5分でわかる永禄の変!三好三人衆、松永久秀、足利義輝、義昭の活躍をわかりやすく解説

更新:2019.12.26 作成:2019.12.26

室町幕府第13代将軍の足利義輝が、京都で襲撃を受けて殺された事件を「永禄の変」といいます。この記事では、事件が起こった背景とその後の影響、首謀者である三好三人衆や松永久秀、義輝の弟の義昭など、関係者についてわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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「永禄の変」とは。三好三人衆など概要を紹介

 

1565年5月19日、室町幕府第13代将軍の足利義輝が、京の二条御所にて三好三人衆の軍勢から襲撃され殺害された事件を「永禄の変」といいます。当時の元号が「元禄」だったことから、このように名付けられました。

三人衆の兵力は約1万。一方で足利義輝の兵力は、幕府奉公衆などの数百人程度でした。義輝は剣豪として名高い塚原卜伝の弟子で、武術に優れており、将軍自ら薙刀や刀で応戦。また近習たちも猛者揃いで、三好三人衆の軍勢に大きな被害を与えたそうです。しかし多勢に無勢。数時間にわたって戦い続けたものの、主従全員が亡くなりました。
 

首謀者である三好三人衆は、三好長逸(ながやす)、三好宗渭(そうい)、岩成友通(ともみち)の3人のこと。畿内を実質的に統治し「最初の天下人」といわれていた三好長慶(ながよし)の重臣たちです。

三好長逸は、三好一族の長老格だった人物で、松永久秀とともに三好家の双璧を担っていました。

三好宗渭は、もともとは長慶と対立していましたが、1558年に帰順して家臣となった人物。三好政康という名でも知られていて、後に出家して釣竿斎宗渭となりました。

岩成友通は、出自が不明ながら松永久秀とともに三好家が勢力を拡大する過程で家臣に加わったそうです。「三好家中一の出頭人」とも呼ばれています。

また彼らとともに足利義輝を襲撃した三好義継は、三好長慶の甥。当時はまだ15歳で、家督を継いだばかりだったため、采配は事実上三好三人衆と松永久秀が掌握していました。

松永久秀も出自は不明ですが、三好長慶に仕えて重宝されていた人物。「永禄の変」が起こった時は大和にいたため戦いに参加はしていません。しかし将軍暗殺を容認していたことは間違いないようで、息子の久通が代わりに参加しています。

「永禄の変」の背景は?足利義輝の将軍親政と三好長慶の死

 

「永禄の変」を起こした三好家は、もともと管領を務める細川晴元の家臣にすぎませんでした。三好元長の代から勢力を拡大していきましたが、1532年、これを警戒した細川晴元が一向一揆を利用して元長を自害に追い込みます。

その後は、細川晴元と足利義輝、三好元長の子である三好長慶が対立関係に陥り、武力衝突をくり返すことになるのです。

しかし1558年に和解が成立。三好長慶は足利義輝の臣下となりました。両者は協調しながら室町幕府の再興に務めることになります。

足利義輝が目指したのは、「将軍親政」です。全国諸大名との関係強化に努め、伊達晴宗と稙宗、武田晴信と長尾景虎、島津貴久と大友義鎮、松平元康と今川氏真など大名同士の争いの調停に尽力します。さらに守護職などへの任官斡旋、自らの名の偏諱を与えるなど懐柔策も積極的におこないました。

その結果、足利家の権威は徐々に回復の兆しを見せはじめます。1564年に三好長慶が病気で亡くなると、その動きはさらに加速しました。

この状況を危惧したのが、まだ若い三好義継に代わって三好家を差配する、三好三人衆と松永久秀でした。彼らにとっては将軍は傀儡であるのが望ましく、将軍親政を目指す足利義輝の存在は邪魔だったのです。

また、1561年に三好長慶の弟である十河一存が急死、1563年には後継者と目されていた長慶の息子である義興が22歳の若さで亡くなるなど 、三好家では要人の不審死が相次ぎます。三好三人衆と松永久秀は、一連の死を足利義輝による暗殺と疑い、不信と反発を強めていくのです。

そうして彼らは、足利義輝の従兄弟である足利義栄を傀儡将軍に据えようと、「永禄の変」を起こしました。

「永禄の変」の後、三好三人衆と松永久秀は対立

 

「永禄の変」で足利義輝を倒した三好三人衆。予定どおり足利義栄を将軍候補に据えますが、今度は三好家の実権を掌握する松永久秀と対立が生じます。

この頃の松永久秀は、筒井順慶から大和を奪って滞在していました。足利義輝の弟の義昭を興福寺に幽閉して、監視下に置きます。しかしその監視はゆるく、「永禄の変」から2ヶ月後に足利義輝の側近だった一色藤長や細川藤孝らによって救出されてしまいました。

三好三人衆は一連の動きを松永久秀の落ち度として糾弾。筒井順慶や興福寺とも手を結んで、大和に侵攻するのです。松永久秀は居城の多聞山城に籠城し、それから約2年にわたってにらみ合うことになります。

さらにこの間、三好三人衆と、三好家の主である三好義継の関係が悪化。原因は、三好三人衆が、将軍として擁立された足利義栄を尊重し、義継をないがしろにしたことだといわれています。そして1567年2月、三好義継は三好三人衆の陣営を脱し、松永久秀と和睦するのです。

すると三好三人衆は、再び大和に出兵。東大寺大仏殿を本陣としました。両軍は各所に火を放ち、東大寺や興福寺などの建物が次々に炎上。10月10日には、松永久秀は東大寺にこもる三好三人衆に対して総攻撃をし、大仏殿が炎上しました。

その後も両陣営の小競りあいは、畿内各地で続きます。1568年に織田信長が還俗し、義昭を奉じて上洛したことで対立は終息しました。

「永禄の変」のその後。足利義昭は将軍に

 

「永禄の変」で足利義輝が亡くなると、次の将軍候補が重要です。三好三人衆らが擁立する足利義栄と、興福寺を脱して越前の朝倉義景を頼った足利義昭の2人が居ました。

どちらを選ぶべきか苦慮した朝廷は、次期将軍候補が就任する「左馬頭」という役職に両者を任命します。そして先に上洛したほうを将軍にしようとしました。

しかし足利義栄側では、三好三人衆と松永久秀との間に内紛が起こっていて、一方の足利義昭側では、朝倉義景が一向一揆との戦いに忙殺されていて、どちらも上洛することができません。

そこで朝廷は、上洛の代わりに百貫の献金を求めます。先に応じたのは足利義栄でした。そうして1568年2月、義栄は上洛できないまま、第14代将軍に就任します。

この状況に危機感を募らせた足利義昭は、朝倉義景のもとを離れて織田信長を頼り、7月に面会。9月に上洛を開始しました。三好義継と松永久秀もこれに恭順。三好三人衆の軍勢は崩壊し、相次いで降伏しました。

9月には足利義栄が病死。そして10月18日に、足利義昭は将軍宣下を受けて第15代将軍に就任したのです。

翌1569年の1月、織田信長軍が帰還した隙に三好三人衆が挙兵し、義昭が滞在していた本圀寺を襲撃する「本圀寺の変」が起こります。あわや「永禄の変」の再来かという危機でしたが、三好義継や浅井長政らの奮戦によって、窮地を脱しました。

足利義昭はこの後、兄である義輝同様に室町幕府再興に務めましたが、やがて織田信長と対立。全国の大名に呼び掛けて反信長包囲網を構築します。この反信長包囲網には、三好三人衆、三好義継、松永久秀も加わりました。

足利義輝の人生を描いた小説

著者
宮本 昌孝
出版日

 

本書の主人公は、第14代将軍の足利義輝。剣術修行や数々の死闘、恋愛など史実とフィクションを織り交ぜ、彼の人生を華々しく描いています。

わずか11歳で将軍に就任し、たびたび京を追われる苦悩を味わい、「永禄の変」で志なかばで倒れた義輝。どんな時も、将軍親政を実現して世に秩序と安寧をもたらすことを、諦めてはいませんでした。その生き方は、織田信長や上杉謙信にも大きな影響を与えたといわれています。

作者の宮本昌孝は、緻密な時代考証と構想で数々の歴史小説を世に送り出してきた人物です。手に汗握るストーリー展開で、戦国時代の空気を感じられるでしょう。

ルイス・フロイスが見た「永禄の変」とは

著者
ルイス フロイス
出版日
2000-01-01

 

1563年に31歳で来日し、1597年に長崎で没したイエズス会士のルイス・フロイス。本書は、彼が日本で見聞きしたことをまとめた作品です。

西洋人から見た日本の姿、キリスト教布教の苦悩など、「教皇の精鋭部隊」として各地で活躍したイエズス会士らしい貴重な知見が多く含まれているのが特徴です。彼らがいかに日本社会をよく見て、研究していたかがわかり、その詳細な見分に驚きを禁じ得ません。

「永禄の変」については、まるでその場に居合わせたかのごとく、足利義輝や側室の小侍従殿が殺害される様子が詳細に描かれています。

巧みな翻訳にも注目。ルイス・フロイスが日本を、日本人をどのように見ていたのかがありありと伝わってくるでしょう。