美濃攻略を目指す織田信長の前に強敵として立ちはだかった、斎藤義龍。2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場し、注目されています。この記事では、義龍の出自や、明智光秀・濃姫との関係、父である道三殺しや死因などをわかりやすく解説していきます。
1527年生まれの斎藤義龍。1534年に生まれた織田信長よりも7歳年上です。父親は下剋上の代表格「美濃のマムシ」と呼ばれる斎藤道三、母親は側室の深芳野(みよしの)です。
斎藤道三については、『美濃国諸旧記』などに書かれたものが通説とされてきました。それによると道三は、11歳で京都にある妙覚寺の僧侶となり、後に還俗。油商人の入り婿となって美濃で行商をし、その腕を見込まれて長井景弘の家臣になります。断絶していた長井家の家老、西村家を継いで「西村勘九郎正利」を名乗りました。
その後頭角を現すと、主君だった長井景弘を殺害して「長井新九郎規秀」と名を改めます。さらに美濃守護代の斎藤利良が亡くなると、その名跡を継いで「斎藤新九郎利政」と名を変え、美濃の守護だった土岐氏を追放して、事実上の美濃の国主になりました。
自分よりもはるかに優れた家柄の者を次々に倒し、そのたびに名を変えて勢力を大きくしていくさまが、大きな獲物をも丸呑みして脱皮をくり返しながら成長するマムシに似ていると恐れられたのです。
この通説通りならば、斎藤義龍が生まれたのは、斎藤道三がまだ「西村勘九郎正利」を名乗っていた頃のこと。しかし近年の研究では、この経歴は斎藤道三ひとりのものではなく、彼の父である長井新左衛門尉の経歴も混ざっていると考えるのが主流になっています。斎藤道三の名が史料上初めて出てくるのは、長井新左衛門尉が亡くなった1533年のこと。実際のところ、それ以前の道三の前半生はよくわかっていないのです。
斎藤義龍の母である深芳野は、定かではないものの名族である一色左京大夫義清の娘で、「美濃国一」といわれるほどの美女だったんだとか。『美濃国諸家系譜』によると、身長は187cmもあったそうです。
もともと深芳野は、美濃守護である土岐頼芸の側室でしたが、1526年12月に斎藤道三に下賜され、側室となります。斎藤義龍が生まれたのは、1527年7月のこと。そのため、道三の側室になった時点で深芳野は土岐頼芸の子を妊娠していたのではないかといわれています。
つまり、斎藤義龍の父親は斎藤道三ではなく、土岐頼芸であるということです。
斎藤道三には、わかっているだけでも9人の男児と7人の女児、それに1人の養子がいます。そのうち、特に有名なのが息子の斎藤義龍と、娘の濃姫です。
濃姫は織田信長の正室となったことで知られていますが、その名前は「美濃から嫁いできた姫」の略称であって、本名ではありません。本名は『美濃国諸旧記』にある「帰蝶」とするのが一般的ですが、『武功夜話』では「胡蝶」とされています。
斎藤義龍が側室の子であるのに対し、濃姫は斎藤道三の正室である小見の方の子。出身は東美濃の明智氏で、父親は明智光継です。明智氏は土岐氏の支流で東美濃の名族ですが、斎藤道三が台頭すると従属し、いわば人質として小見の方を差し出したといわれています。
小見の方の兄である明智光綱は、明智光秀の父親とされる人物で、この系図が正しいとすると、濃姫と明智光秀は実の従兄弟、斎藤義龍と明智光秀は義理の従兄弟ということになるのです。
1554年、斎藤義龍は父である斎藤道三から家督を譲られます。道三は斎藤義龍を「無能」「おいぼれ」と馬鹿にし、義龍の弟である龍重や龍定らを溺愛していました。
当時の慣習からして、側室の子である斎藤義龍が跡を継ぐのは違和感があり、道三は自発的に「譲った」のではなく、「譲らされた」あるいは「追放された」と考えるのが主流になってきていますが、定かではありません。
一方の斎藤義龍も、道三に対して不信感や不満をもっていました。義龍が自分の出自をどのように考えていたかは定かではありませんが、美濃の武士たちのなかには彼が土岐頼芸の子であると信じる者が少なからずいたことは十分に考えられます。仮に斎藤義龍自身もそのように信じていたとするならば、斎藤道三は父ではなく、父の敵ということになるのです。
また、本来は土岐氏や一色氏など名門の血を引いているのに、自分よりも身分の低い成り上がり者である斎藤道三から認められないことも、大きな屈辱だったと考えられるでしょう。
両者の関係が悪化するなか、1555年に対立を決定づける出来事が起こります。斎藤道三が斎藤義龍を廃嫡し、斎藤龍重を当主に据え、斎藤龍定に一色の名を名乗らせようとしたのです。ちなみに龍重は正室である小見の方の子、龍定は斎藤義龍と同じく側室の深芳野の子といわれています。
1555年11月22日、斎藤義龍は叔父とも庶兄ともされる長井道利と共謀し、龍重と龍定を殺害。この事態に驚いた道三は、大桑城に逃れます。
そして翌1556年4月、両者は長良川で決戦に臨みました。土岐家の家臣だった者の多くを味方につけた斎藤義龍軍約1万7千に対し、斎藤道三の兵力はわずか2700ほど。
織田信長は、舅である斎藤道三を救おうと援軍を率いて向かいますが間にあいません。ここで斎藤義龍は、父である斎藤道三を討ち取ることになるのです。
斎藤道三を殺した後、斎藤義龍は道三に味方した明智氏の居城である明智城を攻め落としました。これによって明智光秀は一家離散の憂き目にあい、10年におよぶ流浪の生活を余儀なくされたといわれています。
その後、斎藤義龍は長年の内乱で混乱した所領問題を整理し、宿老たちによる合議制を導入するなど、戦国大名としての基盤をつくりあげました。さらに室町幕府の第13代将軍、足利義輝に接近し、一色氏を称することを認めさせ、1559年には幕府の役職である御相伴衆に任じられます。
御相伴衆への任命は、足利義輝による将軍権威回復のためにおこなわれた政策で、斎藤義龍のほかに毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎などがいました。
さらに斎藤義龍は、尾張上四郡を支配する織田信安や、織田信長の弟である織田信行など織田一族に対して離間工作を盛んに実行し、織田信長を苦しめます。
しかし1561年、33歳の若さで急死しました。死因については、ハンセン病だといわれていますが、暗殺されたという説もあり定かではありません。
斎藤義龍の跡を継いだのは、当時14歳だった息子の斎藤龍興です。凡庸、無能と評されることが多く、義龍の時代に結束を誇った家臣団からの信頼を失い、1567年に居城の稲葉山城を攻略され、美濃斎藤氏は滅亡することになりました。
- 著者
- 横山住雄
- 出版日
- 2015-09-10
本書は、斎藤家のお膝元ともいえる岐阜県に生まれ、犬山市役所に長年勤めた作者が歴史研究家として丹念に収集した資料をもとにまとめたものです。
美濃斎藤家というと、マムシと恐れられた斎藤道三や、そんな父を殺した斎藤義龍、無能であったがゆえに国を失ってしまった斎藤龍興など、これまであまりいいイメージで語られることがありませんでした。
しかし本書を読むと、 斎藤義龍への印象は大きく変わるはず。実は領国経営に心を配り、家臣の信頼を得て、織田信長を存分に苦しめた「名君」としての一面ももちあわせていました。これまであまり知られていなかった美濃斎藤氏に光を当てたという意味で、とても意義のある一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2019-11-30
2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀を主役にすえています。本書は同作をより楽しめるようにと、放送に先駆けて発売されたハンドブックです。
謎に包まれている前半生から、ハイライトとなる本能寺の変まで、明智光秀の生涯を辿るだけでなく、当時の時代背景などについても最新研究を踏まえたうえで解説されています。
斎藤義龍は、光秀の学友として登場。また光秀は斎藤道三に仕え、濃姫と光秀は実の従兄弟、斎藤義龍と光秀は義理の従兄弟なので、両家の関係は深いものだといえるでしょう。ドラマを見る際は斎藤義龍の活躍にも注目してみてください。