北条早雲、斎藤道三と並んで「三梟雄」と呼ばれた松永久秀。織田信長を2度も裏切ったエピソードが有名です。また築城の名手で、茶器の収集家としても知られています。この記事では、そんな松永久秀の生涯を解説。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
1508年生まれとされている松永久秀。出身地については阿波や摂津など諸説あり、定かではありません。織田信秀の父親である織田信秀が1511年生まれなので、信長よりも1世代上の人物だと考えるとよいでしょう。
1534年頃から三好長慶(ながよし)に仕えはじめたといわれていて、史料上に初出するのは1540年です。当時は、朝廷に認めれた官職のひとつ「弾正忠」を名乗り、三好家の奉行職を務めていました。松永久秀が別名として松永弾正と呼ばれるのも、ここに由来しています。
三好長慶は、もともと細川氏の一家臣に過ぎませんでした。しかし勢力をつけるにつれて、家柄にはとらわれない能力重視の人事登用を実行。松永久秀もその代表格です。
官僚または武将として三好政権の樹立に貢献し、京の公家や寺社と三好家の交渉役も担当。三好家の家政を取り仕切る家宰にまで昇り詰めます。
1560年、筒井順慶を倒して大和の北部を平定し、1561年には朝廷から従四位下を授けられました。足利義輝からは、桐紋と塗輿の使用を認められます。この待遇は、松永久秀の主君である三好長慶と同等のもの。畿内において久秀は、主君と拮抗する力をもつ存在と認められるようになったのです。
日本に長期滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、著作『日本史』のなかで松永久秀について、「偉大かつ稀有な天稟をもち、博識と辣腕を持つ腕利きであるが、狡猾である」と評価。「五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行われない」と、その力の強さを記しています。
1561年以降、三好長慶には弟の十河一存と息子の三好義興が相次いで亡くなるなど、不幸が続きました。これら三好政権幹部の死に関しては、松永久秀の暗殺説もありますが、真偽のほどは明らかになっていません。
1564年5月には、長慶の弟である安宅冬康が亡くなり、7月には長慶自身も急死。三好家の家督は、長慶の養子である三好義継が継承し、松永久秀は「三好三人衆」と呼ばれる三好長逸、三好政康、岩成友通らとともに後見人になりました。
1565年、三好義継と三好三人衆、松永久秀の息子である松永久通が、将軍親政を目指していた足利義輝を襲撃し、殺害する「永禄の変」を起こします。
松永久秀はこの事件の首謀者といわれていますが、当日は大和にいて、襲撃自体には参加していません。ただ足利義輝殺害計画を知らなかったとは考えられず、少なくとも黙認していたといえるでしょう。
三好義継や三好三人衆は、義輝の子を妊娠していた側室や、義輝の弟である周暠(しゅうこう)も殺害。しかし松永久秀は、義輝の弟で興福寺一条院の門跡だった覚慶(後の足利義昭)は殺さずに、幽閉にとどめました。
このことから、三好義継と三好三人衆、松永久秀の思惑が必ずしも一致していなかったことは明らかです。そして実際に、このあと両者は断交し、畿内を二分する争いへと発展することになります。
松永久秀と三好義継、三好三人衆の争いは、有力な三好一門が義継と三好三人衆側についたため、当初は秀久の劣勢でした。しかし1567年に、義継と三好三人衆の関係が悪化。義継は松永久秀側に寝返ります。
これをきっかけに勢いを取り戻した松永久秀は、10月に三好三人衆が陣を置いていた東大寺を奇襲し、勝利しました。この時、東大寺の大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちたそうです。
東大寺大仏殿の戦いに勝利した松永久秀ですが、それでも戦況を逆転させるには至らず、1568年6月には二大拠点のひとつである信貴山城が陥落。久秀は居城である多聞山城に追い詰められました。
ここで久秀が打開策として考えたのが、織田信長の上洛です。すでに1566年頃から根回しをしていた形跡もあり、1568年9月に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、三好三人衆を相次いで撃退。久秀は窮地を脱しました。10月に織田信長に対して人質と茶器「九十九髪茄子」を差し出し、大和一国の支配を認められています。
さらに松永久秀は、信長による朝倉義景討伐戦にも参加し、浅井長政の裏切りによって退却を余儀なくされると、退路の要所である朽木谷の領主を説得して、信長の窮地を救いました。この撤退戦は「金ヶ崎の戦い」と呼ばれています。その後も三好三人衆との和睦交渉や、石山本願寺との戦いに従事しました。
当時の松永秀久は、一般的には織田信長の家臣だったと考えられていますが、足利義昭の幕臣として活動していた形跡もあり、かなり複雑な立場だったそう。足利義昭と織田信長の関係が良好な時はよいですが、両者の関係が悪化するにつれて、久秀の立場も微妙なものになっていくのです。
そして1572年、松永久秀は信長包囲網に参加することを決断し、三好義継や三好三人衆らとともに挙兵しました。
しかし主力の武田信玄が1573年4月に病気で亡くなると、7月には足利義昭が「槇島城の戦い」に敗戦、11月には三好義継が「若江城の戦い」で戦死。孤立した松永久秀は、多聞山城を包囲されて降伏します。
この時信長は、1度は反旗を翻した久秀を許し、石山本願寺攻めに参加させました。しかし1577年、久秀は石山本願寺攻めから離脱して、信貴山城に籠城。再び信長を裏切ったのです。信長は使者を送って理由を問いただそうとしましたが、久秀は使者に会おうともしなかったそう。そのため、久秀が裏切った理由は明らかになっていません。
織田信長は、息子の織田信忠を総大将とする大軍を送り込んで信貴山城を包囲しました。久秀は、最後の頼みの綱である越後の上杉謙信を頼ります。謙信は上洛を開始し、「手取川の戦い」で柴田勝家率いる織田軍を撃破。しかし能登の七尾城まで進んだところで、進軍を止めてしまいました。これは豪雪のためとも、関東の北条氏政の動きを警戒したためともいわれています。
その後、松永久秀を高く評価していた織田信長は、名器といわれる茶器「古天明平蜘蛛」と引き換えに和解を提案。しかし久秀はこれに応じず、「古天明平蜘蛛」をたたき割って城に火を放ち、自害しました。68歳でした。
松永久秀の戦い方の特徴に、自分は籠城して敵を引きつけ、その間に地方の実力者の上洛を促し逆転を狙う方法があります。日本地図全体を俯瞰して見なければ実行できない作戦で、武将としての才能を大いに感じさせてくれるでしょう。
この作戦で重要になるのが、籠城する城の堅牢さです。味方がやってくる前に落城してしまっては意味がありません。
松永久秀は築城の名手といわれていて、後に一般的になる天守を中心とする「城郭建築」の第一人者でした。そんな彼が大和支配の拠点として、1560年に築城を始めたのが多聞山城です。平城京の北方にあり、仏教で北方の守護神とされる多聞天を城内に祀ったことが名前の由来になっています。多聞山城はたびたび包囲されますが、降伏することはあっても攻め落とされることはありませんでした。
また多聞山城は、防御面だけでなく、美しい城としても有名です。南東に東大寺、南に興福寺を見下ろす標高115mの眉間寺山に築かれ、それまで寺院や公家などの屋敷にしか用いられなかった礎石や石垣を使用し、4層の櫓や長屋状の多聞櫓を備え、壁には漆喰を塗り、瓦葺の御殿には狩野派絵師の絵画が描かれるなど、西日本随一の豪華な城だったといわれています。
城を見学する機会を得たイエズス会宣教師のルイス・デ・アルメイダは、「世界中でこの城ほど善かつ美なるものはない」と書簡に書き記しました。
室町時代中期、足利義政の茶の師匠である村田珠光(じゅこう)が説いた、亭主と客との精神的な交流を重視する「わび茶」が広まるにつれて、政治交渉や情報交換の場として茶会は欠かせないものとなりました。
松永久秀は、大和出身の茶人である武野紹鴎(じょうおう)に師事し、茶人としても知られるようになります。単なる趣味ではなく、三好家の家宰として、京の幕府や公家、寺社との交渉役を担っていた久秀にとって、茶は身に付けなければならない必須技能でした。同様に連歌や能も学び、三好長慶らに披露した記録が残されています。
織田信長が松永久秀を重用していたのも、茶や連歌など京で仕事をするうえで必須の技能を身に付けていたことが理由のひとつにあるのは間違いありません。尾張の地方大名にすぎない織田家のなかにはこれらを会得していた者はほとんどおらず、明智光秀や細川藤孝が重用されたのも同様の理由だと考えられます。
また松永久秀は、茶人であると同時に、名器と呼ばれる茶器の収集家としても知られ、「九十九髪茄子」や「古天明平蜘蛛」を所有していました。
「九十九髪茄子」は、もともとは足利義満が所有していた茶入れで、その後足利義政が山名是豊に与え、朝倉教景を経て、1558年に松永久秀が1000貫で買い求めたもの。1568年に織田信長に献上され、「本能寺の変」で被災しますが、幸いにも焼け跡から発見されました。
それからは豊臣秀吉、有馬則頼、藤重藤元の手を渡り、1876年に三菱財閥2代目総帥の岩崎弥之助のもとへ。現在は静嘉堂文庫美術館にて保管されています。
一方の「古天明平蜘蛛」は、蜘蛛が這いつくばっているような形をした茶釜です。松永久秀が入手した経緯は明らかになっていませんが、織田信長から何度も所望されても断り続けるほど愛着を抱いていました。
松永久秀の最期について、「古天明平蜘蛛」に火薬を詰めて爆死し、遺体は木っ端微塵になったという逸話があるほどです。これは後世に生まれた俗説で、実際の死因は切腹。首級は安土城に運ばれ、遺体は筒井順慶によって達磨寺に葬られました。
「古天明平蜘蛛」は、消失したされる一方で、焼け跡から破片を集めて復元した、切腹の際に破壊したものは偽物など現存説もあり、静岡県の浜名湖舘山寺美術博物館には「平蜘蛛釜」として伝えられている茶釜が保管されています。
- 著者
- 天野 忠幸
- 出版日
- 2018-06-21
歴史の研究が進むなかで、石田三成や明智光秀など、悪名高い武将たちのイメージが大きく覆される事例が相次いでいます。取りあげる松永久秀もそのひとり。「三好家乗っ取り」「永禄の変」「東大寺大仏殿焼き討ち」という三悪事によって「梟雄」と呼ばれる久秀ですが、そのイメージが徐々に変わりつつあるのです。
本書は、三好氏と松永氏の研究を専門とする作者が、資料を丹念に読み込み、松永久秀の実像を浮き彫りにしようと試みているもの。主家である三好家を乗っ取ったと考えられてきた松永久秀が、実は最後まで主家に忠義を尽くす武将だったという新たな姿が浮かびあがってきました。
次々に明かされる事実に、いかに松永久秀という人物が時の流れのなかで歪められてしまったのかと驚くでしょう。
- 著者
- 金松誠
- 出版日
- 2017-06-15
信長を2度も裏切った男、爆死などから破天荒な武将と考えられてきた松永久秀。三好三人衆や信長の関連人物として語られることが多いですが、本書では松永久秀について書かれた数少ない資料をもとに、松永自身の生涯を紐解いていきます。
100ページほどと読みやすいボリュームに概要がまとめられているので、初心者にもおすすめです。
悪人、名将、裏切り者、知恵者などさまざまな形容詞を付けて語られることの多い松永久秀。本書を読むと、これらの言葉は決して矛盾するものではなく、松永久秀という男の中にどれも確かにある要素なのだと感じられるでしょう。