人に読書傾向というものがある。僕は時代小説はからきし駄目だけれども、怪奇幻想小説は相当に好きだ。ひと頃は小説のみならず、実話怪談本、都市伝説の類にまで手を広げ、「新耳袋」を全巻揃えたのはもちろんのこと(第四夜収録の山の牧場は戦慄必至)、「超」怖い話シリーズ、稲川淳二さんのもの、桜金造さんのもの、もう怖そうなものなら手当たり次第に買っていた。
中でも稲川淳二関連には本やビデオだけでは物足りなくなり、怪談ナイトにもしばしば通った。東京はなかなかチケットが取れないので、関東近郊、果ては地方で淳二を堪能してみたく思い、新潟や秋田にまで車を飛ばして、怪談ライブを見に出掛けたものだ。
しかし──ある頃、自身の本棚の怪談コーナーから黒い煙を発しているように思った。その頃は自分もバンドもあまり上手くいっているとはいえず、何も怪談本のせいというわけではないけれども、幽霊、都市伝説中の輩といったものは、いわば現世への怨念、執着、煩悩に凝り固まった存在なわけで、あまりそのようなものとかかずらわっていても碌なことはないと合点した次第。
勿体なくはあったけれど、実録の怪談本、都市伝説本は残らず捨てた。そうしたら、少しづつではあるが身の回りの調子が上向いてきたのであった(何事も、物に執着せず捨てるというのはよいことである。不要なものは持たない)。
怪奇な本を取り上げようと思うが、したがってここに紹介するのは怪奇小説、恐怖小説になる(実話怪談ものを否定しているわけではないので念のため。例えば稲川淳二さんのDVDは今でもたまに購入しています)。
「江戸川乱歩傑作選」 江戸川乱歩
江戸川乱歩の作品は、探偵小説と括るよりも怪奇小説、恐怖小説と呼んだ方が相応しく思われる。むろん日本に探偵小説を根付かせた第一人者であるには違いないのだが、初期短編群、大人向け通俗もの、少年向け小説、そこには一貫して猟奇趣味が通底している。もっとも横溝正史、夢野久作を見るまでもなく、彼ら探偵作家と推理作家を分け隔てるものこそが猟奇趣味といえなくもないが……。
異論を承知でいえば、僕は本来の乱歩は短編小説家だったと思っている。時期的には「蟲」の昭和4年頃まで。その後のやたらと明智小五郎が登場してくる長編は、やや通俗で冗長なきらいがある。短編の方は、猟奇趣味がバランスよく品よく(変態倒錯を扱っていたりするのに上品とは変だが)まとまっている。
つまり通俗に堕す前に観念で収まっているというか。文体に関しても、宇野浩二や谷崎潤一郎を愛読していたのもむべなるかな、戦前の情緒ある美しい日本語で語られている。
どのくらい宇野浩二に傾倒していたかは、宇野には「屋根裏の法学士」なる小説があり、片や乱歩は「屋根裏の散歩者」、散歩者の主人公は郷田三郎であり法学士の方は乙骨三作と、このことを述べれば十分であろう。
「江戸川乱歩傑作選」に収録された短編はどれも秀逸だが、中でも「鏡地獄」は、読み手の想像力にすべてが委ねられた真の恐怖小説である。
- 著者
- 江戸川 乱歩
- 出版日
- 1960-12-27
「黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇」 ポオ作 八木敏雄訳
乱歩と来たからには、その名前の由来となったエドガー・アラン・ポオを避けては通れまい。ポオもまた推理小説の祖、ゴシック小説の正統伝承者、いろいろな肩書がつく作家だが、ユーモア小説もありの一括りではいかない、後人の前に燦然とそびえ立つ巨塔だ。
およそポオには駄作がない。まず普通の文庫には入っていない「ちんば蛙」が読みたくて、谷崎精二訳の全集に目を通してみたことがあるが、やはり完璧だった。であるから星の数ほど出ているアンソロジーのどれを読まれても大丈夫、ここでは読みやすさと、僕の好きな作品が多く含まれている岩波文庫を挙げておいた。
その作品を貫くのは、比類なき知性、理性である。べったり情緒に絡まってくるのではなく、あくまで理知に訴えかけてくる。ドッペルゲンガー譚「ウィリアム・ウィルソン」、ピカレスクを装いながらも主人公は自身の没落に理性で抗おうとする。「黒猫」然り、本来知的な主人公が知性の埒外にある“あまのじゃく”によって翻弄される話だ。
「リジーア」などの美女再生譚にしても、主眼は理性による美の分析にあるのであって、官能の日々の描写ではない。だから恋人は常に死していなくてはならない。読後、我々が日常の些末な感情とは無縁の静かな理性の地平にぽつんと置いていかれるのは、そうした所以である。逆説的だが、ポオの作品は猥雑な世界に対するイデア小説といっていいかもしれない。
人間が誰しも屈服せざるを得ない死、これを自らの手で創出し、あまつさえ隠匿すら謀らんとする推理小説をポオが作り出したのも、当然といえば当然である。
- 著者
- ポオ
- 出版日
- 2006-04-14