5分でわかる明応の政変!戦国時代の始まり⁉目的や流れをわかりやすく解説

更新:2021.11.21

足利将軍家が分裂するきっかけとなった「明応の政変」。戦国時代の始まりともいわれています。この記事では、背景や目的、流れ、その後の影響などをわかりやすく解説していきます。

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明応の政変とは。応仁の乱後の後継者騒動を簡単に解説

 

室町時代の1493年、管領の細川政元が挙兵して10代将軍の足利義稙(よしたね)を廃し、足利義澄(よしずみ)を11代将軍に据えた事件を「明応の政変」といいます。これをきっかけに足利家は「義稙流」と「義澄流」に分裂することになりました。

まずは1467年に勃発した「応仁の乱」を振り返ります。この戦いは、管領を輩出する家柄である畠山氏と斯波(しば)氏の家督争いが、実力者である細川勝元と山名宗全の争いに発展したもの。さらに8代将軍の足利義政の後継者を巡る対立も絡み、全国に戦いが拡大しました。

この時、東軍の総大将だった細川勝元は、足利義政の実子である足利義尚を擁立。一方西軍の総大将だった山名宗全は足利義政の弟で養子となった足利義視を擁立します。

1473年に両軍の総大将である勝元と宗全が相次いで病死した後、9代将軍に就任したのは足利義尚でした。1474年、勝元の後を継いだ細川政元は、宗全の後継者である山名政豊と和睦を結び、「応仁の乱」を終息させます。

1487年、足利義尚は「応仁の乱」で弱体化した幕府の権力の再興を目指して、近江の六角高頼を討つために出陣しました。しかしゲリラ戦に悩まされ、約1年半もの長期戦のすえ25歳の若さで亡くなってしまいます。

義尚には子がなかったため、ここで後継者問題が浮上しました。細川政元は、堀越公方である足利政知の子、足利義澄を擁立。当時の義澄は出家していて、清晃と名乗り、天龍寺香厳院で禅僧となっていました。

一方、8代将軍である足利義政の正室で、足利義尚の母の日野富子や、元管領の畠山政長などは足利義視の子である足利義稙を擁立。そして、「政務を細川政元に一任する」という約束を交わしたうえで、10代将軍には足利義稙が就任しました。

しかし、日野富子や畠山政長らの影響力が大きくなり、足利義稙自身の政治力も強くなるなかで、「政務を細川政元に一任する」という約束はないがしろにされるようになり、政元は不満を募らせていくのです。

明応の政変の背景と目的。細川政元、足利義稙、足利義澄らの関係もわかりやすく解説

 

足利義稙は将軍に就任した後、足利義尚の政策を引き継ぎ、幕府の権威を再興するべく近江の六角氏征伐に乗り出しました。しかし、当時は丹波で一揆が起きていたため、細川政元はこの征伐に反対します。結果的に六角氏征伐は成功に終わったため、政元は立場を失って両者の関係は悪化していきました。

もともと西軍側だった足利義稙には、東軍の総大将だった細川政元に対する不信感があり、その影響下から脱して将軍親政を実現したいという思いがあります。また細川政元としても、「政務を一任する」という約束を反故にされていて、不満が高まっています。

そんななか、細川政元は足利義澄の父である足利政知へ接近を図り、1491年に義澄の母方の従兄弟にである聡明丸を養子にして自身の後継者に据えました。

政元のこの動きは、将軍を挿げ替えようとするものであり、当然ながら両者の関係はさらに冷え込んでいきます。

そんな状況のなか、1493年、足利義稙は河内の畠山基家を討伐するために、諸大名に出兵を命じました。これは畠山政長の要請によるもので、「応仁の乱」の原因でもある畠山氏の家督継承争いを、政長優位で決着させるのが目的でした。

しかし細川政元は強硬に反対します。細川氏と畠山氏はともに管領を輩出する三管領家で、もうひとつの管領家である斯波氏が越前や尾張などの地方を地盤とするのに対し、細川氏と畠山氏はともに畿内を地盤にしていて、ライバル関係にありました。畠山政長のもとで畠山氏が統一されることは、細川政元にとって強力な競争相手が現れることを意味します。

しかし足利義稙は、細川政元の反対を押し切って2月15日に出陣。2月24日に河内の正覚寺に本陣を置き、畠山基家側の城を次々に攻略しました。3月の時点で畠山基家はほぼ孤立し、敗北は目前となります。

さらに京都では、畠山基家を討伐した後、足利義稙が畠山政長の協力を得て細川政元を討つつもりであるという噂が流れました。政元が生き残るためには、先手を打って挙兵するしかなくなってしまったのです。

明応の政変の流れをわかりやすく解説

 

挙兵を決断した細川政元は、畠山基家や伊勢貞宗など、足利義稙と対立する大名と手を結びます。足利義稙の将軍就任を後押しした日野富子も、この頃には足利義稙や畠山政長と対立関係にあったため、政元の挙兵に同意しました。

さらに細川政元は、出家して龍安寺で尼僧になっていた姉を還俗し、足利義稙のもとで軍奉行を務める実力者、赤松政則に嫁がせ、赤松氏を味方に引き入れます。

赤松氏は室町幕府の軍事などを司る侍所の長官を輩出する家柄で、一色氏、京極氏、山名氏と並んで「四職」と呼ばれる名族です。しかし1441年に赤松満祐が6代将軍の足利義教を暗殺する「嘉吉の乱」を起こし、大名家としては取り潰されていました。

そんな赤松家の再興に尽力したのが、細川政元の父で、「応仁の乱」では東軍の総大将だった細川勝元です。細川政元の代になっても、両者は密接な関係を維持していました。

4月22日の夜、細川政元はついに挙兵。足利義澄を保護するとともに、足利義稙派の邸宅や兄妹がいる三宝院、曇花院、慈照寺などを襲撃し、京都を制圧しました。「明応の政変」の勃発です。4月28日には、出家していた足利義澄を還俗させて、11代将軍に擁立します。

細川政元が挙兵したという報せを受けた足利義稙の陣営は、動揺。伊勢貞宗や赤松政則などの有力者が足利義澄に従ったことを知ると、各大名や奉公衆はこれにならって陣を離れ、義澄のもとに参集します。足利義稙側に残ったのは、畠山政長だけでした。

その後細川政元は、約4万もの討伐軍を派遣。足利義稙と畠山政長は正覚寺に100以上の櫓を建てて寺を要塞化し、迎え撃ちます。さらに政長の領国である紀伊から1万もの援軍を呼び寄せました。しかし、頼みの綱の援軍も堺まで来たところで赤松政則に行く手を阻まれ、撃退されてしまうのです。

正覚寺の食糧が尽きた頃、討伐軍は総攻撃を開始。翌日には正覚寺が陥落し、畠山政長は自害。足利義稙も投降を余儀なくされ、「明応の政変」は終結しました。

明応の政変のその後。永正の錯乱とは

 

「明応の政変」の後、細川政元は幕府の実権を掌握し、「半将軍」と呼ばれるほどの権勢を振るって細川氏の全盛期を築きあげました。これ以降、それまで細川氏、畠山氏、斯波氏が交代で務めてきた管領職は、細川氏の宗家である京兆家が独占する「京兆専制体制」が構築され、三好長慶によって倒される1549年まで約半世紀の間続くことになります。

一方、「明応の政変」で降伏した足利義稙は、将軍から解任され、龍安寺に幽閉されました。その後近臣の手引きで脱出し、畠山氏の領国だった越中へ逃れ、畠山政長の重臣である神保長誠を頼ります。「越中公方」と呼ばれるようになり、1498年には越前の朝倉貞景、畠山政長の子である畠山尚順、比叡山延暦寺、根来寺、高野山などと連携して近江に攻め込みました。

この戦いは近江の六角高頼に敗れて失敗しますが、その後も周防の大内義興のもとに身を寄せ、京奪還の機会をうかがっていました。そしてその時は、1507年に訪れるのです。

生涯独身を貫いたため実子がいなかった細川政元。後継者候補として3人の養子を迎えていました。それぞれ、関白である九条政基の子、細川澄之。阿波細川氏の当主である細川義春の子、細川澄元。同じく細川家庶流の野洲家当主である細川政春の子、細川高国です。

もともと細川政元の後継者には細川澄之が決まっていましたが、両者は性格があわず、政元は1503年に細川澄元を後継者にしてしまいます。この事件をきっかけに、細川家の家臣は、昔から細川政元に仕えてきた香西元長、薬師寺長忠らを中心とする澄之派と、阿波出身の三好之長などを中心とする澄元派に分かれて対立。

そして1507年6月23日、細川澄之派の香西元長、薬師寺長忠らによって、湯殿で行水中の細川政元が襲撃され、暗殺されるのです。これを「永正の錯乱」といいます。

家督は一時細川澄之が継承しましたが、細川澄元は細川高国と連携して澄之を攻撃。8月1日に自害に追い込まれ、細川澄元が家督を継ぎました。

しかし今度は、細川澄元と細川高国が対立します。阿波細川氏の後ろ盾をもつ澄元に対抗するため、高国は周防に亡命中の足利義稙を頼ります。義稙は大内義興の大軍に守られて堺に上陸。上洛を果たして将軍に返り咲き、細川高国が家督を継承しました。足利義澄と細川澄元は京都を追われ、亡命生活を余儀なくされることになったのです。

その後、足利義稙・細川高国陣営と、足利義澄・細川澄元陣営は、世代を越えて長年にわたる抗争を続け、「義稙流」からは足利義維や足利義栄が、「義澄流」からは足利義晴、足利義輝、足利義昭らが輩出されました。

両派の争いは全国に下剋上の風潮を広げたため、「応仁の乱」ではなく「明応の政変」こそが戦国時代の幕開けだとする研究者もいます。

戦国時代への移り変わりを描いた一冊

著者
渡邊 大門
出版日
2011-05-18

 

ここまで説明したように、戦国時代の始まりについては、「応仁の乱」や「明応の政変」などの説があります。とはいえ特定の日に全国でいっせいに始まったわけではなく、室町幕府が弱体化して中央の権威が衰えるなかで、地方の守護代層が下剋上を果たしていく風潮が徐々に拡散していった結果が戦国時代だといえるでしょう。

本書では、赤松満祐が6代将軍の足利義教を暗殺した「嘉吉の乱」から、「応仁の乱」を経て、「明応の政変」までの約50年間を取りあげ、徐々に移りゆく時代の有りさまを紐解いていきます。

作者は、室町時代から戦国時代への移り変わりを「権威」から「権力」への移行だと主張。将軍や守護といった権威による秩序が崩壊し、武力や経済力で裏打ちされた権力をもつ者が台頭していったことをわかりやすく解説しています。「明応の政変」を起こした細川政元は、まさにその先駆けともいえるでしょう。時代の移り変わりを感じられる一冊です。

「明応の政変」など有名事件とともに足利歴代将軍を紹介

著者
清水克行
出版日
2017-10-03

 

室町幕府の歴代15人の将軍たちは、個性豊かな逸話をもつ者が多くいます。本書は、彼らの功績を人となりとともに紹介した作品です。

暗殺されたり、京から追放されたり、京を奪還したりのくり返し。それでもしぶとく200年以上も室町幕府は存続します。さまざまなエピソードから見えてくるのは、どのような逆境にあってもめげずに生き続ける諦めの悪さ。何度政争に敗れ、追放されようとも、足利将軍家の人々は京を目指して戦い続けていました。

「明応の政変」に敗れた足利義稙もそのひとりです。彼は事件後、幽閉先の龍安寺から脱出し、越中から京をうかがって、再び敗れた後も周防でチャンスを待ち、「明応の政変」から15年後に再び将軍に返り咲きます。

その生き方からは、現代の私たちも勇気をもらえるはず。逆境に身を置いている人に読んでもらいたい一冊です。

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