織田信秀はどんな人?「尾張の虎」と呼ばれた信長の父の生涯とは

更新:2019.12.17

織田信長に比べて、その父である織田信秀がどんな人だったのかは、ほとんど知られていません。しかし信秀も「尾張の虎」と呼ばれるほどの傑物で、彼の生き方が後に信長を天下人にまで育てあげたといわれています。この記事では、織田信秀の生涯と功績、逸話などをわかりやすく解説していきます。

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織田信秀の前半生。父・信定の生前から家督を継ぐ優秀な人物

 

1511年、勝幡城主である織田信定の長男として生まれた織田信秀。織田氏は越前国織田荘(おたのしょう)から発祥した一族で、1333年の「建武の新政」時に、斯波氏(しばし)が越前国の守護に任じられて以降、その臣下となりました。

1400年に斯波氏が尾張の守護も兼任するようになると、織田氏は尾張守護代に任命され、越前から尾張に移住します。織田氏は斯波家の家臣団のなかでは甲斐氏に次ぐ序列2位となり、尾張守護代を世襲していた織田伊勢守家は主君である斯波氏とともに京に住み、分家の織田大和守家が尾張に住んで統治する体制を築きました。

織田信定は、大和守家に仕える織田弾正忠家の当主。織田因幡守家、織田藤左衛門家とともに「清洲三奉行」と呼ばれていました。

これはつまり、足利将軍家から見れば、家臣(=斯波氏)の家臣(=織田伊勢守)の家臣(=織田大和守)に過ぎません。これが後に、足利義昭が織田信長を「成り上がり者」として見下し、両者が対立する要因のひとつになるのです。

1520年代になると、織田信定は勝幡城を築城。さらに津島神社の門前町として栄えていた津島を支配するなど、勢力を拡大しました。

その子である織田信秀は若い頃から智勇に優れた武将として信定から目を掛けられ、1526年から1527年頃、若干16歳か17歳で家督を譲られて当主になります。父の信定は存命で、生前に家督を譲られるのはそれだけ信秀が優秀だったことを意味しているのです。

また信秀は、武将として優れていただけでなく、京から蹴鞠の宗家である飛鳥井雅綱を招いて蹴鞠会を開催したり、連歌をたしなんだりと、文化人としての一面ももっていました。

織田信秀は津島を支配して勢力拡大!

 

父の織田信定同様、織田信秀も津島の町を支配して勢力を拡大していきます。津島は弥生時代の中期から人が暮らしていた痕跡があるほど古い町で、南北朝時代にはすでに港町として栄えていた場所です。

織田信秀は津島だけでなく、熱田神宮の門前町として栄えていた熱田の支配権も手に入れ、主君をしのぐ経済力をもつようになりました。

経済力は、兵を養い、武器を整え、合戦をする軍事費にもなりますが、織田信秀は朝廷や室町幕府、伊勢神宮などに献金し、見返りとして官位を得るなど政治資金としても活用します。

その効果もあって信秀は、官位、名声ともに主君である織田大和守家、その主君である織田伊勢守家、さらにはその主君である斯波家をも越えて、織田弾正忠家を戦国大名にのし上げていくのです。

また織田信秀は、織田大和守家当主である織田達勝の娘を正室として迎えますが、後に離縁しています。主君の娘を離縁できるということからも、両者の力関係が逆転していることがわかるでしょう。

その後継室となったのが、土田御前です。美濃の豪族である土田政久の娘とされていますが、複数の説があり確かではありません。

信秀と土田御前の間には、織田信長をはじめ、信行、秀孝、信包、市、犬の4男2女が生まれました。織田家は代々子沢山の家系で、信秀には側室が生んだ子も含めると12人の男児と10人以上の女児がいます。

織田信秀は、那古野城は仮病で奪った⁉

 

1538年、織田信秀は今川氏豊の居城だった那古野城を奪い、新たな拠点とします。その際に信秀が用いた謀略について、『名古屋合戦記』という軍記物に記されている逸話を紹介しましょう。

那古野城は、1521年から1528年の間に、駿河と遠江の2ヶ国の守護だった今川氏親が、尾張へ進出するための足掛かりとして築城した城です。

城主の今川氏豊は大の連歌好きで、那古野城では頻繁に連歌会が開催されていました。織田信秀はそこに目を付け、足繁く連歌会に通い、今川氏豊と親しくなり、何日も城内に滞在するようになります。

ある日のこと、信秀は城内で仮病を使って倒れ、遺言を残したいからと、家臣を城内に呼び寄せる許可を求めました。信秀を信じ切っていた今川氏豊はこの頼みを受け入れます。

そうしてやって来た家臣たちは城内で蜂起。さらに城外からも織田軍が攻め寄せ、信秀はあっという間に那古野城を乗っ取ることに成功しました。

仮病を使ったどうかは定かではありませんが、信秀が那古野城をかなりの短期間で奪ったことは事実だそう。武将としての才覚を感じられる逸話だといえるでしょう。

織田信秀の後半生。今川義元や斎藤道三と対立、葬儀は盛大に

 

1530年代後半から、織田信秀は隣接する西三河の松平氏や美濃の斎藤道三と争うようになります。

当時の松平氏当主は、徳川家康の祖父にあたる松平清康。岡崎城を築き、三河を統一するなど松平氏を大きく発展させた優れた武将です。

1535年、松平清康は斎藤道三とともに織田信秀を挟撃しようと、1万もの大軍を率いて尾張に侵攻。信秀の弟である織田信光が居る守山城に攻め入ります。しかしこの最中に、家臣の阿部正豊から突然切りつけられ、死んでしまいました。

この事件は「守山崩れ」といい、阿部正豊が用いた刀が「村正」であったことから、村正は徳川家に仇をなす妖刀と呼ばれるようになるのです。

松平清康に代わって当主になった松平広忠は、当時10歳とまだ幼く、一族を統制することができません。三河は内紛状態に陥り、織田信秀はその隙をついて侵攻。安祥城を攻略して、長男の織田信広に守らせました。

ちなみに、後に織田信秀の後継者となる信長は、実は三男です。ただ信広・信時という2人の兄は正室ではなく側室の子だったため、彼らが信秀の跡継ぎに選ばれることはありませんでした。

織田信秀が安祥城を攻略して以降、松平氏は駿河・遠江の戦国大名である今川義元の庇護下に入ります。1542年、織田信秀は「第一次小豆坂の戦い」で今川軍と戦い、勝利。三河の権益を守りました。ただこの戦いに関する記録は『信長公記』にしか残っておらず、詳しいことは明らかになっていません。

一方の美濃では、同年に斎藤道三が下剋上を起こして、土岐頼芸と頼次父子を尾張に追放。信秀は土岐父子を支援し、同じく彼らを庇護下に置いていた越前の朝倉孝景と手を組んで、斎藤道三と戦います。一時は大垣城を奪うまでになり、この頃が織田信秀の全盛期だといえるでしょう。

しかし信秀は、「尾張の虎」と呼ばれて事実上の尾張国主となり、織田大和守家、織田伊勢守家、斯波氏らをしのぐ力を手に入れても、敬意を損なうことはせず、旧来の権威や秩序を排除しませんでした。その結果、尾張国外の今川氏、松平氏、斎藤氏と戦いながら、国内における一族同士の内紛にも対処しなければならないという多方面作戦を強いられることになってしまうのです。

1544年、斎藤道三の居城である稲葉山城を攻撃するも、大敗。

1547年、松平広忠の居城である岡崎城を陥落させて、息子の竹千代(後の徳川家康)を人質にとります。

1548年、「第二次小豆坂の戦い」で今川義元の軍師である太原雪斎に敗北しました。

1549年、斎藤道三と和議を結び、信秀の息子である信長と、斎藤道三の娘である帰蝶(きちょう)が婚姻します。

同年11月、太原雪斎から安祥城を責められ、長男の織田信広が捕虜となり、竹千代と捕虜交換を余儀なくされました。

苦しい状況でも粘り強く生き残りを図った織田信秀でしたが、この頃から病に伏せるようになります。1552年3月3日、末森城で亡くなりました。42歳でした。

葬儀は織田信秀が1540年頃に菩提寺として建立した萬松寺でおこなわれ、僧侶300人、織田一族、重臣が居並ぶ盛大なものだったといわれています。

喪主を務めた織田信長は、大幅に遅刻したうえに異様な格好で現れ、織田信秀の位牌に向かって抹香を投げつけたという逸話が残っています。しかしなぜそのような行為にはしったのか、その理由については明らかになっていません。

織田信長を通して見る、天下人の父親

著者
谷口 克広
出版日
2017-04-01

 

戦国三英傑のひとりに数えられ、歴史好きでなくてもその名を知らない人はいないであろう織田信長。研究が進むにつれて、信長の考え方や行動のなかに、父である織田信秀の影響とおぼしきものがいくつもあることがわかってきました。本書は、信長は父から何を学び、何を受け継いだのかを、史料から読み解いている作品です。

那古野城、清洲城、小牧山城、岐阜城、安土城と居城を変えていったこと、津島や熱田などを支配して経済力を重視したこと、周囲を敵に囲まれても粘り強く戦い抜く強靭な性格……天下人と呼ばれた信長の行動の多くは、信秀の考え方にもとづいたものでした。

本書を読むと、織田信長を身近に感じられるだけでなく、あまり注目されることのなかった織田信秀の凄さを知ることができるでしょう。

織田信秀から信長が受け継いだ家臣の体制とは

著者
菊地 浩之
出版日
2018-02-22

 

織田信長の家臣といえば、柴田勝家や丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、羽柴秀吉などが有名です。彼らは方面軍の司令官となって活躍しました。

本書は、信長の家臣団がどのように形成されたのか、信長は彼らをどのように率いていたのかを解説している作品です。

もともと織田家は、織田大和守家に仕える一奉行に過ぎず、織田信秀の代に急速に台頭しました。信秀が亡くなった後は、信長と信行兄弟が家督争いをして家臣団が分裂したため、信長は自らの家臣団をほぼゼロから構築する必要があったのです。

そのため、身分や前歴に関わらず、能力のあるものを重用する能力主義をとったそう。1度自分に敵対した者には容赦しない印象もありますが、家臣団の筆頭に挙げられる柴田勝家もかつての敵でした。

興味深い内容が盛りだくさん。おすすめの一冊です。

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