細川藤孝(幽斎)はどんな人?「本能寺の変」で光秀に味方しなかった理由とは

更新:2021.11.21

2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する細川藤孝。明智光秀の盟友として活躍するのですが、それだけでなく時流を読み、名だたる武将に仕えてきました。この記事では藤孝の生涯や、「本能寺の変」で光秀に味方しなかった理由、さまざまな逸話などをわかりやすく解説していきます。

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細川藤孝の生涯。足利義輝に仕え、「永禄の変」後は義昭を擁立

 

細川藤孝(ふじたか)は1534年、室町幕府の幕臣である三淵晴員(みつぶちはるかず)の次男として生まれました。後に主君となる織田信長と、同じ年齢です。幼名は万吉といいます。

母親は、足利義晴の愛妾だった清原宣賢の娘、智慶院です。後世に成立した『細川全記』には、彼女が義晴の子を身籠ったまま三淵晴員に嫁いだと記されています。これが事実だとすると、第13代将軍の足利義輝や、第15代将軍の足利義昭は異母弟ということになりますが、定かではありません。

細川藤孝は、7歳の時に和泉半国の守護を務める細川元常の養子となりました。その後元服し、後に足利義輝となる足利義藤の偏諱を受け、「藤孝」と名乗るようになります。父や兄と同じように幕臣として義輝に仕え、1552年には従五位下兵部大輔に任じられました。

1565年、「永禄の変」で足利義輝が三好三人衆、三好義継、松永久通らに殺害されると、藤孝は幽閉された義輝の弟の覚慶を救出。その後は、還俗して足利義昭となった覚慶の近臣として、近江の六角義賢、若狭田義統、越前の朝倉義景らに将軍擁立への援助を求めて奔走しました。

同じ頃、朝倉義景の家臣だった明智光秀と出会い、光秀に仲介してもらって尾張の織田信長にも援助を求めています。

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛。細川藤孝もこれに従い、三好三人衆から畿内を奪還するために各地を転戦し、勝竜寺城を三好三人衆から奪還するなどの武功を立てました。

 

細川藤孝の生涯。織田信長に仕え、息子・忠興は光秀の娘・ガラシャと結婚

 

上洛当初の細川藤孝は、幕臣という立場で、織田信長の家臣だったわけではありません。しかし1573年に足利義昭と織田信長の関係が悪化すると、細川藤孝は兄の三淵藤英と袂を分かち、明智光秀とともに信長に従うことを選びます。

足利義昭が京から追放された後に、山城国の長岡一帯を所領として与えられると、長岡藤孝と名前を変えました。

以降、藤孝は織田信長の家臣となり、「第二次淀古城の戦い」「高屋城の戦い」「越前一向一揆」「石山合戦」「紀州征伐」などに参戦。さらに軍団長となった明智光秀の与力として、「黒井城の戦い」にも従事しました。

この頃、細川藤孝の嫡男である細川忠興は、織田信長の嫡男である織田信忠に仕え、元服の際に偏諱を受けています。

1577年、細川藤孝と忠興父子は、明智光秀と協力し、織田信長に対して謀反を起こした松永久秀が籠る信貴山城を攻略。1578年には信長の薦めもあって、忠興と明智光秀の娘である玉(後のガラシャ)の結婚が決まりました。

細川家の家紋である九曜紋は、この時織田信長によって定められたもの。信長が持っていた小刀の柄に描かれていた九曜紋を忠興が気に入ったところ、定紋にせよと与えられたのだとか。信長が忠興をかわいがっていたことがわかるエピソードでしょう。

1580年、細川藤孝と忠興父子は、明智光秀とともに丹後を攻略し、南側の領有を認められて宮津城を居城としました。

その後も明智軍の事実上の副将として順調に出世を重ねますが、1582年に大きな選択を迫られる事件が発生します。上司である明智光秀が、主君の織田信長を襲撃する「本能寺の変」が起こったのです。

 

細川藤孝の生涯。「本能寺の変」が起こると秀吉に仕え、その後は家康にも接近

 

細川藤孝と明智光秀は、付き合いが長く、幕臣から織田信長に鞍替えしたという似た経歴をもち、子ども同士が結婚したという非常に近しい関係にありました。

「本能寺の変」を起こした際、光秀は、細川藤孝と忠興父子は自分に味方してくれるものと考えていたと推測できます。

しかし藤孝は、光秀からの出兵要請を断り、家督を忠興に譲渡。織田信長の喪に服するとして出家し、雅号を幽斎玄旨として丹後田辺城に引き籠ってしまうのです。

細川父子の援軍を得られなかった光秀。大和の筒井順慶からも援護を受けることができず、「山崎の戦い」で羽柴秀吉に敗れ、命を落とすことになります。

藤孝が光秀に味方しなかった理由ははっきりとはわかっていません。ただ『老人雑話』という書物には、「明智、始め細川幽斎の臣なり」と書かれていることから、藤孝が光秀の支配下に入ることを拒んだのではないかと考えられています。

またそのほかの有力な説に、「織田信長の生死が不明だったから」というものがあります。

「本能寺の変」の際、明智光秀軍は信長の首を見つけていません。そのため信長は、寺に火を放った後に逃げ延びたのではないかという噂が飛び交っていたのです。これによって、畿内の将軍たちは判断に困ることになります。

織田信長が確実に死んでいるのであれば、生き延びるために明智光秀に従うという判断は自然です。しかし、もしも信長が生きているのであれば、光秀に従うと謀反の報復を受ける可能性があります。

明智光秀につかず、かといって主君の仇討ちを掲げる羽柴秀吉につくわけでもなく、主君の喪に服するという名目で中立を保った細川藤孝の判断は、実に賢明だったといえるでしょう。

その後藤孝は、光秀を破った秀吉に従い、紀州の征伐や九州の平定に武将として参戦。また千利休とともに文化人として秀吉の側近となりました。息子の忠興も茶道に精通し、利休の高弟のひとりとなっています。

また同じ頃から徳川家康とも関係をもち、秀吉が亡くなると接近。「関ヶ原の戦い」に先立つ会津の討伐では、忠興が細川家の主力を率いて従軍し、藤孝も田辺城を守りました。

徳川家康の討伐を掲げて挙兵した石田三成は、大阪にいた諸大名の妻子を人質としますが、この時忠興の妻であるガラシャは自害をしています。

その後田辺城は西軍の小野木重勝や前田茂勝らが率いる1万5000の大軍に包囲されますが、細川藤孝らは激しく抵抗し、約2ヶ月間にわたって戦い抜いたそうです。晩年は京で悠々自適な晩年を過ごし、1610年に76歳で亡くなりました。

息子の忠興はその後、「関ヶ原の戦い」で石田三成軍と戦い、豊前の小倉藩に39万9000石という所領を与えられます。忠興の息子である忠利の時代には小倉から熊本に移り、幕末まで12代にわたって藩主を務めました。

 

細川藤孝は素手で牛をやっつけた?武芸にも文芸にも優れた教養人

 

細川藤孝は幕臣から身を起こし、武将として戦国時代を生き抜いた人物ですが、当代随一の教養人としても知られていました。

剣術や槍術、弓術、馬術など武士にとって必須のものはもちろん、和歌や茶道、連歌、蹴鞠など京で活動するうえで重要な役割を果たすもの、また囲碁や料理、猿楽などにも造詣が深かったといわれています。

細川藤孝の師となった人物もそうそうたる顔ぶれ。剣術は「剣聖」とうたわれる塚原卜伝、弓術は日置流雪荷派の吉田雪荷など一流の人々から教えを受けています。

京の街中で暴走し、突進してきた牛の角を掴んで投げ飛ばしたという逸話があるほど、強靭な腕力も有していました。

また料理も得意だったようで、『名将言行録』には、藤孝を動揺させようとした者が、鯉に火箸を通した時のエピソードが掲載されています。この時包丁で鯉を捌いていた藤孝は、刃先が火箸にあたったとみるや、腰の刀を抜き、火箸やまな板もろともに鯉を一刀両断にしてしまったそうです。

さらに別の逸話では、その繊細さや高い技量をうかがい知ることができます。藤孝が、あまり腕のない料理人の鯉料理を食べることになった時、豪華な木箱と薄紙を持ってこさせ、木箱の上に薄紙を敷き、その上に鯉を置いて捌いて見せたそう。その切り口はとても見事で、木箱はおろか薄紙にさえも傷ひとつついていなかったんだとか。

細川藤孝が、力はあるけど繊細で、武芸にも文芸も身に着けた教養人だったことがわかるでしょう。

 

細川藤孝は「古今伝授」の伝承者。「田辺城の戦い」にまつわる逸話を紹介

 

さまざまなジャンルに精通していた細川藤孝ですが、当代随一の教養人と呼ばれるのは「古今伝授」の伝承者であったことに由来します。

「古今伝授」とは、勅撰和歌集である古今和歌集の解釈を、秘伝として師から弟子へと伝授すること。平安時代から脈々と受け継がれてきました。

古今和歌集は和歌の中心となるものですが、当時は「古今伝授」によって継承される解釈なしに、その内容を正確に位階するのは困難でした。つまり「古今伝授」の伝承者であることは、大きな権威をともなっていたのです。

細川藤孝は1577年頃、歌人で古典学者でもある三条西実枝から「古今伝授」を授けられます。ただ本来であれば、「古今伝授」は一子相伝の秘事であり、三条西実枝の実子である公国に受け継がなければいけません。しかし当時の公国はまだ幼く、体調を崩していた西実枝にはその成長を待つ時間がありませんでした。

仕方なく、「絶対に他人には伝授しないこと」「将来必ず三条西家の子孫に伝授し返すこと」という約束を結んだうえで、細川藤孝に「古今伝授」を授けることになったのです。西実枝はその後すぐになくなったので、まさに綱渡りの決断でした。

1600年、細川藤孝は丹後の田辺城に籠城し、西軍の大軍に包囲されます。しかし彼はまだ誰にも「古今伝授」授けていませんでした。もしも田辺城が落城し、藤孝が討ち死にするようなことがあれば、平安時代から脈々と受け継がれてきた「古今伝授」が途絶えることになります。

そのため、細川藤孝の弟子でもある八条宮智仁親王は開城を勧めましたが、藤孝はこれを謝絶。籠城戦を継続します。いよいよ落城が迫ると、ついに後陽成天皇が勅令を出し、藤孝を助けるために講和を結ぶことを命じたのです。後陽成天皇は、「古今伝授」が途絶えることを恐れていたと考えられます。藤孝にゆかりのある公家を勅使として遣わせ、講和が結ばれました。

その後細川藤孝は、「古今伝授」を八条宮智仁親王、三条西実条、烏丸光広らに伝授し、「古今伝授」が途絶える危機は免れました。

 

細川藤孝、忠興、忠利の凄さがわかる歴史絵巻

著者
春名 徹
出版日
2010-10-30

 

歴史研究家の春名徹が描く、細川家の三代記です。

取りあげるのは、当代随一の教養人としてだけでなく武将としても数々の武功を上げた細川藤孝。利休七哲のひとりに数えられる茶人であると同時に、織田信長が直筆の感状を与えるほどの猛将だった細川忠興。そして徳川秀忠や家光にも篤く信頼された名君で、柳生新陰流の剣士として宮本武蔵とも交流し、「島原の乱」でも武功を立てた細川忠利の3人です。

もともと幕臣だった細川藤孝は、足利義昭と織田信長が対立した際に義昭側に付くという選択肢もありました。また「本能寺の変」の際に、明智光秀に味方するという選択肢もあります。このように決定的な分かれ道を、忠興も忠利も通ることになります。

ひとつひとつの選択が、家の取り潰しに繋がりかねない難しい時代を生き抜いた3人は、いずれも文武ともに優れた能力と、時流を読む政治感覚をもっていたことがわかるでしょう。これほど優秀な人物が3代も続いた理由は何だったのでしょうか。その秘密を探ってみてください。

 

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