織田信長の正室とされる濃姫。出自も名前もどのように死んだのかも、その生涯は多くの謎に包まれています。この記事では、明智光秀との関係や2度の政略結婚の背景、さまざまな可能性が考えられる最後についてわかりやすく解説。また濃姫を主人公にしたおすすめ本も紹介していきます。
戦国時代の1535年、現在の岐阜県にあたる美濃国の大名、斎藤道三と、正室である小見の方の間に生まれた濃姫(のうひめ)。政略結婚で織田信長に嫁いだとして有名です。
「濃姫」という名前は本名ではなく、「美濃から嫁いできた姫」という意味合いだと考えられています。1716年に刊行された『武将感状記』や、1797年に刊行された『絵本太閤記』に記述がみられ、広く知られるようになりました。
1600年代前半に編纂されたとされる『美濃国諸旧記』には「帰蝶」、成立年代が不明な『武功夜話』には「胡蝶」と書かれています。また斎藤道三の居城が鷺山城だったことから、「鷺山殿」とも呼ばれていました。
さらに近年の研究では、織田信長の次男である織田信雄がまとめた『織田信雄分限帳』に登場する、「安土殿」と呼ばれていた女性も、濃姫と同一人物なのではないかという指摘があります。いずれにせよ、確定にはいたっていません。
濃姫の母親である小見の方は、美濃の守護である土岐氏の庶流で、東美濃随一の名族といわれる明智氏の当主、明智光継の娘とされる女性です。
また小見の方の兄である明智光綱は、明智光秀の父親とされる人物。つまり濃姫と明智光秀は、「いとこ」の関係になります。
1549年、濃姫は織田信長の正室として、美濃から尾張に嫁ぎました。ただ彼女は、信長の前に1度別の人と結婚していたといわれています。
最初の結婚は、1546年。相手は斎藤道三の主筋にあたる、土岐頼純(よりずみ)です。頼純は23歳、濃姫は12歳でした。
当時の斎藤道三は、1541年頃に美濃の守護大名だった土岐頼芸(よりあき)を追放し、美濃の国主になっていましたが、土岐頼芸を支援する尾張の織田信秀や、土岐頼純を支援する越前の朝倉孝景などに攻められ、苦境に陥っていました。
そこで1546年に、土岐頼純を守護にするという条件で朝倉孝景と和睦し、人質として娘を嫁がせたのです。それが濃姫でした。
しかし和睦による平穏は、長くは続きません。1547年、織田信秀と朝倉孝景が、土岐頼芸と頼純に対し、斎藤道三を討伐するために蜂起するよう促したのです。
この事態に道三も迅速に対応。織田信秀、朝倉孝景の軍勢が来る前に、土岐頼芸と頼純がこもる大桑城を攻撃し、陥落させました。
土岐頼芸は越前に落ち延びましたが、土岐頼純は戦死。濃姫は未亡人となり、美濃に戻ったと考えれらえています。
その後、織田信秀が美濃に攻め込みますが、斎藤道三は「加納口の戦い」でこれを撃破。以降も両者は大垣城をめぐって争いをくり返しますが、信秀が病気がちになったことで和睦の機運が高まりました。
1549年、和睦が成立し、濃姫は15歳にして2度目の政略結婚として、ひとつ年上である織田信長のもとへ嫁ぐことになったのです。
史料価値が高いとされる『信長公記』に、濃姫が織田信長に嫁いだという記述が見られることから、彼女が信長の正室だったことは間違いないと考えられています。ただ『信長公記』にも、結婚に関する短い記述があるだけで、その後は一切登場せず、実際のところ濃姫がどのような生涯を送ったのかはほとんど明らかになっていません。いつ亡くなったのかもわからず、菩提寺や戒名も特定されていないのが現状です。
濃姫が織田信長に嫁いだ後、どうなったのか、「離縁説」「病死説」「戦死説」「生存説」などさまざまな論が展開されています。
「離縁説」は、織田信長の側室である生駒吉乃が、奇妙丸(後の織田信忠)を懐妊したタイミングで離縁されたのではないかとするもの。
「病死説」では、28歳前後で病死し、生駒吉乃が後妻になったとするもの。
「戦死説」は、1582年に「本能寺の変」が起こった際、濃姫も現場にいて、織田信長とともに薙刀を振るって戦い亡くなったというもの。岐阜県の不動町には、信長の家臣がの濃姫の遺髪を携えて京から逃れ、この地に埋葬したと伝えられる「濃姫遺髪塚」が残されています。
そして「生存説」は、1560年代以降も織田信長の正室として離縁されることなく、病死も戦死もせずにいたというもの。根拠となるのは、さまざまな史料に登場する「信長本妻」「北の方」「信長公御台」「信長内室」「信長公夫人」「安土殿」「養華院殿要津妙玄大姉」などと呼ばれる女性の存在です。ただ史料の多くは後年になって編纂されたものなので信頼性に薄く、これらの女性が濃姫だと確定することはできません。
ちなみに「養華院殿要津妙玄大姉」は、「泰巌相公縁会名簿」に記されている戒名で、「慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と書かれています。養華院が濃姫であるとすると、彼女は慶長17年=1612年まで生存し、78歳で天寿をまっとうしたのです。
- 著者
- 諸田 玲子
- 出版日
- 2018-11-10
「吉川英治文学新人賞」や「新田次郎文学賞」など数々の文学賞を受賞した作者が、本当にわずかしか残されていない歴史の断片を拾い集め、濃姫の生涯を描き出そうと試みた小説です。
従来、美濃のマムシといわれた斎藤道三の気性を受け継ぎ、織田信長とも対等に渡りあう強い女性として語られてきた濃姫。しかし本作での彼女は、織田家の奥をとりまとめ、信長の行動に苦悩するひとりの普通の女性として描かれています。
「本能寺の変」の原因など最新研究も踏まえられていて、これまでの定説に従わない展開は目新しく、新鮮に楽しめるでしょう。
どのようにして生き、何を思い、いつ亡くなったのかも定かではない濃姫を思う時、本当にこのような女性だったのかもしれないと思わせてくれる力がある作品です。
- 著者
- 阿井 景子
- 出版日
『龍馬の妻』『西郷家の女たち』など女性を主人公にした小説を多く手掛けてきた作者。本作は、表題作の「濃姫孤愁」に加え、「義元の首級」「冑の的」の2編を収録した短編集です。
濃姫の最後について、本作では離縁説を主張。父親である斎藤道三と、夫である織田信長のあいだで揺れる彼女の心情を巧みに描いた秀作として高く評価されています。
離縁した濃姫は、母方の実家である明智氏を頼りました。しかし、斎藤道三と兄の斎藤義龍の争いに巻き込まれるかたちで明智城は陥落。濃姫も22歳の若さで、明智一族と運命をともにしたと描かれています。
仮にこれが事実だとすれば、濃姫は時代に翻弄され、実に波乱万丈な短い人生を歩んだのでしょう。「孤愁」というタイトルがさらに胸を締め付ける一冊です。
- 著者
- 勝見 秀雄
- 出版日
宿曜師とは、平安時代に空海などの留学僧たちが唐から持ち帰った密教の一分野である「宿曜道」を生業とする人々のこと。古代インドの占星術や中国の道教がもとになっていて、平安時代には陰陽師らとともに暦作りや吉凶の占いなどに従事していました。
戦国時代においても、出陣の日取りや方角の吉凶を占ううえで重要視され、軍師、軍配者などと呼ばれる役目を担っています。時には吉凶だけでなく、策謀や軍略の知恵も授けたそう。
本作では、濃姫が織田信長の宿曜師だったという大胆な設定を採用しています。美濃のマムシと恐れられた斎藤道三の娘であるからには、その策謀や軍略の知恵を、濃姫も受け継いでいたのではないかと作者は考えたのです。
その生涯が多くの謎に包まれている濃姫。だからこそ、作家が想像を膨らませる余地も広がるのでしょう。作者の勝見秀雄は歴史学者ではなく、歯科医です。それゆえの発想は実にのびやか。信長を支える痛快な女性として描れた濃姫を堪能してください。