室町幕府最後の将軍、足利義昭。いったいどんな人だったのでしょうか。この記事では、義昭が将軍になるまでの道のり、織田信長や明智光秀との関係性などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。
足利義昭は、1537年、室町幕府第12代将軍の足利義晴と正室の間に次男として生まれました。幼名は千歳丸。兄弟は、ひとつ上で後に第13代将軍になる足利義輝と、弟の周暠(しゅうこう)がいます。
足利将軍家には、次期将軍となる男子以外は仏門に入れるという慣例があり、義昭もこれにしたがって出家。覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺一乗院の門跡となりました。権少僧都まで昇進し、このまま何事もなければ高僧として生涯を終えたはずでしたが、1565年5月に「永禄の変」が起こったことで、彼の人生は大きく変わるのです。
「永禄の変」は、父の跡を継いで第13代将軍となっていた兄の足利義輝が、三好三人衆と松永久通などによって暗殺された事件。この時、出家して慶寿院を名乗っていた母親、鹿苑院院主となっていた弟も殺害され、足利義昭自身も興福寺に幽閉されました。
それから2ヶ月後、義昭は兄の近臣だった一色藤長、細川藤孝、三淵藤英、和田惟政らによって救出され、近江甲賀郡にある和田惟政の居城・和田城に逃れます。さらに和田城で、足利将軍家の当主になることを宣言。近くの野洲郡に移り、ここから有力大名に幕府再興への支援を要請しました。
1566年2月には還俗し、4月には従五位下、左馬頭という次期将軍候補であることを意味する役職に就きます。
その後足利義昭は、幕府を再興するために近江の六角氏、浅井氏、美濃の斎藤氏、尾張の織田氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏、相模の北条氏らなどをとりまとめて上洛しようと試みますが、六角義賢や斎藤龍興が三好三人衆側に寝返ったため失敗。
近江にいられなくなり、妹の嫁ぎ先である若狭の武田義統を頼ります。しかし武田義統も自国の状況が安定しておらず、上洛することはできません。次に越前の朝倉義景を頼りますが、こちらも一向一揆との対立に忙殺されていて、上洛する余力はありませんでした。
足利義昭が立ち止まっているうちに、1568年2月、三好三人衆が擁立する足利義栄が第14代将軍になります。
それから数ヶ月後、朝倉義景に見切りをつけた足利義昭は、明智光秀に仲介されて、美濃を制圧したばかりの織田信長を頼りました。1568年9月、織田信長は足利義昭を奉じて出兵。六角義賢、三好三人衆を破って上洛を果たします。
同じ頃、かねてから病を患っていた足利義栄が死去。足利義昭は10月18日、朝廷から将軍宣下を受け、第15代将軍に就任しました。
第15代将軍に就任した後、本圀寺に仮の御所を置いた足利義昭。しかし織田信長が領国である美濃に帰った隙をつかれ、三好三人衆から襲撃を受けます。「本圀寺の変」です。
明智光秀らの活躍によって窮地を逃れることができましたが、この経験からもっと防御力の高い御所が必要だと考え、兄の足利義輝の御所の跡地に二条城を築きます。
二条城を拠点に幕府の再興を進めた足利義昭。織田信長のことを「室町殿御父」と称賛していました。しかし義昭が恩賞として提示した管領や副将軍などの地位への就任を信長が断るなど、両者の思惑はすれ違います。義昭が提示していたのは幕府の役職で、信長にとってこれを受け入れることは義昭の臣下になることを意味していました。
「天下布武」を掲げ、武力での天下統一を目標としていた織田信長は、足利義昭の臣下になるつもりはありません。そして、義昭による将軍権力を制限しようと、「殿中御掟」という掟を定めます。
これは幕府法を参考につくられたもので、義昭としても承認せざるを得ないもの。しかしその内容は「幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること。それ以外に御所に近づくことは禁止する」など、信長の存在感を強めるものでした。
両者の関係は徐々に悪化していきます。1570年、織田信長は、浅井長政と戦った「姉川の戦い」や、その後の石山本願寺、比叡山延暦寺などの対立の仲介を足利義昭に依頼し、その権威を利用しました。
この状況に不満を募らせた足利義昭は、上杉輝虎、毛利輝元、本願寺の顕如、武田信玄、六角義賢などに呼び掛け、「信長包囲網」を構築。後に、朝倉義景、浅井長政、比叡山延暦寺、松永久秀、三好三人衆、三好義継なども加わりました。
1572年、織田信長は足利義昭に対し、全17条の意見書を送り、その振る舞いを批判します。
対する足利義昭も、激怒して挙兵を決断。甲斐の武田信玄がこれに応じて上洛を開始し、「三方ヶ原の戦い」で織田信長と徳川家康の連合軍を撃破しました。信長は、自分の子を人質にして和睦を申し入れるほど追い詰められます。
勝利を確信していた足利義昭は、信長からの和睦も一蹴。しかし1573年になると、武田信玄の病状が悪化し、武田軍の進撃が止まってしまうのです。信玄はそのまま亡くなってしまいます。
これによって、二条城に立て籠もった足利義昭は孤立。有力家臣だったはずの細川藤孝や荒木村重たちにも、信長側に寝返られ、義昭と信長は講和を結ぶことになりました。
しかし3ヶ月後、足利義昭は槇島城に移り、挙兵。しかし織田信長は7万もの大軍で槇島城を包囲し、義昭はついに降伏を余儀なくされます。さらに信長は朝倉義景、浅井長政を相次いで滅ぼし、「信長包囲網」も崩壊させました。
ただ、いくら織田信長といえども、将軍の命を奪うことはできません。降伏した足利義昭への処分は、京からの追放です。ただこの時の義昭は追放されただけで征夷大将軍を解任されたわけではないので、室町幕府が滅亡するのは、足利義昭が征夷大将軍の職を辞した1588年のことです。
織田信長に敗れて京から追放された足利義昭。妹婿である三好義継がいる若江城、堺、紀伊、などを転々とした後、1576年に毛利輝元を頼って備後の鞆(とも)に移ります。
鞆は古代から瀬戸内海の港として栄えた地で、足利家にとっては初代将軍の足利尊氏や、第10代将軍の足利義稙にゆかりのある土地です。足利義昭は亡命の身ではありましたが、年貢や、将軍家の専権を利用して礼銭を得ることができ、財政的に不自由はなかったと考えられています。
また、多くの幕臣が織田信長側についた一方で、足利義昭に従って鞆までやってきた者もいて、小さいながらも幕府機構を整えることができました。この時足利義昭が築いた亡命政府は「鞆幕府」と呼ばれています。
義昭は鞆から織田信長の追討と京への帰還を目指し、各地の有力大名に御内書を下すなどの活動を続けました。
1582年に「本能寺の変」が起こり、織田信長が明智光秀に討たれると、足利義昭は毛利輝元、羽柴秀吉、柴田勝家、徳川家康らに上洛への支援を要請。1585年には毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、秀吉が関白太政大臣になると、島津義久へ秀吉との和睦をすすめるなど、天下取りに協力しました。
そして1587年、足利義昭は約14年ぶりに京に帰還するのです。将軍職を辞した義昭は豊臣秀吉のもとで1万石の領地を与えられました。1592年と1597年に起きた「文禄・慶長の役」では自ら参陣しています。
晩年は秀吉の御伽衆に加えられ、よき話し相手となったそう。室町幕府の歴代将軍のなかでももっとも長生きし、1597年8月に59歳で亡くなりました。
足利義昭の子である足利義尋には2人の子がいましたが、2人とも仏門に入って子がいなかったため、義昭の血統は断絶しています。
明智光秀はもともと斎藤道三の家臣。その後、朝倉義景に主君を変え、足利義昭に仕えた際は織田信長との仲介役を担ったと考えられています。
しばらく義昭と信長に両属する形をとっていましたが、2人の関係が悪化したことで、どちらか一方を選ばなくてはならなくなりました。この選択は、光秀だけでなく、細川藤孝や松永久秀など、足利義昭に仕えていた多くの幕臣たちが迫られた選択です。結局明智光秀は、織田信長を選びました。
このような関係を踏まえ、1582年に明智光秀が起こした「本能寺の変」について、実は足利義昭が黒幕だったのではないかという説があります。
これは日本史学者の藤田達生が主張したものです。根拠として、当時明智光秀が越後の上杉景勝や紀伊の土橋重治らに送った協力要請の手紙に、「上意」や「御入洛」など光秀よりも上位にある人物の存在を思わせる文言があること。そして足利義昭が「本能寺の変」の直後に小早川隆景の家臣に贈った手紙で、自らが首謀者であると宣言していることなどが挙げられています。
前者は明智光秀の上位者が足利義昭であるかどうかは不明であり、後者は義昭が「本能寺の変」に便乗しようとした可能性を排除しきれず、いずれも決定的な証拠とはなりません。ただそもそも明智光秀が信長を討った理由も解明されていないので、日本史上の永遠のミステリーだといえるでしょう。
- 著者
- 久野雅司
- 出版日
- 2017-10-25
従来、織田信長によって将軍に擁立された足利義昭は、信長の傀儡に過ぎなかったと考えられてきました。しかし近年の研究によって、義昭の行動のすべてが必ずしも信長に縛られていたわけではなかったことが明らかになってきています。
本書では、両者の思惑がすれ違うようになった背景や、決定的な対立に発展した原因などを丹念に追い、2人の関係性を分析。すると、室町幕府の構造自体に限界があったことが見えてきました。これまで織田信長と足利義昭に抱いていたイメージも、変わるかもしれません。
- 著者
- 山田康弘
- 出版日
- 2019-12-17
室町時代の末期に生まれた足利義輝と義昭の兄弟。歴代将軍家のなかでも稀有な摂関家を外戚にもつ男子であり、その身に室町幕府の再興という重い責務を担いました。兄の義輝が「永禄の変」で非業の死を遂げると、義昭はその遺志を継ぎ、幕府再興に執念を燃やします。
本書は、一問一答式で彼らの人生を紐解いていくもの。足利義昭を扱う第2部では、「信長はなぜ義昭と手を組んだのか」「義昭はなぜ反信長の兵を挙げたのか」などの疑問に答えています。
文章も易しくて読みやすいので、戦国時代末期について知りたい初心者の方にもおすすめです。