織田信長の家臣として頭角を現していた明智光秀。丹波の攻略を命じられますが、「黒井城の戦い」に大苦戦しました。この記事では、2度にわたる戦いの背景、経緯、結果をわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
まず1575年10月から1576年1月15日にかけておこなわれた「第一次黒井城の戦い」について解説していきます。
黒井城は現在の兵庫県丹波市にある城で、別名を「保月城」「保築城」ともいいます。建てられたのは1335年頃とされ、足利尊氏に従って新田義貞軍と戦った赤松貞範が、その功績によってこの地を賜り築城されました。
以降、赤松氏が5代にわたってこの地を治めていましたが、1530年代頃には荻野秋清が城主になっています。城主が変わった経緯については史料が残されておらず、詳しいことはわかっていません。
赤井直正は、1529年に後屋城の城主である赤井時家の次男として生まれ、黒井城の城主である荻野氏のもとで幼少期を過ごした後、そのまま養子になりました。そして1554年突如として荻野秋清を暗殺し、黒井城を乗っ取るのです。理由はわかっていませんが、これ以降彼は「悪右衛門直正」と呼ばれるようになります。
1570年には、甥の赤井忠家とともに織田信長に拝謁し、従属。しかし1571年、同じく信長に従属する山名祐豊が丹波に侵攻してくると、赤井直正はこれを撃退し、逆に山名祐豊の居城である此隅山城と竹田城に攻め入ります。
この事態に、山名祐豊は織田信長に救援を求めました。「信長包囲網」によって苦戦を強いられていた信長が、明智光秀率いる軍勢を送ることができたのは1575年のことです。赤井直正は「信長包囲網」に参加し、黒井城に立て籠もって光秀と闘う道を選びました。これを「第一次黒井城の戦い」といいます。
もともと赤井直正が織田信長に従属したのは、信長が第15代将軍の足利義昭を奉じていたから。しかしすでに両者の関係は冷え込み、1573年には足利義昭が挙兵していました。赤井直正が織田信長に従属する理由はなくなっていたのです。
また、先に侵攻してきたのは山名祐豊なのに、その援軍要請に応じるという織田信長の判断も、不信感が高まり離反の要因になったと考えられています。
1575年10月、明智光秀は赤井直正のいる丹波に攻め込みました。波多野秀治、波多野秀香、波多野秀尚など有力な国人たちを従え、赤井直正が立て籠もる黒井城の周辺に砦を築き、包囲します。
光秀が但馬の親毛利派である八木豊信に送った書状には「城の兵糧は来春までは続かないで落城するであろう」と書かれていて、当初は戦況を楽観視していたのかもしれません。ただ敵方の武将に送った書状なので、実際のところ光秀がどう考えていたかは不明です。
戦況が大きく動いたのは、開戦してから3ヶ月ほどが過ぎた1576年1月。波多野秀治をはじめとする波多野一族が突如として明智光秀を裏切り、光秀軍に3方向から襲い掛かります。軍は退却しようとしますが、その先で赤井忠家の待ち伏せにあい、丹波から追い出されることになりました。
波多野秀治の裏切りは、縁戚関係にある赤井直正と事前に打ち合わせて実行したものだといわれていて、「赤井の呼び込み軍法」と呼ばれています。
この一件で赤井直正の名は、「丹波の赤鬼」という通称とともに全国的に有名になりました。
1577年10月頃、明智光秀は再び丹波の討伐に乗り出します。「第一次黒井城の戦い」での敗北から約1年半後のことですが、この間光秀は、織田信長の軍団として、石山本願寺攻めや加賀攻め、信貴山城の戦いなどに参加していました。
一方で赤井直正は、「信長包囲網」の一角を担い、足利義昭をはじめ、吉川元春や武田勝頼など諸大名からの使者を黒井城に招き、盛んに交流をしていました。特に吉川元春に対しては太刀や馬を贈り、援軍を要請しています。
また織田信長は、丹波の豪族である国人衆を切り崩すために、調略を試みていました。
信貴山城の戦いが終わった後、再び丹波討伐に乗り出した明智光秀ですが、まずは周辺の城から個別に撃破していく作戦をとります。
1578年には、織田信長から援軍として送られてきた細川藤孝、忠興父子とともに波多野秀治の籠る八上城を包囲。1年半にわたり兵糧攻めをします。やがて城内の兵糧は尽き、数百人もの餓死者が出るような状況になりました。
明智光秀は、波多野秀治の助命を条件に降伏を勧告。証人として、自分の母親を人質に差し出しました。秀治もこの条件を受け入れます。
しかし織田信長は、安土城に送られてきた波多野秀治と、弟の波多野秀尚、波多野秀香を磔の刑にしてしまうのです。これに怒った波多野氏の残党は、人質になっていた光秀の母親を磔に。この時の信長の仕打ちが、明智光秀が「本能寺の変」を起こした理由のひとつになったと指摘する研究者もいます。
いずれにせよ、八上城が陥落したことで、丹波における明智光秀の敵は黒井城のみ。「第二次黒井城の戦い」が始まります。
波多野秀治の八上城が明智光秀に包囲された1578年3月、赤井直正が黒井城で病死しました。丹波の赤鬼と呼ばれ、実質的な指導者だった直正の死は、国人衆たちを大きく動揺させます。
波多野秀治らが安土城で処刑された後、明智光秀は1579年7月に再び丹波に攻め込み、黒井城を包囲しました。「第二次黒井城の戦い」です。
赤井直正が亡くなった後、城主の赤井忠家を補佐したのは、直正の弟である赤井幸家。しかし「第一次黒井城の戦い」の時のように波多野家からの援軍に期待することもできず、周辺の支城も落とされ、兵力は激減していました。光秀軍の1万に対し、赤井軍は約2000ほどだったそうです。
本格的な攻撃は8月9日の早朝に開始されました。赤井軍も奮戦したものの、黒井城は同日中に陥落。明智光秀による丹波討伐戦は、事実上終了しました。
丹波を平定した光秀の功績は、織田信長から称賛され、褒美として丹波の地を与えられます。また畿内地方を統括する軍団長に任じられました。
黒井城を落とされた城主の赤井忠家は、後に豊臣秀吉に仕えて朝鮮出兵に従軍。「関ヶ原の戦い」では徳川家康の東軍側で参加し、1605年に亡くなりました。
- 著者
- 柴 裕之
- 出版日
- 2018-12-15
戦国時代の政治権力と社会を研究する作者が、明智光秀の人生を解説した作品です。
光秀にとって手痛い敗北だった「第一次黒井城の戦い」ですが、反省を活かして丹念に調略し、「第二次黒井城の戦い」では見事に勝利。織田信長からも絶賛されました。
日本人でその名を知らないという人はまずいないのではないか、というほど有名でありながら、多くの謎に包まれた明智光秀。系図も収められていますが、父親の名前すら判然としないのです。そんななかで史料を読み解きながら見えてくる人物像は、どんなものなのでしょうか。
フルカラーで、多くの図版が用いられているのが特徴。文章もわかりやすく、入門書として初心者でも手に取りやすい一冊でしょう。
- 著者
- 小和田哲男
- 出版日
- 2019-06-14
戦国時代を専門とする歴史学者、小和田哲男の作品。小和田は、明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では時代考証を担当しています。
本書は、明智光秀と、女婿の明智秀満に注目し、2人の人生や人となりを解説した作品です。最終的には、光秀が「本能寺の変」を起こした背景と動機に迫っていきます。
各章は短く簡潔にまとめられているので、興味のあるところだけ読むのもOK。2度にわたる「黒井城の戦い」もしっかり取りあげられています。