稀代の女優であるマリリン・モンローをご存じでしょうか? 名前は知っていてもどんな女優で、どういう人生を歩んだのかは、知らない人も多いでしょう。 きらめくゴールデンブロンドの髪と、薄く開いたセクシーな口元が印象的なマリリン。有名人との結婚や恋人報道、一見華やかに見える彼女の一生は、想像以上に壮絶で波乱に満ちたものでした。 イギリスのBBCスタジオは、恋多き女性だったマリリンの人生に焦点を当て、ドラマ制作を発表しました。また、Netflixも彼女の伝記映画『Blonde』を作成しています。 この記事では、死後50年以上が経ってもなお色褪せない魅力をご紹介します。
誰もが一度は耳にする「マリリン・モンロー」の名前。
実は芸名で、本名はノーマ・ジーン・ベイカーといいます(ここではマリリンと書きます)。モンローは母の旧姓、マリリンとは聖母「マリア」の愛称から派生した名前です。キリスト教社会で当時、絶大な人気を誇った名前でした。
マリリンと名付けられた理由は、社会的な印象を考えたのはもちろんですが、養父母がクリスチャンだったことや、不遇続きの子供時代を塗り替えたい想いがあったのかもしれません。
幼少期は波乱万丈で、精神的な病を患った母や祖母、父は不明、兄は病死。幼い頃から肉親の縁に恵まれず、養父母となる家を転々とし、性的虐待を受けたこともありました。
そこから己の身一つでスターに上りつめたマリリン。1960年にはゴールデングローブ賞で主演女優賞を受賞するまでになりました。彼女のハングリー精神は、厳しい少女時代にどう生き抜くか、我が身をもって体感したからこその持ち味なのでしょう。
たとえば、マリリンが愛され続ける絶対的な理由の一つに、セクシュアルシンボルとしての魅力があります。しかしそれさえも、彼女の成功戦略です。人にどう見られるか、徹底して研究し、自分を磨いたといわれています。
あでやかな歌声で大統領を魅了するのも、その悩ましい脚線美をフィルムの中でさらすのも、すべて自分という素材を使って生き抜くため、だったのではないでしょうか。
しかし彼女の残した言葉には、機転が利いた頭のよさや、芯の通った哲学とともに、愛をもとめる切なさが垣間見られます。
幾度も結婚と離婚を繰り返したり、恋人たちの間を渡り歩くのも、幼い頃に得られなかった温かい愛情を求めていたのかもしれません。
スキャンダルといわれようと、数多くの浮世を流し、それさえも魅力の一つにしてしまえる彼女の徹底した生きざまこそが、今なお多くの人の記憶に残る理由ではないでしょうか。
次に、ノーマ・ジーンがマリリン・モンローとして後世に名を遺すまでの、波乱万丈な人生を振り返ってみましょう。
本名はノーマ・ジーン・ベイカー、誕生日は1926年6月1日。先ほども少々お話しましたが、彼女の幼少期を振り返ってみましょう。
出征証明書には父親の姓であるモーテンソンと記載されていますが、実際はすでに別れており、実の父はスタンリー・ギフォードだという説もあり、詳細は不明のままです。
ただ彼女にはベイカー方の異父兄弟がいます。異父兄は13歳で他界しましたが、姉とは交流があり、マリリンの死装束を選んであげたのも彼女でした。
母親は精神的な病気を患い、幼いマリリンは、祖母によって敬虔なクリスチャンの夫婦の元に預けられる、という生まれるなり過酷な環境になげだされました。
しかし、その祖母も母と同じく精神的な病に侵されていたようです。マリリンは1歳のころ、実の祖母に殺されかけてしまうのです。
その後、孤児院へ入れられたり、様々な家をたらいまわしにされたり、あげく性的暴行をうけたり、かなり過酷な幼少期を過ごしました。ついには、ストレスから吃音症を患うこともあったようです。
こうした生い立ちが、彼女の後の恋愛観にも大きく影響を与えたのは間違いないでしょう。
マリリンは16歳の時、人生で最初の夫を得ます。ところが高校を中退しての結婚は、わずか4年で離婚となりました。その原因となったのが、マリリンが19歳の時に始めたモデル業。夫のジム・ドハティが快く思わなかったといわれています。
モデルとしてあっという間に才能を開花させたマリリンは、演技の勉強を始め、1953年の映画『ナイアガラ』で人気に。ここからトップスターへの階段を駆け上がっていくのです。
一躍有名となったマリリンは、メジャーリーグの野球選手であるジョー・ディマジオと2度目の結婚をしますが、それも9ヵ月で終止符を打ちます。
3度めの結婚の際には、子供を流産したり精神病を患ったり、不幸も重なり、再び離婚。主演映画を降板するなど、辛い日々も増えていきました。
そして1962年8月5日。マリリンは、自宅で亡くなっているところをメイドによて発見されます。享年36歳でした。
ところが、その死に関して、様々な憶測が飛び交うことになります。
睡眠薬の大量服用による自殺と報道されていますが、麻薬のオーバードーズという説もあります。しかし最近は、マリリンがいつも持ち歩いていたいう赤い手帳がなくなっていることなどから、他殺なのではないかという声もあります。
死後なお話題にあがるのも、マリリンが世界的なスターで絶大な人気を誇っていた証であると同時、多くの人に愛された存在だったからでしょう。
葬儀はハリウッドの教会で行われました。マスコミも映画関係者も中に入れず、身内や関係者だけの小さな葬儀だったそうです。華々しいトップスターとしてはささやかな最期ですが、ようやく静かに眠れたのかもしれません。
マリリンの遺体は、冷凍保存されているという説がありますが、正しくは違います。
生前の美しい姿を保つエンバーミング処理を施し、埋葬されたそうです。その美貌で世界を魅了したマリリンは、今も美しい姿で眠っているのでしょう。
命日の8月5日になれば、マリリン・モンローの話題があがり、死後50年以上が経った今でもその人気は続いています。
マリリン・モンローはモデルを皮切りに、女優への道を進んでいきました。果たして彼女の演技力はどれほどだったのでしょう?
女優を目指し、演技の勉強をしていたころは、脇役で映画に出演したものの、なかなか次へ続かなかったようです。契約を切られたり、仕事がなくてヌードモデルをしたり、苦労を重ねていました。
そんなマリリンが注目されたのは、『ナイアガラ』という映画です。不倫相手とともに夫を殺害するという役どころで、この映画で、有名なモンロー・ウォークも生まれました。
その後、『百万長者と結婚する方法』では、百万長者との結婚を目的にモデル仲間とともに高級アパートに越してくるモデル役を演じ、『七年目の浮気』では、あの有名な白いスカートが風に舞うシーンで話題となりました。
極度の近眼にも関わらずダサイという理由でメガネをかけていないモデルの役で、見えないのに見ようと目をしかめる演技はとてもコミカルで魅力的。
一方で、妖艶な笑みを浮かべたり、シリアスな役をこなしたりと、その演技の幅はとても幅広いものでした。
1960年には『お熱いのがお好き』でミュージカル・コメディ部門の主演女優賞を受賞するなど、いくつかの功績を残しています。
ついそのセクシーさに目を奪われがちなマリリン・モンローですが、裏には確かな演技力があったといえるでしょう。
マリリン・モンローは、その魔性の雰囲気からセックシシンボルとしても語り継がれている存在です。しかし、そんなセクシーで魔性の女としてのイメージは、自分をそう見せるためのテクニックにも長けていたことが理由でもありました。
彼女のセクシーでミステリアスな雰囲気を作っているものの1つとして、そのプロポーションがあげられます。地下鉄から吹きあげる風に舞ったスカートの下、惜しげもなくさらした脚線美は世界的に有名です。
しかし実は、マリリンは自分の短足とおしりの大きさにコンプレックスを抱いていました。もともとは、どちらかというとぽっちゃり体型だったのです。
そんなコンプレックスを解消するため、彼女は人体解剖学まで勉強して、毎日のトレーニングを重ねました。
体のラインが一番きれいに見えるポーズを研究したり、ミステリアスな笑顔を鏡の前で練習したり、努力を重ねていたそうです。
彼女の名言の1つとして、「他人になりたがるのは、自分という人間を無駄にしてるってことよ」というものもがあります。その美しさは、徹底した自分磨きにあったのです。
- 著者
- 山口 路子
- 出版日
- 2017-02-11
パーマをかけた金髪に官能的な表情、グラマラスな体のラインを際立たせる衣装など、マリリン・モンローを形作るものはさまざまあります。
しかしこれらはすべてマリリンの生きた時代では、とても異端なものでした。
女性は内気で控えめなほうがよいとされていたため、マリリンのファッションや言動は、時に「下品」と酷評されました。にもかかわらず、彼女のスタイルは多くの男女を虜にしたのです。
女優としてのマリリンは、ヒップを美しく見せるため、ドレスの縫い目にまでこだわったり、露出の多いドレスで自らのセクシーさを際立たせていました。
一方、オフスクリーンファッションでは、ジーンズやシャツといった着こなしもしています。一見するとラフなスタイルですが、やはり自分の体を美しく見せながら「着飾る」ことを意識したものでした。
当時は異端とされたマリリンのファッションも、今では多くの女性が親しむスタイルです。それは非難の声に屈することなく、自分の生き方を貫いたマリリン・モンローがいたからなのかもしれません。
- 著者
- 出版日
- 2012-07-25
すでにご紹介したように、マリリン・モンローは結婚や離婚を繰り返すなど恋多き女性でした。関係のあった男性の中には、あの元大統領ジョン・F・ケネディもいたと言われています。
最終的に結ばれることはありませんでしたが、2人が別れた後、ケネディの誕生日パーティーに現れ歌を歌ったマリリンに、彼はとても感動していたといいます。それだけお互いにとって特別な存在だったのかもしれません。
また、マリリンは有名な物理学者・アインシュタインに言い寄ったとも言われています。舌を出した写真が有名なアインシュタインですが、実は多くの女性からモテたそうです。
彼女はそんなアインシュタインに対し、「私の美貌とあなたの頭脳を持った子供ができたら素晴らしいと思わない?」と、告白をしたそうです。それに対しアインシュタインは「生まれてくる子供が私の顔とあなたの頭脳を持ってるかもよ」と答えたとか。
マリリンもアインシュタインもさすがというか、浮世離れした2人だからこその魅力的な逸話だといえるでしょう。
マリリン・モンローは、その魅力的な歌声でも有名です。すでにご紹介したとおり、マリリンはケネディと別れた後、彼の誕生日パーティーで「ハッピーバースデー」を歌いました。
『Happy Birthday Mr.President』と歌うマリリンを見たケネディは、「いつ引退しても悔いはない」と言ったそうです。
当時伴奏をしていたジャズピアニストのハンク・ジョーンズも、のちにマリリンの歌声を絶賛していました。彼女の歌声がどれだけ魅力的だったかをうかがい知ることができます。
また、マリリン・モンローの歌うクリスマスソングとして『Santa Baby』という曲があります。日本ではあまりメジャーではありませんが、ポテッとした歌声が印象的な可愛らしい曲です。
歌の内容も、捉え方によってはある意味性的に過激。マリリンらしいクリスマスの選曲なのかもしれません。
セクシーさや演技力に加え、歌唱力も彼女の魅力の1つだったようです。
ここでは彼女の名言をご紹介しましょう。
5位:「たとえ百人の専門家が『あなたには才能がない』と言ったとしても、その人たち全員が間違っているかもしれないじゃないですか」
とても力強い言葉の1つです。マリリンは決して恵まれた生い立ちとはいえません。また、注目を集めるようになってからは周りから異端扱いされることも少なからずありました。
それでも自分の生き方を貫いた彼女だからこそ出てきた言葉といえるでしょう。自分自身を貫く強さを教えてくれる名言です。
4位:「もし私がすべてのルールを守ってたら、成功なんてしていなかったでしょうね」
マリリンの生きた時代は、女性は内気で控えめなタイプがよいとされていました。世の中で普通とされていることや決められたことに逆らうのは、勇気がいったでしょう。
だからといって従うままでいれば、何も変わりません。ルールを守るのも大事ですが、時には自分の考えを生かすことも必要なのです。
3位:「私は、グラマーでセクシーであるという重荷を負わされることは苦にしないわ」
セックスシンボルとして有名なマリリン。彼女も周りからそう見られるよう、自身をプロデュースしていました。つまりグラマーでセクシーに見られることは、狙い通りだったともいえるのです。
今は、女性らしさを求められれば、苦痛に感じる方もいらっしゃるでしょう。ただ、マリリンの場合は、そういった女性を感じるグラマーやセクシーさを自らの個性として、誇りを持っていたのではないでしょうか。
2位:「キャリアって素晴らしい。でも、寒い夜にそれに寄り添うことはできないわ」
世界的トップスターとして今もその名を語り継がれるマリリン。一方で、結婚と離婚を繰り返したり、幼い頃は多くの家を転々とさせられたり、穏やかな生活を送っていたとはいえません。
世界中から愛されながらも、そのキャリアに誇りや喜びを感じつつ、心安げる場所をずっと探し続けていたのでしょう。
1位:「シャネルの5番よ」
マリリン・モンローの言葉で最も有名といっても過言ではないでしょう。
ある記者の「夜寝る時に何を着ていますか?」という質問への回答です。身にまとっているものとして香水をあげるなんて、彼女の色っぽさと頭の良さを感じさせる返し方ですよね。
マリリンは、女性らしさを武器に自分の生き方を貫いた人です。これらはそんな彼女の、賢さと切なさ、なにより意志の強さが伝わる言葉たちといえます。
- 著者
- 山口 路子
- 出版日
- 2017-02-11
最後にマリリン・モンローに関するおすすめの書籍をご紹介いたします。
世界中から愛された稀代のトップスターであるマリリン・モンロー。彼女の才能と美貌は、500年に1人とさえいわれていました。しかし、そんな彼女は波瀾万丈な運命に翻弄され、さまざまなコンプレックスを感じ、人知れず「劣等感」を抱えていたのです。
華やかな一面が取りあげられることの多いマリリン・モンローですが、そんな彼女の一生がどれほど波乱に満ちたもので、彼女がどれだけ一生懸命に生きてきたかがを紹介している1冊です。
マリリンが1人の女性として、どのように自分の人生と向き合い、何を感じ、何を求めて生きていたのかを知ってみたいという方におすすめです。
- 著者
- 山口 路子
- 出版日
- 2012-02-07
マリリン・モンローは、時に「可愛くてちょっと頭の弱いブロンド娘」としてとらえられることがあります。しかし、本当の彼女は、そんなイメージすら自ら作り上げる天才だったのです。
世界を魅了した彼女から、「魅せる」ということを学ぶ1冊です。同時にその「愛されたい」という想いの強さが人々を魅了してきた理由のひとつだと分かる1冊でもあります。
マリリンが残した心に響く言葉の数々。本書では、そんなマリリンの言葉を60個選び出し、自己プロデュース力から、生きる軸となっていた想い、そうした彼女の内側をさぐっていきます。
マリリン・モンローの生きざまを通じて、自分と向きあう方法を学ぶこともできる本です。
- 著者
- 髙野 てるみ
- 出版日
- 2017-11-01
マリリン・モンローの死は世界中を悲しませました。その死は「自殺」とされていますが、一方で、多くの謎も残しています。いったい彼女の身に何があったのか、36年の短い一生をどういうふうに生きたのか、マリリンと関わりのあった人々の口から語られる真実とは……?
本作に登場するのは、亡くなったマリリンを解剖した検死官や最初の夫、共演者などの13人です。著者がインタビューをするという形で書かれており、とても貴重な言葉がつづられています。
もちろん語られるのは、彼らが関わった彼女の側面であり、一部です。けれどそれらをつなぎ合わせれば、新たなマリリン・モンローの姿が浮かび上がるかもしれません。
あなたの読み解くマリリンは、どんなイメージですか……?
- 著者
- 井上 篤夫
- 出版日
- 2001-08-21
マリリン・モンロー没後50年に公開されたマリリン自筆の資料の数々。それを1冊にまとめたのが本作です。世界15ヵ国で翻訳され、全米では10万部を超えるベストセラーとなりました。
メモや手帳のページを撮影した写真がそのまま掲載された、彼女の直筆を知る貴重な本作。マリリンが短い生涯の中で何を感じ、何を抱えていたのか、彼女の本当の「心の声」が聞こえるのではないでしょうか。
マリリン・モンローの死はいまだに謎が残っています。死に至るまでの、彼女の本当の声を、どう読み取りますか? 彼女の心を垣間見られる、マリリン・モンローのファンにとっては必見の本です。
- 著者
- ["スタンリー・バックサル", "ベルナール・コマーン"]
- 出版日
- 2012-09-28
マリリン・モンローは、自らの女性らしさを武器に、自分をより魅力的に見せる努力を怠りませんでした。つまり、自分の良さや強みをよく知っていたのです。
企業か競合に勝つために重要なものは「セールスポイント」です。それを打ち出すことの重要さや、商品そのものに「セールスポイント」を作るなど、その具体的な方法を紹介するビジネス書です。
マリリン・モンローの写真を表紙にした本書は、ビジネス署としては珍しくて思わず目を引きます。しかし、中身はとても骨太で、「USP」すなわち「ユニーク・セリング・プロボジション」について、その内容と実践方法が書かれています。
どうして「強み」が必要なのかも書かれており、ただやり方を知るだけではなく、よりその本質を深く理解をすることができるでしょう。ビジネス書としてはもちろん、自己啓発本としても役に立つ1冊です。
- 著者
- 加藤 洋一
- 出版日
- 2018-04-27
いかがでしたか? マリリン・モンローのイメージが少し違ったと感じた方もいらっしゃるかもしれません。今もなお愛されている稀代の女優であるマリリン・モンローの華やかな部分だけではなく、その裏側を知ることで、その魅力の秘密を垣間見ることができるでしょう。これを機会に、ぜひマリリン・モンローの作品に触れてみてはいかがでしょうか。