足利義輝の生涯とは。「永禄の変」や信長との関係を解説、おすすめ小説も

更新:2021.11.21

わずか11歳で室町幕府の第13代将軍に就任し、30歳の若さで非業の死を遂げた足利義輝。この記事では、義輝が命を落とした「永禄の変」や、三好家・松永久秀・織田信長らとの関係などをわかりやすく解説していきます。また足利義輝を主人公にした小説なども紹介するので、最後までチェックしてみてください。

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足利義輝はどんな人?三好家と対立、和睦をくり返す

 

1536年、室町幕府第12代将軍の嫡男として、京都の南禅寺で生まれた足利義輝。幼名は菊童丸、母親は関白である近衛尚通の娘でした。第3代将軍の足利義満依頼、足利将軍家の正室である御台所は、日野家から迎えられるのが通例。しかし足利義輝の母親は史上初めての、摂関家出身の御台所です。

義輝の性格について、日本に長く暮らしていたイエズス会宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』のなかで「とても武勇に優れ、勇気ある人だった」と称賛しています。

また剣豪として高名だった塚原卜伝(ぼくでん)から指導を受けていて、剣の技量も優れていたそうです。

当時の室町幕府は、将軍の足利義晴と管領の細川晴元の間で権力争いが起きていて、義晴はたびたび京を追われ、亡命生活を送っていました。そのため義輝も父に従って、京と亡命先の近江を行き来します。

1546年12月、足利義輝は足利義晴から将軍職を譲られ、第13代将軍に就任。義晴も11歳で将軍になったことから、義輝も同じ年齢で引き継いだのです。ただ実権は、大御所となった義晴が握ったままでした。

1548年に、足利義晴と細川晴元の間で和睦が成立、京に戻ります。しかし細川晴元の家臣だった三好長慶(ながよし)が謀反を起こし、1549年には細川晴元ともども京から追われ、近江に逃げることを余儀なくされました。

1550年に足利義晴が40歳の若さで亡くなると、足利義輝は三好長慶との間で合戦をくり返すようになります。

ただ、「最初の天下人」とまでいわれる三好長慶ですが、何度も兵を挙げる足利義輝をその都度撃退しつつも、命を奪うことはしませんでした。これは、三好長慶が旧来の秩序や権威を重んじる人物であったことを示しているといえるでしょう。

1558年に和睦が成立すると、足利義輝は京に戻り、1560年に三好長慶は幕府の相伴衆に任じられます。さらに三好長慶は自身の嫡男に足利義輝から「義」の一文字を賜って三好義長と名乗らせました。

足利義輝と三好長慶の提携によって幕政は安定。義輝は大名同士の争いを調停し、諸大名に官位や偏諱を与え、有力な大名を相伴衆に任じるなど念願だった将軍親政による幕府の再興を目指します。

しかし、1564年に三好長慶が急死したことで、足利義輝の運命も急転することになってしまうのです。

 

足利義輝は松永久秀と対立し「永禄の変」で死す。辞世の句は?

 

三好長慶が実質的な指導者となったことで安定していた室町幕府。しかし、1561年から立て続けに不幸が襲います。

長慶を長年にわたって支えてきた実弟の十河一存(そごうかずまさ)、三好実休(じっきゅう)が相次いで亡くなってしまうのです。さらに1563年には嫡男の三好義長が22歳の若さで亡くなります。これによって長慶は身も心も病み、正常な判断能力を失ってしまいました。

1564年5月、三好長慶は弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を居城の飯盛山城に呼び出して殺害。これは、長慶の家臣である松永久秀の差し向けによるものだったそうです。真相を知った三好長慶はさらに苦しみ、7月4日に43歳の若さで病死してしまいました。

家督は、十河一存の子で、三好長慶の養子となっていた三好義継が受け継ぎますが、まだ16歳と若かったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)が後見人となりました。

三好氏が一連の不幸で混乱しているのを尻目に、足利義輝は幕府の再興を進めます。しかし松永久秀や三好三人衆にとって、将軍親政を目指す足利義輝の存在は邪魔なもの。彼らには三好長慶のように将軍を重んじる気持ちはなく、傀儡が望ましいと思っていました。

1565年5月19日、三好三人衆と松永久秀の子の久通、そして三好義継は、清水寺への参詣を名目として約1万の兵を率い、足利義輝のいる二条御所を襲撃。この事件を「永禄の変」といいます。義輝は自ら薙刀や刀を振るって抵抗しましたが、殺されました。29歳でした。

辞世の句は、「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」。

1567年2月10日に京でおこなわれた足利義輝の追善では、身分や性別を問わず約8万人もの人が集まり、その死を悼んだそうです。

 

足利義輝と織田信長の関係は?

 

1559年、足利義輝は1度だけ、織田信長と会っています。義輝は三好長慶と和睦を結んで京に戻り、幕府再興に乗り出すところでした。

一方の織田信長は、1552年に父の信秀が亡くなって家督を継いでから、7年掛かりで尾張の大半を統一したところです。義輝に謁見し、尾張を支配する新たな統治者として足利将軍家によるお墨付きを得たいと考えていました。

また信長は、三好長慶が治める堺の町を見学し、鉄砲や南蛮の文物など先進的な文化を目にし、大きな衝撃を受けたそうです。信長が長慶と会ったという記録はないものの、後の信長の政策には長慶の影響が数多く見受けられます。

1565年の「永禄の変」で足利義輝が亡くなると、義輝の弟の足利義昭は幽閉先から逃れ、越前の朝倉義景、次いで織田信長を頼りました。

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。第14代将軍に足利義栄を擁立していた三好三人衆を倒し、義昭を第15代将軍に据えます。

しかし1569年、信長が美濃に戻った隙を突いて三好三人衆が挙兵し、義昭が仮御所を置いていた本圀寺を襲いました。これを「本圀寺の変」といいます。あわや「永禄の変」の再来かという危機でしたが、明智光秀らの奮戦によって足利義昭は窮地を脱しました。

「本圀寺の変」をきっかけに、織田信長はかつて足利義輝が非業の死を遂げた二条御所の跡地に二条城を築き、義昭は二条御所を拠点に兄の遺志を継ぎ、室町幕府の再興を目指すことになるのです。

その後、足利義昭と織田信長は、かつての足利義輝と三好長慶のように対立と和睦をくり返し、最終的に義昭は信長から追放されてしまいました。ただ三好長慶同様に、信長もまた、義昭の命まで奪おうとはしませんでした。

 

足利義輝を主人公にした時代小説

著者
宮本昌孝
出版日
2011-11-02

 

1995年に刊行された宮本昌孝の作品。時代小説作家として有名な作者ですが、デビューしたのはSF小説です。重厚な作風ながらユーモアや明るさが滲む作風で人気を集めています。

本作の主人公は、足利義輝。戦乱のなかで生まれ、時代の波に翻弄されながらたくましく生きる若き剣豪将軍は、武芸者の霞新十郎として、廻国修行の旅に出ます。2人の女性との恋模様やライバルとの高めあい、斎藤道三や織田信長など英雄たちとの出会いなどがいきいきと描かれているのが魅力です。

さまざまな経験をしながら剣豪として、そして将軍として成長していくさまは、青春小説としても読むことができるでしょう。文庫で上・中・下巻と長編ですが、最後まで飽きずに読める作品です。

 

義輝・義昭兄弟の生きざまとは

著者
山田康弘
出版日
2019-12-17

 

第13代将軍の足利義輝と、その弟で第15代将軍の足利義昭に焦点を当てた作品。「義輝はなぜ三好長慶と対立したのか」「義昭はなぜ反信長の兵を挙げたのか」などの問いに答える形式で、彼らの生きざまがまとめられています。

戦国時代というと既存の秩序や権威は通用しなくなり、力だけがモノをいう時代だったと考えがち。しかし足利義輝は諸大名の争いに介入し、官位や偏諱などを与えることで室町幕府の再興を目指し、実際に成果を挙げつつありました。

また足利義昭も、「信長包囲網」を構成するために御内書を下し、少なからぬ大名がこれに従って反信長の兵を挙げています。

つまり戦国時代においても、将軍の旧来の秩序や権威がある程度の効力を保持し続けていたということ。本書を読めば、そんな時代のなかで彼ら兄弟がどのように生きてきたのかを知ることができるでしょう。文章も平易で読みやすいので、初心者の方にもおすすめです。

 

足利義輝は西洋人からどのように評価されたのか

著者
ルイス フロイス
出版日
2000-01-01

 

イエズス会の宣教師として日本で活動していたルイス・フロイスがまとめた『日本史』を日本語訳した作品です。文庫で全12巻という大作で、1巻には日本に初めて降り立った西洋人たちが感じた驚きの異文化、奈良や堺などの都市の華やかさ、そして足利義輝が殺害される「永禄の変」などが記されています。

特に「永禄の変」に関しては、まるでフロイス自身がその場にいたかのように詳細に描かれているのが特徴。それはフロイスが「とても武勇に優れ、勇気ある人だった」と高く評価していた足利義輝の死に、大いに関心を寄せていたからだと考えられます。

さまざまな勢力が複雑に絡みあう戦国時代の構造は、日本人からしても理解が難しいものですが、彼ら宣教師たちは丹念に分析し、イエズス会を広めるためにはどこから食い込んでいくべきか、入念に作戦を練っていました。日本史の重要な史料としても評価される本書、ぜひ読んでみてください。

 

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