5分でわかる中国大返し!行程や速度、黒田官兵衛の活躍などわかりやすく解説

更新:2019.12.9

1582年6月、織田信長が明智光秀に本能寺で討たれたことを知った羽柴秀吉。仇討ちのため、山陽地方を駆け抜け抜けました。この記事では「中国大返し」と呼ばれる強行軍の行程や、黒田官兵衛の活躍、その後の「山崎の戦い」などをわかりやすく解説していきます。

  • twitter
  • facebook
  • line
  • hatena

「中国大返し」とは。距離や日数、速度など概要を解説

 

「本能寺の変」にて、主君の織田信長が明智光秀に討たれたことを知った羽柴秀吉。仇討ちのために軍を返し、山陽地方を駆け抜けて京を目指した大移動を「中国大返し」といいます。

現在の岡山県である備中高松から、京までその距離およそ200km。約2万の将兵たちを引き連れて、10日間で辿りついたそうです。

「中国大返し」の後、羽柴秀吉は「山崎の戦い」で明智光秀を撃破。織田家の宿老たちのなかでいち早く主君の仇討ちを成し遂げたことで、後継者問題を自分に有利なかたちで進めることができ、天下人への階段を駆け上っていきました。

 

「中国大返し」が起こるまで。「本能寺の変」の時、羽柴秀吉はどこにいた?

 

1582年6月2日。京で「本能寺の変」が起こっていた時、羽柴秀吉は、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲していました。

秀吉軍が備中高松城の包囲を始めたのは4月のこと。備前岡山の宇喜多秀家軍と合流し、合計3万の大軍でした。一方の備中高松城は、城主である清水宗治をはじめ5000という兵力です。

当初秀吉は、力づくで城を落とそうとしましたが、備中高松城は低湿地帯に築かれていて、守りやすく攻めにくい城でした。清水宗治は毛利家の首脳陣との信頼も厚く、2回攻撃をしたもののどちらも失敗に終わります。

さらに、毛利輝元が率いる4万もの大軍が援軍として接近中ということもあり、秀吉は低湿地帯に築かれているという点を逆手にとった水攻めをすることに決めました。

長さ4km、高さ8m、底幅24m、上幅12mの堤防をわずか12日間で築き、足守川の水をせき止めたのです。梅雨の時期だったこともあって、備中高松城はあっという間に湖に浮かぶ島のように孤立してしまいました。

毛利輝元の援軍が到着したのは、その直後。しかしすでに孤立している備中高松城を前に成す術はなく、講和をする決断をします。毛利家で外交を担う安国寺恵瓊と、秀吉の側近だった黒田官兵衛が、まさに和議の条件を交渉している最中に、「本能寺の変」が起こったのです。

 

「中国大返し」の行程を時系列で解説!

 

日本屈指の強行軍といわれる「中国大返し」。しかし10日で200km、単純計算で1日あたり20kmという数字だけを見ると、それほど大それたこととは思えません。

たとえば南北朝時代の武将である北畠顕家は、奥州から遠江まで約600kmを16日間で進んだといわれていて、1日あたりの距離はおよそ38kmと秀吉軍のほぼ倍です。

ではなぜ「中国大返し」が日本屈指の強行軍といわれているのでしょうか。その行程を時系列でみていきましょう。

「本能寺の変」が起きたのは6月2日。秀吉がこのことを知ったのは、諸説あるものの6月3日の夜から4日の未明にかけてだとするのが定説です。

備前・備中への道を遮断し、緘口令を敷くなど信長の死が毛利軍に伝わらないようにしたうえで、安国寺恵瓊を呼び出し、条件を譲歩して早急に和議を結びます。6月4日の10時頃には、和議の条件であった清水宗治の切腹がおこなわれました。

一方の毛利軍が「本能寺の変」を知ったのは、6月5日のこと。首脳陣のひとり吉川元春は秀吉軍の追撃を提案しましたが、小早川隆景は和議を結んだのだから遵守するべきだと主張。当主の毛利輝元は小早川に同意し、毛利軍は秀吉に敵対しない道を選ぶのです。

秀吉は、4日と5日は毛利軍の様子を探り、毛利軍が撤兵したのを待って6月6日の午後には撤退を開始します。

備中高松城から羽柴秀吉の居城である姫路城までの行程は明らかになっていません。道中には宇喜多家の居城である沼城があり、休憩のために立ち寄ったとする説と、裏切りを警戒して別の道を選んだという説があります。

姫路城に到着したのは、6月7日の夕方から8日とされています。備中高松城から姫路城までの距離はおよそ90kmで、これを1日半から2日で駆け抜けた計算です。道中には、山陽道第一の難所とされる船坂峠があり、暴風雨にも見舞われ、河川が相次いで氾濫するなか進んだとの記録が残されています。

「中国大返し」が日本屈指の強行軍とされるのは、その全行程ではなく、備中高松城から姫路城までの移動を指したものだといえるでしょう。

その後秀吉は、休養を挟んで6月9日に姫路を出発。以降は、情報収集や味方との合流などをしながら、その日のうちに明石、10日に兵庫、11日に尼崎と進み、12日に富田に到着しました。

そして「本能寺の変」から11日後の6月13日、明智光秀との決戦に挑んだのです。

 

「中国大返し」で活躍した軍師・黒田官兵衛はどんな人?

 

羽柴秀吉の人生には、彼を支えた2人の軍師の存在が欠かせません。ひとりは織田家内部での出世を支えた竹中半兵衛、そしてもうひとりは天下取りを支えた黒田官兵衛です。「中国大返し」の際に活躍したのは、黒田官兵衛でした。

1546年に、黒田職隆の嫡男として姫路で生まれた官兵衛。黒田氏は現在の滋賀県長浜市にあたる近江国伊香郡黒田村の出身で、官兵衛の祖父である重隆の時に、戦国大名の小寺則職に仕えています。

官兵衛は1561年に小寺則職の子である政職の近習となり、1562年に初陣を飾ります。当時は「小寺官兵衛」と名乗っていました。

1567年、父親から家督を譲られて小寺家の家老となり、政職の姪である光と結婚します。

1575年、政職を説得して、織田家に臣従。この時に取り次ぎを務めたのが、黒田氏の故郷でもある長浜を治めていた羽柴秀吉でした。1577年に秀吉が中国方面の軍団長に任じられると、自らの居城だった姫路城を明け渡しています。この時の官兵衛は、小寺家の家臣でありながら、秀吉のもとにレンタル移籍をしていたような状態です。

1578年、織田信長の重臣だった荒木村重が謀反をし、有岡城に籠城する事件が起こります。この時官兵衛は荒木を説得するために有岡城に赴くのですが、失敗して幽閉されてしまうのです。

信長は、官兵衛が有岡城から戻ってこないこと、さらに主君の小寺政職が荒木方に付いたことなどから、官兵衛も裏切ったのではないかと考え、人質にしていた彼の子を殺すよう命じました。結局、有岡城が陥落した際に土牢に閉じ込められていたことがわかり、誤解は解け、これ以降黒田官兵衛は羽柴秀吉の軍師として、才覚を振るうようになるのです。

「中国大返し」の際、秀吉は信長の死に激しく動揺し、泣き崩れたといわれています。官兵衛はそんな秀吉に対し、「天下を取る機会が訪れました」と進言したそうです。
 

そして情報漏洩を防いだうえで素早く交渉をまとめ、和議を結び、姫路城までの道中では替え馬や渡し船など強行軍に必要な準備を整え、さらに明智光秀に味方する者が増えないよう「織田信長・信忠父子は生きている」という嘘の情報を流しました。

ピンチをチャンスと捉え、秀吉に天下を取らせるために働いた官兵衛。後年秀吉は、「自分が死んだら天下を取るのは黒田官兵衛」と語ったそうです。

 

「中国大返し」のその後。「山崎の戦い」で明智光秀は敗れる

 

「本能寺の変」が起きた時、織田信長・信忠父子にはほとんど兵力がなく、織田家の重臣たちも各地で強力な敵と対陣中でした。

謀反した明智光秀が、最初に駆けつけるであろう敵としてもっとも警戒していたのは、越中で上杉家と戦っていた柴田勝家です。「本能寺の変」を起こした直後から、琵琶湖周辺の制圧と地盤固めに労力を割き、勝家軍を迎えうつ準備をしていました。

羽柴秀吉が毛利家と和睦を結び、これほど早く京に戻ってくるとは予想もしていなかったのでしょう。光秀が秀吉軍の接近を知ったのは、6月10日頃だといわれています。

「中国大返し」の報せに驚いた光秀は、淀城や勝龍寺城など拠点の改修を始めますが、秀吉軍の早すぎる接近に十分な態勢を整えられないまま決戦に臨まざるを得なくなりました。さらに、味方になってくれると期待していた丹後の細川氏、大和の筒井氏からの援軍も得ることができず、兵力は1万~1万6000程度だったそうです。

一方の秀吉軍には、道中で織田信孝、丹羽長秀、池田恒興、中川清秀、高山右近らが加わって、4万ほどの大軍に膨れあがっていました。

6月13日、ついに両者が対峙。これを「山崎の戦い」といいます。明智光秀軍も善戦はしましたが、敗戦。その後光秀は、再起を図って居城の坂本城に向かう途中で落ち武者狩りに襲われ、自刃しました。

 

「中国大返し」でも活躍した黒田官兵衛の人生とは

著者
楠木 誠一郎
出版日
2013-12-13

 

歴史上の偉人を子ども向けにわかりやすくまとめた「火の鳥伝記文庫」シリーズ。本作では、羽柴秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛を取りあげています。

柔軟に戦国乱世を生き抜いた官兵衛。秀吉が天下人へと雄飛する大きなきっかけとなった中国大返しは、彼にとっても人生のハイライトのひとつだったでしょう。しかしその鮮やかすぎる手並みゆえ、秀吉からも警戒され、功績の大きさに見合わない不遇を味わうことにもなるのです。

児童向けの作品ですが、要点がまとまっていてわかりやすいので、大人の学び直しにもおすすめの一冊です。

 

もっと見る もっと見る