5分でわかる本圀寺の変!織田信長の不在を狙うも、明智光秀らが大健闘!

更新:2019.12.30

織田信長の庇護のもと、将軍となった足利義昭。しかし信長の留守中に襲撃を受けました。これを「本圀寺の変」といいます。この記事では、事件の背景や、明智光秀の活躍、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。

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本圀寺の変が起こった背景は?

 

1569年1月、室町幕府第15代将軍の足利義昭(よしあき)が、仮御所を置いていた本圀寺(ほんこくじ)にて、三好三人衆に襲撃された事件を「本圀寺の変」といいます。

その背景は、1565年に起きた「永禄の変」にさかのぼります。室町幕府の第13代将軍、足利義輝(よしてる)が、三好三人衆から襲撃を受けて命を落とした事件です。

この時、義輝の弟である義昭は、仏門に入って覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺の一乗院で門跡を務めていました。松永久秀によって幽閉され、2ヶ月後に義輝の側近だった一色藤長や細川藤孝らによって救出されます。

その後足利義昭は上洛を果たし、三好三人衆を倒して将軍になるため、越前の朝倉義景を頼ります。しかし義景は一向一揆への対応に追われ、動こうとしません。そこで足利義昭は、織田信長を頼ることにするのです。

1568年9月28日、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆を京から駆逐し、彼らが擁立していた第14代将軍の足利義栄(よしひで)を廃し、足利義昭を第15代将軍に据えました。

この時、義昭が仮御所としたのが本圀寺です。本圀寺はもともと日蓮宗の宗祖である日蓮が鎌倉に建てた寺でしたが、1345年に日静が光明天皇から寺地を賜ったことをきっかけに、京に場所を移しました。日静が室町幕府の初代将軍、足利尊氏の叔父だったので、足利将軍家の庇護を受け、日蓮宗の「東の祖山」と呼ばれる身延山久遠寺に対し、「西の祖山」と呼ばれて繁栄します。

一方、織田信長によって1度は京から追い出された三好三人衆ですが、逆襲の機会を虎視眈々と狙っていました。そんななか、信長が美濃の岐阜城に帰還。義昭のもとには警護役のわずかな兵しか残っていない状況になってしまいます。

三好三人衆にとっては、京を奪回するまたとないチャンス。1月5日、約1万の大軍で本圀寺を取り囲んだのです。

 

本圀寺の変の経過と結果。明智光秀らが大健闘

 

1569年1月5日、三好軍の先陣を務めた薬師寺貞春らが、本圀寺への突入をくり返すなか、足利軍は山県源内や宇野弥七など、若狭国衆の活躍で何とか持ちこたえます。

『信長公記』によると、この時、鉄砲の名手であった明智光秀は「やにわに三十騎ばかりを射倒し」て大活躍したそうです。

足利軍の奮戦で、三好軍は1月5日中に本圀寺を陥落させることができませんでした。

翌日になると事態は大きく動きます。細川藤孝、三好義継、伊丹親興、池田勝正、荒木村重など、畿内各地にいた織田方の武将たちが駆けつけたのです。

状況が悪化した三好軍は、退却。しかし追撃してきた足利・織田軍に追いつかれ、桂川河畔で合戦することを余儀なくされました。ここで三好軍は敗北し、「本圀寺の変」は終結します。

 

本圀寺の変が起こり、織田信長は急いで京へ

 

三好三人衆による襲撃を受けたという報せが、美濃の岐阜城にいた織田信長のもとに届いたのは、「本圀寺の変」が勃発した翌日の1月6日。信長はただちに京に向かいますが、この日の天候はあいにくの大雪。凍死者が出るなど行軍は難航を極めました。

しかし、通常であれば美濃から京までは3日の行程ですが、信長は2日で踏破します。彼に付き従うことができたのは、わずか10騎ばかりだったそうです。

織田信長が到着した時には、三好三人衆は京から追い払われ、足利義昭の無事は確保されていました。雪のなかを必死に救援に駆け付けてくれた信長に、足利義昭はおおいに感激したそう。しかし、この時信長が「必死だったか」どうかについては疑問がもたれています。

京の戦況は逐一信長のもとに届いていたはずですし、万が一手違いで情報が届かず、三好軍が健在だと考えていたならば、わずか10騎で1万以上の敵がひしめく京に飛び込むことはありえないでしょう。そのため織田信長の強行軍は「幕府の忠臣」を演じるパフォーマンスではないかとも考えられているのです。

 

本圀寺の変の影響は?御所建設、明智光秀は織田信長の直臣に

 

「本圀寺の変」の後、織田信長は、足利義昭の仮御所を本圀寺に置き続けるのは防衛面で不安があるとして、二条城を建設しました。

この二条城は、1603年に徳川家康が築城した二条城とは異なるものです。この場所にはもともと、足利義昭の兄である足利義輝が築いた「二条御所」と呼ばれる烏丸中御門第がありました。「永禄の変」で三好三人衆の襲撃を受け、義輝が命を落とした場所でもあります。

そこに御所を置くことは、足利義昭が義輝の後継者であることを天下に広く宣言することになり、大きな意味がありました。防衛面も考慮し、二重の水堀と高い石垣を備える堂々たる城郭が築かれます。

こうして二条城の主となった足利義昭のもとには、代々幕府に仕えてきた奉公衆をはじめとする人々が集まり、室町幕府の再興が実現しました。

しかしその一方で、織田信長は義昭の将軍権力を制限する「殿中御掟」を定め、義昭に承認させます。このなかには、「幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する」「訴訟は信長の家臣である奉公人の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない」などの条項が含まれていました。

信長の庇護がなければ命すら危ういことを「本圀寺の変」で身をもって味わった義昭は、これを拒むことができません。当初は9ヶ条だった「殿中御掟」は、2日後に7ヶ条、翌年に5ヶ条が追加され、義昭の将軍としての行動はどんどん制限されていきます。これが後に、足利義昭が織田信長と対立する要因のひとつとなるのです。

また、「本圀寺の変」で活躍した明智光秀の身にも大きな変化が訪れました。もともと足利義昭の家臣だった光秀は、「本圀寺の変」をきっかけに織田信長の直臣になり、義昭と信長という2人の主君をもつ身になったのです。

明智光秀は村井貞勝とともに、京を治める奉行に抜擢。「殿中御掟」にある「奉公人」にも名を連ね、織田家中で出世を重ねていくことになります。

 

『信長公記』を現代語訳で読む

著者
太田 牛一
出版日
2019-09-28

 

本書は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑に官僚として仕えた太田牛一が書き残した『信長公記』の現代語訳です。

『信長公記』は、織田信長の幼少期から足利義昭を奉じて上洛するまでを「首巻」とし、「本圀寺の変」の前後から「本能寺の変」までの15年間を1年ずつ1巻にまとめた全16巻で構成されています。

完成自体は織田信長の死後でしたが、太田牛一が若い頃から書き溜めていたものをまとめたもので信頼性は高く、信長を研究するうえで欠かすことのできない史料と評価されています。

表題に「地図と読む」とあるとおり、「本圀寺の変」をはじめ、「桶狭間の戦い」や「本能寺の変」など歴史上の出来事を視覚でわかりやすく理解できるように工夫が施されているのが特徴。信長にまつわる有名なエピソードからはその人柄も伝わってきて、飽きることなく読める一冊です。

 

本圀寺の変など、明智光秀の生涯を描いた歴史小説

著者
桜田 晋也
出版日

 

1986年に刊行された『叛将明智光秀』を改題したもの。歴史小説家、桜田晋也の作品です。

「歴史は勝者のもの」という言葉があるとおり、歴史では勝者が美化され、敗者は悪とされます。明智光秀も、「本能寺の変」で主君である織田信長を討ち、その後「山崎の戦い」で敗死したため、長らく悪として語られてきました。

しかし2020年の大河ドラマでは光秀が主役になるなど、近年その評価は変わりつつあります。本書は、明智光秀を再評価する先駆けともいえる作品で、知られざる彼の生涯に光をあてようと試みられた歴史小説です。

上巻では謎とされてきた明智光秀の前半生を、中巻では「本圀寺の変」の活躍をきっかけに織田家中初の城持ち大名に出世するまでを、そして下巻では「本能寺の変」を起こす経緯を描いています。

丹念な調査に裏付けされた物語は、おおいに説得力があるもの。明智光秀について知りたい人は、読んでおきたい一冊です。

 

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