織田信長の人生最大のピンチといわれる「金ヶ崎の戦い」。いったいどのような理由で窮地に追い込まれてしまったのでしょうか。この記事では、戦いの背景や敗戦の要因、「朽木越え」、「姉川の戦い」や「小谷城の戦い」などをわかりやすく解説していきます。
1570年4月に起きた、織田信長と朝倉義景の争いを「金ヶ崎の戦い」といいます。まずは戦いが起きた背景を説明していきましょう。
当時の織田信長は、1568年に足利義昭を室町幕府第15代将軍にすえて幕府を再興し、畿内に勢力を広げていました。
足利義昭は、信長を頼る前は越前の戦国大名だった朝倉義景のもとに身を寄せていましたが、義景が石山本願寺と対立していたこともあり、上洛することができないでいました。そんな義景に代わって幕府再興を成し遂げた信長は、足利義昭の名で義景に対して従属と上洛を求めたのです。しかし義景は応じませんでした。
これを受けて信長は、1570年4月20日に京を出陣。4月25日、越前に侵攻して「金ヶ崎の戦い」が始まります。織田軍の主力だけでなく、同盟関係にあった三河の徳川家康軍、また池田勝正や松永久秀など畿内の武将たちを加えた、3万の大軍だったそうです。
越前に侵攻した織田・徳川連合軍は、朝倉義景の従兄弟にあたる朝倉景恒が守る金ヶ崎城を陥落させるなど、優位に戦いをすすめていきました。
しかし、信長の義弟である北近江の浅井長政が裏切ったという情報が入ります。越前は現在の福井県、北近江は現在の滋賀県にあたる場所です。このままだと越前と北近江から挟み撃ちにされてしまう可能性があるため、信長は撤退せざるをえなくなりました。
浅井長政の妻は、織田信長の13歳年下の妹。戦国一といわれるほどの美女だった、お市の方です。浅井長政の「長」は、織田信長から一字を拝領したものでした。信長が足利義昭を奉じて上洛することができたのも、浅井長政と同盟関係にあったのが大きな要因だったとされています。
しかし同盟関係は、織田氏と浅井氏のものよりも、朝倉氏と浅井氏のほうがはるかに長く、強いものでした。
もともと北近江の一豪族に過ぎなかった浅井氏は、浅井長政の祖父である浅井亮政の時代に、南近江の守護だった六角定頼と対立。その際に朝倉氏と同盟を結んで生き延びることができたという歴史をもちます。以降、朝井氏と朝倉氏は盟友関係にあり、特に浅井長政の父である浅井久政は、「親朝倉派」として隠居をした後も浅井家中に大きな影響力を有していました。
織田信長と浅井長政が同盟を結んだ際、浅井家中には反対意見もありましたが、信長が「朝倉氏とは戦わない」「もし戦わざるをえない場合は、必ず浅井氏に事前に知らせる」と約束し、同盟が成立したという経緯があります。
しかし、信長の越前侵攻は浅井氏への事前通知なしに実行されました。浅井長政は、信長との同盟か朝倉義景との同盟か、いずれかを選ばなければならない状況に追いやられたのです。最終的に浅井長政は、織田信長と敵対することを選びました。
信長が長政の裏切りを知った経緯としては、妹のお市の方が信長への陣中見舞いとして、「袋の両端を縛った小豆の袋」を送ったこと。信長はこれを見て、自らが挟み撃ちに陥りつつあることを悟り、撤退を決意したという逸話が伝わっています。
実際には複数のルートから情報がもたらされたと考えられていますが、信長は長政に裏切られたことをなかなか信じることができず、撤退の決断が遅れたため、その後大きなピンチに陥ることになりました。
「金ヶ崎の戦い」にて、後の豊臣秀吉となる木下藤吉郎が「殿軍」に志願したという逸話があります。殿軍とは、撤退する軍の最後尾で敵からの追撃を阻止し、本体の撤退を援護する役目のこと。討ち死にする可能性の高い、非常に危険なポジションです。
「金ヶ崎の戦い」で殿軍を務めたのは、秀吉のほかに明智光秀、池田勝正、徳川家康らの名前も挙がっているので、実際に誰が指揮をとっていたのかはわかっていません。ただ、後に信長が恩賞を与えたことが判明しているのは秀吉だけなので、彼が何らかのかたちで貢献したことは間違いないでしょう。
「金ヶ崎の戦い」で撤退をする際、信長は10人程度のわずかなお供を連れて、本隊に先行するかたちで京に逃げ込みました。この時通過したのが「朽木谷」といわれる場所で、この逃避行は「朽木越え」と呼ばれています。
朽木谷を治めていた朽木氏は、代々足利将軍家に側近として仕えた家柄。歴代将軍が京から逃げるたびに匿い、忠誠心に篤い一族として有名でした。
時の当主だった朽木元綱は、織田信長と足利義昭の関係が悪化しつつあったことを鑑み、本来は信長を討ち取るつもりでいたともいわれています。しかし松永久秀の説得で翻意し、道案内を務めました。その結果信長は、4月30日に無事に京に帰還することができたのです。
織田信長を取り逃がした後の5月11日、朝倉義景は従兄弟の朝倉景鏡を総大将とする大軍を近江に送り、浅井長政や六角義賢と連携して本拠地である岐阜に戻ろうとする信長を捕らえようとしていました。しかしこの作戦は失敗し、信長は5月21日に岐阜に到着します。
信長はその後体制を整えて、6月19日に岐阜を出陣。浅井領に侵攻し、6月27日には織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍との間で「姉川の戦い」が開戦するのです。
激戦のすえ、織田・徳川連合軍が勝利。浅井氏は重臣である遠藤直経や、長政の実弟である浅井政之、朝倉氏も豪傑として知られる真柄直隆らを失いました。
しかし、浅井・朝倉連合軍はこの後も足利義昭、比叡山延暦寺、一向一揆、甲斐の武田信玄らと連携し、信長包囲網を構築。その一角を担って頑強に抵抗を続け、その過程で信長の実弟である織田信治や、重臣の森可成などを倒します。
1572年10月に、武田信玄が足利義昭の呼びかけに応じる形で西上を始めた際、信長は浅井・朝倉連合軍と対峙していたために、徳川家康への援軍を3000ほどしか送れなかったそう。結果として、家康は「三方ヶ原の戦い」で大敗北を喫し、信長も窮地に陥ってしまいます。
しかし、1573年4月に武田信玄が急死。武田軍が甲府に帰還をすると、信長は8月8日に小谷城を包囲。救援に駆け付けた朝倉義景軍を「刀根坂の戦い」で撃破すると、そのまま追撃に移って越前に侵攻しました。朝倉義景は居城だった一乗谷を焼かれて自刃しています。
浅井長政はなおも小谷城にこもって抵抗を続けますが、すでに勝機はなく、家臣の離反が相次ぐなかで8月27日に父の浅井久政が自害。長政自身も9月1日に自害し、小谷城は陥落しました。
『信長公記』では1574年正月の宴で、朝倉義景、浅井久政、浅井長政3人の骸骨に漆を塗って金粉を施し、白木の台に据えて肴にしたと記され、『浅井三代記』には骸骨を杯にしたとも記されています。
「小谷城の戦い」によって、戦国大名としての浅井氏は滅亡しましたが、お市の方は娘である茶々、初、江とともに城を脱出。後に江が江戸幕府2代将軍徳川秀忠に嫁いで、後水尾天皇の中宮、和子を産んだことで、浅井長政の血脈は今上天皇にまで受け継がれることになりました。
- 著者
- 鈴木 輝一郎
- 出版日
- 2012-01-28
作者の鈴木輝一郎は、『めんどうみてあげるね』で「日本推理作家協会賞」を受賞した推理作家。本書は、そんな鈴木が手掛けた時代小説です。
描かれているのは、織田信長の人生最大のピンチといわれる「金ヶ崎の戦い」。信長、豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康とおなじみの4人が織りなすドタバタ喜劇を堪能できるでしょう。
信頼していた義弟である浅井長政の裏切りで窮地に陥った織田信長。殿軍の大将に志願した豊臣秀吉。秀吉とともに敵の追撃を食い止めた明智光秀や徳川家康……ぎりぎりの状況で疑心暗鬼に陥り、それぞれの思惑が交錯する物語はフィクションと知りつつも、もしかしたら実際にはこうだったのかもしれないと思ってしまうほどです。
文章も堅苦しくなくて読みやすいので、時代小説に慣れていなくても手に取りやすいでしょう。
- 著者
- 赤神 諒
- 出版日
- 2018-12-20
本書は、織田信長と朝倉義景との戦いを、朝倉氏側の視線で描いた作品。朝倉氏が越前の名門であることは知っていても、その内実は知らないという方が多いのではないでしょうか。
本書の主人公は、朝倉義景を補佐した重鎮の山崎吉家。知名度が高いとはいえない武将ですが、「金ヶ崎の戦い」において朝倉家の命運を決めた「刀根坂の戦い」では、撤退する朝倉軍の殿軍を指揮していました。そんな彼を軸にして、迫りくる信長の前に揺れる朝倉家の戦いを描き出しています。
読んでみると、なぜ彼の名が有名にならなかったのかを疑問におもうほど。当時の人々がどのような想いで戦いに参加していたのかを想像できる一冊です。