織田信長が改革者と呼ばれる理由のひとつ「楽市楽座」。戦国時代に発令された経済政策です。この記事では、その目的や、メリットとデメリット、信長のその他の経済政策などをわかりやすく解説していきます。
戦国時代後期に実施された経済政策「楽市楽座」。「市」は定期的に人が集まり、商いをおこなう場所のことです。『日本書紀』には、7世紀頃から飛鳥の海石榴市や軽市、河内の餌香市などが存在したとの記述があり、貨幣経済が成立する以前から各地に市があったことがわかります。
「4」が付く日、「8」が付く日などと開催日が決まっていて、三重県の「四日市」や滋賀県の「八日市」など、現在でも地名に名残があります。
「座」は、商工業者や芸能者たちによって結成される同業者組合のことです。平安時代頃に生まれ、貴族や寺社に金銭を払うかわりに、市や特定の地域における営業権や販売権、仕入れや運搬路などを独占していました。座に属さない新興商人を排除して経済的利権を保持していたのです。
座の後ろ盾になっていた貴族や寺社は「本所」と呼ばれ、なかでも比叡山延暦寺、興福寺などが多くの座を支配下に置いていました。本所の政治力を背景に、関所での通行税や市での営業税を免除される座もあり、資金力をつけて独自の武力を保有するなど、戦国大名でも手出しできないほどの力をつけていきます。
楽市楽座は、これら古くから続いていた硬直的な経済システムにメスを入れようとする画期的な政策でした。「楽」とは、自由な状態にすることを意味します。つまり、「座」を解散させることで、「市」における経済活動を自由におこなえるようにしたのです。
日本史上最初の楽市楽座は、1549年に近江の戦国大名だった六角定頼が発令したものだといわれています。観音寺城の城下町にある石寺に対して、楽市令が出されました。
その後1566年には、駿河の戦国大名だった今川氏真が、富士大宮の六斎市を楽市にすることを命じています。
織田信長は、美濃の加納に対して楽市楽座を発令。その後、近江の安土や金森にも出し、支配している大名たちに各地で実行させます。特定の市を対象に出した六角や今川らと信長の違いは、その力がおよぶ範囲の広さでしょう。そのため、楽市楽座は織田信長の功績だとされることが多いのです。
彼ら戦国大名たちが楽市楽座を実施するのは、「経済的な目的」と「政治的な目的」の2つがあります。
経済的な目的は、城下町を活性化させることで自分の治める領地を豊かにすること。座が解散し、市で誰でも自由に経済活動をすることができると、他の町から移転してきた人でも、新たに商売を始めやすくなります。
商人が増えれば、彼らが取り扱う商品を作る農民や漁師、職人などの仕事が増えます。物流関係者も同様です。領地全体が豊かになり、すると徴収する税金も増えて戦国大名の懐も潤うのです。
政治的な目的は、領主権を確立すること。中央の貴族や寺社と結びついて特権を得ている座の存在は、領地内における商工業を統制したい大名にとって、目の上のたんこぶのような存在。楽市楽座で座を排除できれば、大名は領地内の経済を統制でき、領主権を確立できるようになるのです。
楽市楽座の最大のメリットは、経済が活性化して領地が発展すること。農民や百姓が豊かになり、これを知った周辺の領地から人が移転してきます。人口が増えることは、戦国大名にとって兵力の増加と同義です。また同時に、領民を奪われる近隣大名の弱体化も意味します。
さらに物流が活性化されることで自然と道が整備され、軍の通行がより容易に、迅速にできるようになるという効果もありました。これらは、織田信長が天下人へと駆けあがる際に、重要な役割を果たすことになります。
室町時代の後期になって楽市楽座の効力が全国におよぶようになると、メリットよりもデメリットのほうが大きくなっていきます。
楽市楽座によって、市における商人たちの競争が自由化したことで、小さな商店が乱立するようになるのですが、なかには時代の流れに乗って新規参入してみたはいいものの、ノウハウをもっていない者もいました。
商人たちの力が弱くなると、今度は生産者から商品を取りまとめて商人たちに卸す問屋の発言力が増していきます。本来は卸すはずの商品を配送途中に抜き取って、闇市場で売り払う者もいました。立場の弱い商人たちは問屋から商品を卸してもらえないと倒産してしまうため、泣き寝入りせざるを得なかったのです。
一方で、御用商人という、領主と積極的に関係を深め、領主に代わって市の支配権を掌握する者も出てきます。力をつけて他の商店を圧迫していきました。
経済の活性化を目指して規制緩和をし、商業の自由化を進めていった楽市楽座ですが、座の代わりに問屋業者や御用商人が台頭するという皮肉な結果を招いてしまったのです。
織田信長が、楽市楽座とともにおこなった経済政策に「関所の廃止」があります。
関所は、古代から交通の要所に配置され、防衛拠点としてだけでなく、謀反人や犯罪者、逃亡した農民などを捕まえたり、情報を遮断して統制したりと、さまざまな目的で用いられてきました。
京を中心とする畿内と東国の間につくられた「逢坂関」や「不破関」「鈴鹿関」などは、百人一首でも歌の題材となるなど、重要な拠点です。
その後中世になると、貴族や大名、寺社などが独自に関所を設け、通行税を取り立てるようになります。通行税は、盗賊や山賊などから通行人を守るための費用や、道路整備の費用などに充てるという建前になっていましたが、実際にはその多くが関所の設置者の財源となっていました。
街道を往来する商人にとっては、関所を通るたびに通行料を取られて足止めを食らうことは、大きなコストになります。物流コストは商品価格に反映されるので、物価は高止まりし、経済は停滞していました。
織田信長は、1567年に美濃の斎藤龍興を倒すと、自らの領内にあった関所を廃止。無駄なコストが省かれ、商品価格が下がって経済が活性化します。信長の領地が拡大するにつれて、廃止される関所も増え、自由に通行できる範囲が拡大していきました。
また通行税を財源にしていた貴族や大名、寺社などの力が衰えることも、信長が勢力を広げるうえで大きな効果を発揮します。
ただ関所を廃止することは、防衛面で脆弱になるというデメリットもありました。「本能寺の変」が起こった際、もしも道中に関所があれば、明智光秀軍の接近を織田信長に報せて逃亡する時間を稼げたのではないかと指摘する声もあるのです。
- 著者
- 長澤 伸樹
- 出版日
- 2019-02-27
織田信長の功績として知られる楽市楽座。戦国時代の日本にどのような効果をもたらしたのでしょうか。
本書は、彼の前に実施した大名が複数いたことをはじめ、楽市楽座に関する22の事例を紹介し、その実態を検証している作品です。
同業者組合である座を廃止するといっても、その目的は大名ごとにさまざま。なかには、座のほうから廃止を申し出た事例もあったのだとか。楽市楽座がどのようにして生まれ、なぜ江戸時代に引き継がれずに衰退していったのかがよくわかる作品です。
- 著者
- 武田 知弘
- 出版日
- 2014-06-03
作者の武田知弘は、大蔵省で働いていた人物。本書ではその経歴を生かし、経済的視点で戦国時代を読み解いています。
たとえば織田信長が活躍した「桶狭間の戦い」は、知多半島の経済利権に目をつけて解説。最強といわれていた武田信玄が天下を取れなかった理由については、織田信長が実行した楽市楽座などの経済政策と、武田家の経済政策を比較しながら迫っています。
戦国時代というと、何よりも武力が優先される印象がありますが、視点を変えると新しい姿が見えてくるでしょう。