5分でわかる石山本願寺の歴史!一向一揆と信長の対立などをわかりやすく解説

更新:2020.1.31 作成:2020.1.31

織田信長にとって最大で最強の敵ともいえるのが、石山本願寺。およそ10年にわたって戦い続けた「石山合戦」は有名でしょう。この記事では、当時の宗教と政治の関係を踏まえつつ、一向一揆と信長の対立など、石山本願寺がたどってきた歴史をわかりやすく解説していきます。

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石山本願寺の概要。当時の宗教と政治の関係を解説

 

石山本願寺とは、摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗本願寺派の寺院のこと。当時は「大坂本願寺」「大坂城」「石山御坊」などと呼ぶのが一般的でした。跡地には現在、大阪城が建っています。

石山本願寺の特徴は、寺を中心に堀や土居を巡らせる「寺内町」があるところ。規模は明らかにはなっていませんが、『信長公記』には「方八町」、石山本願寺の住職である顕如の側近が書いた『宇野主水日記』には「七町五町」とあります。

一町は約109mなので、その広さは1辺が約872m、もしくは約545m×約763mの広さがあったのではないかと考えられています。寺というよりも、城郭と呼ぶのが相応しいものだったことは間違いないでしょう。

寺内町にどれほどの人々が暮らしていたかは明らかになっていませんが、最盛期には2~3万人がいたと考えられ、戦国大名に属さない一種の独立王国を構築していました。

このように、石山本願寺が大きな力をつけていったのには、当時の時代背景が関係しています。室町時代に幕府が京に置かれたことから、宗教と政治の関係に大きな変化が生まれたのです。

京都五山に代表される禅宗は、武士に支持されて大きな力をもち、比叡山延暦寺など旧仏教勢力である天台宗との間に対立が生じます。武家と仏教界が接近したことで、足利義満時代の北山文化、足利義政時代の東山文化などが花開き、水墨画や書院造、茶の湯、生け花、枯山水などの芸術が栄えました。

その一方で、各宗派は他宗派に対抗するための資金を調達しようと、高利貸を盛んにおこなうようになっていきます。すると、財政的に立ち行かなくなった人々が一揆をおこし、治安が乱れていったのです。

その傾向は1467年の「応仁の乱」以降さらに顕著になり、過激派同士による宗教戦争も勃発。寺であっても自衛の手段をもつ必要に迫られます。

そのため石山本願寺も防御を固めていきました。周辺には51の支城が築かれ、それは織田信長をもってしても苦戦するほどの鉄壁だったのです。

石山本願寺は蓮如が建立し発展、「明応の政変」で武装化し「一向一揆」を形成

 

浄土真宗の本願寺派は、宗祖である親鸞の墓所「大谷廟堂」を発祥とする西本願寺を本山としています。信徒数はおよそ800万人で、浄土真宗のなかでは最多。また宗教法人としても神社本庁に次ぐ規模です。

しかし1400年代のはじめ頃は、天台宗青蓮院の末寺に甘んじ、衰退していました。この本願寺派を再興し、現在にいたる隆盛の礎を築いたのが第8代門主の蓮如(れんにょ)です。

蓮如は、比叡山延暦寺からの弾圧を受けつつも、越前に吉崎御坊を建立して北陸に布教をします。さらに京には山科本願寺、紀伊には鷺森別院を建立しました。そして1496年に、自身の居所として石山本願寺を建立するのです。

蓮如が大坂という地を選んだのは、古代から水上と陸上双方の交通の要衝であったこと、そして生国魂神社が鎮座し古くから神聖視されてきた場所だったことなどが理由として挙げられています。

蓮如の跡を継いだ第9代門主、実如(じつにょ)の時代には、「明応の政変」が発生。この時、細川政元から参戦を求められたことをきっかけに、石山本願寺は武装化します。武装した浄土真宗の集団は、「一向一揆」と呼ばれました。

実如の跡を継いだ第10代門主の証如(しょうにょ)は、1532年、三好元長や畠山義堯などに包囲された飯盛山城を救援してほしいという細川晴元からの要請を受け、「飯盛城の戦い」に参戦。三好元長や畠山義堯は敵対する法華宗の庇護者でもあり、彼らを自害に追い込みます。

しかし、一向一揆勢が大和にまで侵入すると、今度はこれに危機感を抱いた細川晴元と敵対することになってしまいました。

さらに、法華宗や、近江の守護である六角定頼らによてって浄土真宗本願寺派の拠点だった山科本願寺が焼き討ちにあう事件が発生。山科本願寺にあった本尊や寺宝は石山本願寺に移され、これ以降、石山本願寺が本願寺派の新たな拠点となりました。

細川晴元や、三好元長の子である三好長慶との抗争は、1535年まで続きます。ただこの間に石山本願寺は城郭建設の技術者を集め、堀や土塁と呼ばれる堤防のようなものをめぐらせ、寺内町を内包する城塞都市へと変貌していくのです。

石山本願寺は顕如の時代に最盛期へ

 

石山本願寺を城郭都市として発展させた証如は、外交にも力を入れていました。天皇や公家へ接近をはかり、権中納言だった庭田重親の娘を正室に迎えいれます。

彼らの間に生まれた顕如(けんにょ)は、前関白だった九条稙通の猶子になりました。正室には左大臣である三条公頼の三女をもらっています。

ちなみに、三条公頼の長女は細川晴元に、次女は武田信玄に嫁いでいて、これによって浄土真宗本願寺派は、対立していた細川晴元との関係を修復することができたのです。また武田氏という有力な戦国大名とも友好的な関係を築くことに成功しました。

顕如は1554年に第11代門主になり、1559年には正親町天皇の綸旨によって、本願寺が門跡寺院となります。門跡寺院とは、皇族や公家が住職を務める寺院を指し、そのためには格式が必要。顕如もその父である証如も、門跡寺院になることを目指していたのです。

ちなみに本願寺の頂点を「門主」というようになったのは、この時から。証如の時代までは「宗主」といっていました。

石山本願寺には各地の富が集まるようになり、最盛期を迎えます。その勢力は宗教団体の域を超え、有力な戦国大名と肩を並べるほどになりました。来日していたイエズス会士のガスパル・ヴィレラは、「日本の富の大部分は、この坊主(=顕如)の所有である」という手紙を出しています。

そんな石山本願寺の前に立ちはだかったのが、「天下布武」を抱える織田信長です。1570年の正月、石山本願寺の明け渡しを要求してきました。

これに対し、顕如は全国の門徒に、武器を持って石山本願寺に参集するよう命じます。そして9月12日、ついに打倒信長を掲げて挙兵しました。

莫大な富を背景に形成された一向一揆は、大量の武器や兵糧をもっていて、ここから約10年にわたって織田信長を苦しめることになるのです。

石山本願寺が織田信長と対立した原因は?「石山合戦」を詳しく解説

 

1568年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛。畿内をほぼ制圧し、周辺の寺社へ矢銭を要求します。応じない場合は取り潰しなどの強行措置をおこないました。これは石山本願寺に対しても同様で、「京都御所再建費用」という名目で矢銭5000貫を要求し、蓮如も応じています。

しかし織田信長は、交通の要衝である石山本願寺に目を付け、先述したとおり1570年の正月に明け渡しを求めてきたのです。これが、両者が対立する大きな原因となりました。

石山本願寺の明け渡し要請を受けて、一向一揆は挙兵。摂津に滞在中だった織田信長軍を攻撃します。「石山合戦」の始まりです。

この時の戦いは信長軍の優勢で終わり、一向一揆は石山本願寺に籠城しました。その後、織田信長が朝廷に働きかけて戦闘中止を命じる勅書を出させるなど、戦闘回避に努めたため、1ヶ月もしないうちに戦いは収束します。

ただ、ほぼ同時期に挙兵をした長島の一向一揆は、信長の弟である織田信興を自害に追い込むなど、激しく抵抗を続けました。

その後顕如は、武田信玄や毛利輝元、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景、さらには信長と敵対していた足利義昭らと連携して、「信長包囲網」を構築。織田信長を追い詰めます。しかし、1573年に武田信玄が病死。また浅井長政と朝倉義景が相次いて敗戦し、信長を打ち破ることができませんでした。

1574年には、越前で一向一揆が蜂起。朝倉義景が敗戦した後に信長側についた旧臣を排斥しました。

これによって、一向一揆の拠点は、石山本願寺と長島、越前の3ヶ所となります。しかし地理的に離れていることもあり、相互の連携をとることができなかったのです。

まず1574年に長島一向一揆が制圧され、次いで1575年8月に越前一向一揆も制圧されます。

そして1576年の春、ついに顕如がいる石山本願寺が、信長に命じられた明智光秀軍によって包囲されました。ただ石山本願寺は防御に優れていたため、力ずくで攻略することは難しく、光秀軍は周辺に付城を築いて経済封鎖をはかります。

一方の顕如は、毛利輝元に援助を要請。これを受けて村上水軍を主力とする毛利輝元の大船団が木津川の河口に現れました。信長軍もこれを迎え撃ちますが、火薬を用いた武器を駆使する村上水軍の前に惨敗。これを「第一次木津川口海戦」といいます。

翌1577年、信長軍は大砲を装備した船を準備。村上水軍を撃破することに成功しました。これが「第二次木津川口海戦」です。

毛利輝元の援助を受けられなくなったため、石山本願寺への補給が断たれます。孤立した顕如は、朝廷の仲介で、織田信長と和議を結ぶことを決断しました。

和議の条件に従って、顕如は1580年4月9日に石山本願寺を退去。8月2日に織田信長に明け渡され、「石山合戦」は終結します。

しかし石山本願寺は、明け渡しの直後に出火。三日三晩燃え尽きて灰となりました。出火の原因は明らかにはなっていませんが、和議に反対する顕如の息子、教如(きょうにょ)の支持者による放火ではないかといわれています。

その後、本願寺は織田信長との和議に応じた顕如と、和議に反対した教如との間で対立が発生。さらに1602年に徳川家康の庇護のもとで教如が東本願寺を建てたことで、両者の確執は決定的となり、本願寺派は東西に分裂することになるのです。

顕如の人生と「石山合戦」を小説で読む

著者
鈴木 輝一郎
出版日
2005-10-19

 

本書は、石山本願寺の顕如を主人公にした時代小説。およそ10年間続いた織田信長との争いを中心に描いています。

テーマは、「改革…する者と、される者と」。戦国時代において、勢力図が変化していく様子を体感することができるでしょう。一向一揆への認識も深めることができます。

また顕如と織田信長の対立だけでなく、顕如と息子である教如との対立も描かれているのが魅力的。石山本願寺を守りつつ、父としては葛藤していた顕如の生き方に心を動かされる一冊です。

石山本願寺と「石山合戦」をわかりやすく解説した一冊

著者
武田 鏡村
出版日
2002-12-01

 

本書の作者は、日本歴史宗教研究所の所長を務める人物。「石山合戦」の全貌をわかりやすく解説してくれています。

「石山合戦」の特徴は、単に石山本願寺をめぐる局地的な戦闘に留まらず、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信、北近江の浅井長政、越前の朝倉義景、中国の毛利輝元、紀伊の雑賀衆、さらに将軍家の足利義昭や朝廷、公家、各地の一向一揆などを巻き込んで広範囲に及んだことにあります。

「信長包囲網」の実質的な指導者は顕如でしたが、石山本願寺が織田信長と10年もの間戦い続けることができたのは、彼だけの功績ではありません。交通の要衝という立地に着目した蓮如や、朝廷や戦国大名らとの関係強化に努めた証如など、先人の存在がなければ不可能だったでしょう。

戦国時代において、最大の勢力をもっていた石山本願寺の強さがよくわかる一冊です。